4.なぐさめるのは自分だ
「なんかあの親父、かっこよかったよなあ」
寝台に寝転がる空也は、心地よい満腹感に満たされて目を閉じている。二人は結局、食堂の隣の宿坊に泊まることを選んだのだった。ああいう親父が住む近辺であれば落ち着いて滞在ができるだろう、と。世間一般でいう中の下の宿は二人の性分にほどよく合い、少し狭い部屋も堅い寝台も、逆に落ち着いて過ごせそうだ。
もう一つの寝台に腰かけながら空斗が伸びをした。
「じゃあ、思いきってここに住むか?」
「あ、それいいかもね」
ぱっぱっと決めていくのは若さゆえの行動でもあるが、二人が己が感性に従ってこれまで生きてきたからでもある。その最たる例は義兄弟の契りを結んだことで、実は出会ってひと月もせずにそうすることを決めている。
それでも。
「とはいえ、定住するとなると住まいと仕事は必要だからな」
現実的に判断しようとするのは、年長の空斗のほうである。
「それもそうだね」
素直なのは弟の空也のほうだ。
「でも俺らでできる仕事って武官しかなくね? 廂兵には楽勝でなれるだろうけどさ……でも俺、それだけは嫌だ」
「ああ。俺も武官はもうこりごりだ。それに廂軍では禁軍出身者を軽んじるようだから、俺たちには居心地が悪いに決まっている」
「だよなー」
兄・空斗の言い分は正しく、地方の軍である廂軍とは、禁軍で勤めるほどの素質のない者や、禁兵ではあったものの怪我や高齢を理由に落廂した者を集めた、いわゆる二流の軍隊だった。
であれば武官の中でも上位にいた禁軍出身者は廂軍で敬われそうなものだが……実態は違っていて、その真逆の扱いを受けることがほとんどだった。落廂した者の大半が無視やいびり、果ては訓練という名の虐待を受けている。
氾兄弟は、弟はともかく兄の方は自己都合で退職したので、たとえ廂軍に所属したとしても落廂したわけではないのだが、それでも『元禁兵』の看板を背負っての入隊となるわけで、となると廂軍での未来は簡単に予想がつくのであった。
しかしそんな予想図はさておき、やはり二人の素直な気持ちとしては『武官はこりごり』、これに尽きた。
「もう剣を持つのも斬られるのも勘弁だなあ」
そう言う空也の表情は余裕しゃくしゃくだが、真実そう思っていることを空斗は知っていた。空斗自身も、人が斬られる場面などもう見たくもなかったからだ。それに、もう一度剣を握って敵と立ち向かう度胸もない。あの日、あの青い目の芯国人に剣を向けたのはひとえに弟を護るため、それだけだった。
あの日のことを空斗は時折夢に見る。
こちらに向けられた細く短い剣、刃を濡らす赤い鮮血。
冷ややかな笑みを浮かべた芯国人は、その青い目でたった一つの意志を空斗に伝えてきた。
『殺すぞ――』
震えかかった手を、空斗はきつく握りしめた。
この動揺を弟に悟られてはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
今もっとも辛いのは剣を握れなくなり一生ものの深手を負った弟のほうで、自分ではない。背中が燃えるように熱いと真夜中にうなされては起きる弟、その背に水で濡らした手巾を置いてなぐさめるのは自分の役目だ。だから自分はなぐさめられる側では――決してない。
(もっと強くならなければ――)
「そういえばさ」
空也ののんきな声は空斗を救った。
「なんだ?」
「あの親父、少し呉枢密院事に似てなかった?」
「ああ、そうかもな」
空斗の同意に、空也が喜んで飛び起きた。
「だよなだよな? なんか似てるんだよな。体格とか笑い方とかさ」
空也に笑みを向けて同意しながら、空斗は内心では冷や汗をかいていた。突然その高位にある青年の名前を出されて驚いたのだ。空斗にとっても呉隼平とはあの親父のような懐の深い人物であった。だがその名を聞くと連鎖して思い出される同位の男には異なる感情しか覚えない――。
禁軍を辞するための手続きを滞りなく終えたとある初夏の夕方、空斗の元にその緋袍の男は突然現れた。若くして緋袍をまとう男は、腰に枢密院所属の文官である証、青玉の飾りをつけていた。
男の正体はすぐに思い出せた。
あの悪夢の一日、枢密副史の李の家でちらりと見かけただけだが、空斗は一瞬にして思い出せた。
『私は枢密院事の高良季という』
青年は背後に都の団長を従え、堂々たる態度で開口一番に名乗った。
もうあとは自宅に戻って旅立つための荷造りをし直して……と、完全に気が緩んでいた空斗は、良季の放つ威圧的な雰囲気に一瞬にして呑まれてしまった。
『呉枢密院事は言わなかったようだが私は言う。いや、命じる――』
「……兄貴? 兄貴?」
声に意識を現実に戻すと、空也がやや心配気な顔をして空斗の顔を覗き込んでいた。
「どうした?」
「いや。なんでもない。疲れたかな」
だが誤魔化しは確実にばれていて、空也がさらに口を開きかけたその時。
「さあ、もう寝ろ。ここでしばらく腰を据えていろいろ見て回ろう」
そう言うや空斗は寝台に寝ころび、空也に背を向けて目を閉じた。もうこれ以上は会話はしない、そう宣言するかのように。
やがて空也が大きなため息をついた。
部屋の明かりが消され、しばらくして空也の規則正しい寝息が聞こえるようになった。だが空斗は目を閉じたままじっと何かを考え続けていた。
次話から第六章です。




