1.詮索、憂鬱
さて、話はまたかりそめの三兄妹に戻る。
あの夜、そしてあの夕暮れ時に環屋において仁威が桔梗との会話から得たこと、それは唯一無二の愛に対する恐れと新たな決意だった。それらは仁威の内面に深く影響し、複雑に揺れ動いていた感情を皮肉にも落ち着かせたのだった。
(大切なものを護ること)
(やはりそれを第一に考えるべきなんだ)
仁威が下した決断は至極当然の発想でもあった。八年前の楊武襲撃事変以来、仁威は常にそのように考え続けてきたからだ。
大切なものが何か、そこで迷ってはいけない。
大切なものはいつでも一つに決めておかなくてはいけない。
そうしなくてはいざという時に行動に迷いが生じる。迷いが生じれば隙が生まれる。それでは十二分に実力を発揮することなど、できようもない。
一つに決める。
決めたら、あとは全力で護るだけだ。
その場合、他のことには決して構ってはいけない。そうしなくては護るべきものを護れないからだ。ただひたすら、その一つに集中することこそが肝要なのだ――。
では仁威にとっての大切なものとは何か。
それは突き詰めれば『誠実に生きること』、これに尽きたのであった。
そのただ一つの重要な信念はさながら仁威を支える一本の大樹なのである。大樹は枝分かれし幾多の事柄に反映されてはいるが、源である幹に従ってすべてを定めている。そうやって仁威は日々の言動を選択してきたのだった。
たとえばそのうちの一つ、過去に犯した罪を償い続ける人生を選ぶこと。
たとえばそのうちの一つ、唯一と感じられる愛を叶えたいと願うこと。
そして仁威には悲しい癖があった。何かしら選択し難いものがあった場合、自分の価値を低くみることで選択をしてしまう癖が。そうすることで己が精神を保とうとする癖が……。
珪己は言った。罪は自分一人で定めるものではないと。あなたは大切な人だと。それらの言葉に仁威の心が動いたことは事実だ。珪己が言わんとすることも十二分に理解している。それでも……それでも最終的に仁威が選び取ったのは己が信ずるところであり、歩き慣れた道だった。
だから仁威は自身の恋心よりも『珪己そのもの』を優先することを選択したのであった。普通激しい恋を実感したなら、理屈など抜きにして思うがままに行動してもゆるされるだろうに……。
それでも仁威は甘い恋に至る道を自ら拒絶したのである。
*
長くて厳しい夏も天空を支配する神の意志には逆らえなかったようだ。高山から麓へと流れ下りてくる風は、ともすれば流水のように冷たくなり、夜になれば零央は肌寒くすら感じる気候になりつつあった。
それでも、この街の子供は膝上までの丈の衣と裸足で今日も元気に遊んでいる。子供らはいつでも元気いっぱいだ。このような街では、子供は学ぶことと働くことと遊ぶこと、この三つを大車輪とした生活を送るものだから、ひと時の遊戯の時間は貴重なご褒美であり息抜きの時間でもあるのだ。だから、午前と午後、休憩を兼ねてほぼ決まった時間になると、店の軒が並ぶ表通りは牛馬よりも子供の数が多く見られるようになる。それを大人たちは笑って見守るのが常だ。
道端できゃっきゃっと跳ねる子供達をすれすれのところで避けたのは晃飛だ。だがその顔には覇気がない。まだ二十と少し、年若く武芸者特有の健やかな体つきをしていても、鬱屈した心が表にでてしまっている。
その晃飛を呼び止める声が子供達の群れの中から聞こえた。
「梁先生、どうしたの? 元気ないねえ」
「ああ……応か」
子供の集団に混ざっていた一人は大人で、それは五番隊の応双然だった。以前、晃飛に南の方で伝承される業、突きの返し業をやってみせたあの新人武官だ。双然の顔は居並ぶ子供達に引けを取らないくらいに紅潮しており、直前まで本気で遊んでいたことは明白だった。この時間、まだ成人のほとんどは労働に勤しんでいるものなのだが。
「お前、暇なんだな」
「暇じゃないよ」
双然がむっと唇を尖らせた。遊んでいる最中の子供に同じことを言ったら十中八九誰もが同じような顔つきになり同じように否定するだろう。
嘆息してみせた晃飛だが、当の本人はなんとも思っていないようだ。
「お前、確か週二勤務なんだよな」
廂軍はいわば形式だけの軍だから、人数合わせで入隊したような者の中には変則的に働く者がいる。その大半は本業との兼務者であり、軍務のほうこそが副業なのだ。開陽の近衛軍とは心構えからしてまったく異なることが、こういったところでも如実に分かる。
「そうだよ?」
子供達は大人二人に気をきかせたかのように、空を飛んでいたトンボを追いかけてどこぞへと駆けていった。
「てことは週に五日はそうやって遊んでるの?」
「まっさかあ!」
至極面白い冗談を言われたかのように、双然がぷっと吹き出した。
「ちゃーんと仕事してるに決まってるでしょ」
「だよな、さすがに」
年のころからして、週に五日も遊んでいるわけはないか、きっと実家の稼業を手伝うくらいはしているのだろうと思いつつ、ふと気になった晃飛は訊いてみた。
「応は年はいくつなんだ?」
見た目からは自分とほぼ同じ、少なくとも二つ違いだと思うが、こうして明るい日の下で普段着を纏っていると、もう少し年上なようにも思えたのだ。
