2.幸福と孤独と
「ちょっといいか」
道場で一人、稽古用の長剣の手入れをしていたところ、仁威に声を掛けられた。
「んー」
それに応じた晃飛の声は随分気が抜けていた。そして声音とおり、晃飛は一切顔を上げようとせず、手を止めることもなかった。
仁威が晃飛の元に近づくたびに、老朽化した板間が小さく振動し、ぎいっと重く低い音が鳴った。やがて足音は至近距離で止まり、そこに仁威が無造作に胡坐をかいて座った。晃飛の視界の片隅に、仁威が穿く裳(下半身に巻くスカートのようなもの)の薄暗い藍色が入った。それでも晃飛は強情なまでに剣の手入れを続けている。
「砥ぎ過ぎてもいけないし、かといってあんまりなまくらでも練習にならないし、稽古用の剣って扱いが難しいよね」
いまだ顔も上げない晃飛を、しかし仁威は特段不思議には思っていないようだ。
「そうだな。だがお前の用意するものはそれなりにいいぞ」
「それなりって……。あのさあ、仁兄と同列の剣なんか俺に用意できるわけないだろ」
晃飛がいら立ちをもって顔を上げ、そこでようやく二人の視線が合った。
目が合った瞬間――晃飛の胸の内にはびこっていた重苦しい何かが霧散した。まるで幻のように。
仁威の瞳には澄んだ光しか見えなかった。そこには再会してから当たり前となりつつあった晃飛へのいら立ち、罵倒の色はなかった。それが余計に晃飛の良心をまさぐったのだ。
(……ああ、そうか)
すとんと、急にすべてが理解できた。
(俺が色々やらかしたせいで仁兄とあの子に負担をかけてるんだ……)
あれほどの惑いの中にあったというのに――なぜか急に理解できてしまった。
ここに二人を住まわせだした日に、晃飛は仁威に『約束』することを強要している。珪己に対して恋愛感情を持つな、と。三人で一つ屋根の下に住むためには当然のことだと、適当な理由をつけて言いくるめて。……今思えばずいぶん勝手な要求だった。
その時、仁威は首肯しながらもわずかに視線を揺らした。だがもうその時点で晃飛にも分かっていたのだ。できない約束を強要しているのだ……と。
その約束をしなくては二人は住む場所を確保できなかった。当時の二人は生きること自体に限界がきていたからだ。そんな状況であるのに、断ることもできない提案をし、約束という名で縛ったのは……晃飛自身だ。
仁威が珪己への想いを認めまいと苦悩している様子にも気づいていた。晃飛と交わした約束以上の何かが仁威の恋心を拘束しているのは確かだった。だが晃飛は常に自分自身の存在を仁威に示し続けた。それは確かに仁威の言動を強く抑制することに成功していた。
だがそうやって一方を抑え続けた結果が――これだ。
仁威は珪己への好意を認めた。珪己もまたそれに応えた。いや、実際にはそれは珪己の側から示され、それに仁威が呼応したのだが、詳細を知らない晃飛にとってことの顛末はどうでもいい。大事なことは、今、二人がお互いへの愛しさを認識し、またそれをお互いに伝えあっているという点に尽きる。
普通の男女であれば、その時点でお互いへの恋心を認める。一方が打ち明け、もう一方がそれに喜びをもって応えるものだ。言葉はなくてもかまわない。見つめ合う視線、交わす言葉、ちょっとした所作でも、恋を伝える手段は無数にある。
なのに、二人はその段階に至ることができなかった。
晃飛にもすべての原因は解明できていない。当事者ではないからだ。いや、当事者の二人ですらいまだに分かっていない。なぜこのような事態に陥ってしまったのか、と。
しかしここまでくれば、晃飛とて一つの事実を認めざるを得なかった。己の言動が二人の関係を悪化させた一因であるということを。
