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1.一転

 日が落ちる間際に、仁威はいつものごとく環屋へと出かけていった。淡々と己の成すべきことを成す姿は、死闘に近い立ち合いをした直後とは到底思えなかった。


 外が完全に暗くなるまで、晃飛は道場で仰向けで寝転んで過ごした。立ち合いで酷使した精神は極度に疲弊し、何をすることもできず、それゆえ呆然と時のうつろいに身をゆだねるほかなかったのである。その耳には虫の大合唱がうるさいほどに聴こえた。それを長い間聴き続け、いい加減飽きたところで、ようやく起き上がるだけの活力が沸いてきた。


 今が夜だと認識すると、晃飛の足は自然と台所へと向かっていた。もしかしたら妹が腹を空かせているかもしれない、と思いながら。ずっと食欲が落ちたままの珪己が、もしも今夜に限って腹を空かせていたら。そう想像すると、晃飛の足は早まった。


(あ、こういう自分好きかも)


 誰かのために動くことのできる自分、そしてそんな自分を形作る存在。やはり人は自分のためだけに生きたらだめなんだ、それでは楽しくないんだ、とも思いつつ。


 真っ暗な台所の隅、手探りでかまどに火を起こすと、その火を使ってろうそくを灯した。ろうそく特有の温かな炎が、暗いだけだった室内をほんのりと照らした。


 晃飛は次に米と芋を用意した。雑炊を作るためだ。二人分ということで簡単に済ませようと思ったのである。それでも、ここ最近重しのようにくすぶっていた雑念が消えたことで、気分的にはだいぶ楽になっていた。


 調理を始めると、いつもの冷静な自分が戻ってくるのを晃飛は感じた。たとえ何があろうとも日常は繰り返されるというわけだ。一つのことにこだわってはいけないのだと、その大切なことを晃飛は久しぶりに思い出した。ぐつぐつと煮える鍋の音、その中ではじける水泡にすら愛しさを感じる。そして、こういったことをここ最近共有してきた少女のことを思い出し、それにまた晃飛は笑みを浮かべていた。


(妹のこと、本当の妹にしてやろうかな)


 手間も面倒もかかるけれど、一緒にいてこれほど心地よくて面白い女は他にはいない。兄にするなら仁威以外には考えられないし、他の男とは仁威を共有したくないから弟はいらない。年上の女は母に捨てられた過去もあって今でも苦手、もとい嫌いだ。だが妹ならいてもいい。


(うん、それいいかも)


 だがすぐに思い直した。


(なんて、そんなこと言ったら嫌そうな顔をするに決まってるか)


 珪己しかり、仁威しかり。きっと眉間にしわを寄せてこう言うだろう。何を企んでいるのか、と。想像するだけで愉快になって、笑みがさらに広がった。


 出来上がったものは晃飛の目にもおいしそうに映った。めったに使わない米の粒が汁の中にひしめき輝いている。小ぶりの丼に熱々の雑炊を掬い入れ、贅沢に生卵を添えて盆に載せると、それを片手で器用に持って珪己がこもっている室へと向かった。


「おおーい、起きてる?」


 こんこん、と薄い戸を叩いたが返答はなかった。


「飯持ってきたぞ。お嬢様の好きそうなもの作ってきてやったから」


 再度の声掛けにも反応はなかった。


「入るからね、いい?」


 いいかと問いつつも返事は待たず、本来は他人であるはずの年頃の少女の眠る室の戸を、晃飛は勢いよく開けた。眠っているかもしれないが、朝以降食事をとっていないのだから、起こして無理やりにでも食べさせる必要がある。せめて雑炊の汁だけでも飲ませなくては。


 だがその視線が寝台の上に注がれたとたん。


「……おいっ!」


 晃飛の表情は一転して険しくなった。


「大丈夫か?!」


 寝台の上には――苦しみに耐える珪己が横たわっていた。


 思わず手に持つ盆を手近な机の上に投げ置いていた。盆の上で食器類ががちゃりと鈍い音を立てたが気に留める余裕はない。大股で珪己のそばへと近づき、至近距離であらためて見て……晃飛は言葉を失った。


 額に浮かぶ脂汗の量が尋常ではない。呼吸が短く浅い。両の手が下腹部に置かれており、背を丸めていることからも、腹痛に苦しんでいるのだと分かる。汗で濡れた額に手を当てると熱はないようだった。だが今も晃飛が部屋に入ったことにすら気づいていない。目をつむり小さくうめいている。あまりいい状態とはいえなかった。いや、かなり良くない状態だ。


「もう、何か痛んだ物でも食べたんでしょ」


 つい腹立ち紛れにこぼしたものの、本当にそんなことを思っているわけではない。


(こんなふうになる前になんで言わないんだよ、この子は……)


 あまりに心に負荷がかかり過ぎると胃が痛み、時には血を吐くこともあるという。その出所の一つはやはり自分であって、であれば珪己が誰にも頼れないのも当然だった。


 晃飛は少し頭を巡らせ、結論づけた。

 この家で保有している薬では対処できそうにもない。

 だが状況からして一刻の猶予もなさそうだ。

 それならば――。


「俺、医師を呼んでくるから! もうちょっとの辛抱だからね、待ってるんだよ!」


 とるものもとらずに部屋を飛び出した。



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