双然がにやっと笑った。
「いくつだと思う?」
「は?」
「当ててみてよ。当たったらいいものあげる」
「何を年増女みたいなことを言ってやがる」
だが双然はめげない。しつこく「当ててみてよ」と繰り返してくる。しまいには「先生って年上の女と付き合ってるって噂、本当?」とまで言い出した。
「はあ?」
「ほら、環屋の女将といい仲なんでしょ?」
「……ああ、そのことか」
確かに晃飛はしょっちゅう環屋に出入りしている。だが、そのことを正面から言及してきた人物は双然が初めてだった。
(そういや、十番隊の毛のことを訊いてきたのもこいつだけだったな)
目つきが鋭く普段から人に対して一歩引いて接する晃飛は、そのかいあって他人から詮索された経験がほとんどない。それゆえ、双然のようにあっけらかんと接してくる人物は物珍しかった。
「やっぱりそうなの?」
小指を立ててみせた双然はやはり無垢な子供のようで、そのような仕草をされては晃飛もごまかす気にもならず、苦笑いを浮かべつつもつい答えていた。
「あいつは肉親なんだよ」
「肉親? へえ、親戚か何か?」
「まあそんなところかな」
「あ、確かにちょっと似てるかも。女将と梁先生」
「そうか?」
「そうだよ。言われたことない?」
「……あるな」
「ほーらね」
嬉しそうに肩をすくめてみせた双然は、先ほどまでいた子供達の誰よりも幼く見えた。
「あそこの女将さんって、前は山北州に住んでたんだよね」
これについては、なにも双然が情報通なわけではない。零央一の妓楼を継いだ女将の素性はこの街の成人であれば誰もが知っていることだからだ。もちろんその後に続くこと、つまり所帯持ちだったくせに文官の男と駆け落ちして西門州にやって来たことや、その男とすら離縁して妓楼に入ったことも、何もかもが公事になっている。
だが。
「なあるほどね」
そう言った瞬間。
双然の浮かべた笑みは意味深なものとなっていた。
まるで幼子が一気に老成したかのように。
何も分からない、理解していないような笑みが、一転してすべてを知り尽くした賢者のような深い顔つきに変貌していた。
だがそれは本当に一瞬のことだったので、日頃から他人と接し慣れていない晃飛は見逃してしまった。これが仁威であれば武芸者としての鍛錬の成果もあって必ず気づいていただろうが……。
双然は急にくるりと振り返ると、晃飛に背を向けて歩き出した。それはあまりに突然のことで、晃飛はしばらくあっけにとられた。だが晃飛も小さく首を振ると、目的地――自宅へと向かいだした。元の通り陰鬱な表情を浮かべて。
*
今、晃飛にとって自宅とは喜び勇んで帰りたい場所ではなかった。
帰宅すれば仁威と珪己がいる。この二人の義兄妹のことは嫌いではないし、はっきり言えば肉親以上の親愛の情を抱いている。だが二人のぎくしゃくとした関係に晃飛は完全に板挟みとなっていた。
仁威の見せる表情は険しく、笑みを見せることもほとんどなくなってしまった。それに珪己がなんとはなしに不安げな表情を見せるのだが、それにも仁威は頑な態度を貫いている始末だった。
二人の間にまたもや広がっていく微妙な距離の変化に、晃飛は当然気づいていた。だが何もできずにいる。晃飛も晃飛で、自分が何をすべきで何をすべきではないのかが分からなくなり混乱している最中にあったからだ。
環屋で立ち聞きした仁威と桔梗の会話も、晃飛の混乱を助長していた。
『お前はいいな』そうつぶやいた仁威。
それに『どういうこと?』と尋ね返した桔梗。
『お前には帰りを待っていてくれる者がいるんだろう? それが、な』そう答えた仁威。
『隼平さんには待っていてくれる人がいないってこと?』と問い直した桔梗。
『そうだな……。俺にはそういう存在はない』
『家族はいないの? 恋人も? 好きな人も?』
『それらがいることと待ち人がいることは同じではないから……な』
それらがいることと待ち人がいることは同じではない。
この最後の一言にはひどく重みがあった。
思わずその場を逃げ出したくなるほどに――。
それから、晃飛が何もしないことを選択しているうちに、夏の色はあっという間に褪せてしまった。なのに暑さが和らいできたというのに珪己の食欲はいよいよもって落ちていく一方で、しかも武芸の稽古にはより一層熱心になる有様だった。そして当然の結果として疲労と心労は蓄積され……。
秋の香りが漂い出したというのに、珪己はとうとう一日中寝込むほどに衰弱してしまった。
晃飛はのろのろと自宅へと入っていく。
なにも病人の面倒を看たくないわけではない。そこまで非人道的ではない。ただ、この二人を見ていると自分の良くない点をつぶさに指摘されているような気がしてならないのだ。他者と関わりを持たずに長年暮らしてきた弊害ともいえるが、自分を否定されることに慣れていながいゆえに、最近の晃飛は一日一日が長く辛く感じられるようになっていた。日々はまるで長く先の見えない闇の森の中にいるようであった。
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