だが晃飛にも言い分があった。自身が唯一慕う人物、男との思い出を守りたかったのだ。ずっと昔のままの仁威でいてほしい、少なくともここにいる間は変わらないでいてほしい、そう願ったとしてなんの罪があろうか。
もしかしたら一生再会することもなかった、大切な人。強い人。あこがれの人。それが晃飛にとっての袁仁威という男だった。
その男が突然目の前に現れて、しかも見下すべき野蛮な武官共に滅多打ちにされている現場を目撃して。他人に情をかけていることを知って。しかもその他人というのは女で。……仁威がもっとも嫌悪していたはずの女で。
深い憧憬を抱く人物が、これまでと真逆の様子を見せれば、それに反発心を抱くのは当然ではないか。だから晃飛がしてきたことはなんの咎を受けることでもないはずなのだ。
(せめてもっとあの子が嫌な女だったらよかったんだ……)
剣を研ぐ晃飛の手に力がこもった。さび色の水で手が汚れていくのにもかまうことなく。
出会った当初、晃飛は珪己に必要以上に関わるつもりはなかった。仁威に悪影響を与える危険因子だとすら思っていた。こいつさえいなければ、そう思えるほどには嫌悪を感じていた。
なのにいつの間にか、晃飛は珪己のことを憎からず思うようになっていた。今ではまるで実の妹のように、親愛の情すら感じている。それでも意地悪をしてしまうのは……それもまた晃飛が人である証なのだろう。
親しみを感じている相手であっても、やはり他人は他人で。
他人よりは自分が可愛くて。
自分の感情、価値観を最優先にすれば、珪己以上に仁威を、仁威以上に自分を大切にしたくなる。それが晃飛という人間だった。
だから二人の恋も踏みつぶしたくなってしまうのだ。
二人の恋が成就すれば……自分はまた一人ぼっちになってしまう。
愛犬・真白がいなくなり、得たばかりの義兄、それに義妹もいなくなれば……そしたら晃飛に残されるものはむなしさだけだ。例えばほら、この剣を研ぐ作業も、無言で行う自分をみすぼらしく哀れに思うようになるのだろう。今までは何ら孤独を感じることはなかった、何の変哲もない作業一つにすら。
一人で暮らしていた頃の方が幸せだったのかもしれない。死ぬ間際までただ一人で暮らしていれば、きっとこんなふうに嫌な人間に成り下がることはなかった。一人になる恐怖を予測し、一人ぼっちになりたくないがために、大切な人々の幸せを壊そうなどとは思わなかった……。
誰かと共にいることの幸福とは、いつの日か訪れる孤独への恐怖と闘える強い者にしか得られないものなのだろうか。自分自身の醜さを知らねば得られないものなのだろうか。まるで蜜と毒の両方が練り込んであるかぐわしい菓子を食べるかのごとく。だがそのような危険なものだと知っていたら、いったい誰が手に取るだろうか。
しかし晃飛はすでにその菓子を口にしている。
きっと真白を得た瞬間からこの運命は定められていたのだ。晃飛は真白と暮らす日々から、その菓子の甘さと苦さを体験してしまった。幸せと、そして孤独を。だから晃飛はこの街に移り住み一人で暮らすことを選んだ。二度と甘さゆえの苦みを感じたくなかったから。
だが仁威との再会、珪己との出会いは、遠ざけていた甘さを思い出させた。そして表裏一体である苦さを連想させた。失えばまた辛い思いをすることを思い出してしまったのだ。
一度経験したことを人は容易には忘れることはできない。それが価値あるものであればなおさらだ。
作業の手を止め、晃飛はいつの間にか深い思索に入っていた。そんな晃飛を、仁威が何やら思いながら見ている。
肌に感じるぴりりとした気配にようやく気づき、晃飛は不自然ではない程度の速さで作業を再開した。
ざ、ざ、と剣を研ぐ音が二人の間で単調に響きだした。その音を聴きながら、晃飛は己の内の感情を落ち着かせていった。




