結界
何が起きているのか、分からない。
兄に腕を引きずられ、陽一郎は頭を抱えて歩いた。
「兄者、やめてくれ」
「鬼を殺すのに人手が足りないんだ。お前でも役に立つだろう」
連れて行かれた場所は、昨日の鬼が現れた社に上がっていく手前の山すそだった。夕べの雨で土はぬかるんでいて、踏みしめられた泥土にまみれ、藤模様の小袖姿の若い女が村人に囲まれてうずくまっていた。その女の両手両足は縛られている。
「なんてひどい事を……」
呟いた陽一郎は強引にそこへ連れて行かれた。女が陽一郎を見た。どこかで見たことのある顔だった。
「陽一郎さま……」
女が云ったが、陽一郎は眉をひそめた。
「知り合いか?」
「いや、俺は知らぬ」
陽一郎は首を振った。こんな女に知り合いはいない。しかし、見れば見るほど美しい女だった。
「気をつけろ、この女は鬼なのだからな」
兄が云った。
「だが、確かに美しい」
兄が女のそばに寄り、しゃがみ込むと女の顔をじっくりと覗き込んだ。女は顔をそむけたが、その頬を強引につかみ、こちらを向かせた。そして、身動きの取れない女の頬を手のひらで撫でた。
「すごく滑らかな肌だ。殺すのはもったいない。どうだ、鬼、云うことを聞くのであれば、俺の物にしてやってもいいぞ」
「許して下さいませ」
「ははは。殺すのは後だ。こいつをなぶってからにしよう」
また、兄の悪い癖だ。
陽一郎は顔をそむけた。
「陽一郎さまっ」
女が叫ぶ。黙れ、俺はお前など知らないのに。
「陽一郎、本当に知らんのか?」
「ああ、知らぬ」
陽一郎は答えた。苦しかった。喉が熱く、嫌な気持ちでいっぱいになる。
「だったら、お前の手で殺せ」
「なぜ? この女は鬼ではない。ただの女だ。なぜ、殺さねばならんのです」
「それは鬼だからだ」
これでは埒が明かない。どうすれば皆を落ち着かせることができるのだろうか。
陽一郎は女を見た。目が合うと、女はサッと目を逸らした。陽一郎はむっとする。なぜ、自分の事を知っていると云ったのに目を逸らす。
「陽一郎、お前が殺さないのなら、俺がやるぞ」
兄がそう言って腰に差していた短刀をすらりと抜いた。
このままでは本当に女が殺されてしまう。
「分かったよ。俺が殺る」
陽一郎は狩りに使っている刀を抜いた。女のそばにしゃがみこむと、女がびくりと体を引く。陽一郎は顔を寄せて小声で囁いた。
「殺しはせぬ」
「え?」
「俺の腕を切るから、刺されたように見せかけてくれ」
「やめて下さい、あなた様が傷付きます」
「大したことはないから」
陽一郎は心配させないように云ったが、女は涙ぐんで首を振った。
「……殺して下さい」
「え?」
「本当に殺して、そして、わたくしを……、このままのわたくしを還してください」
還す?
陽一郎は目を閉じた。何か大事な……何かがよぎる。その時、
「旦那さまっ」
花がどこからか駆けてきて、陽一郎に抱きついた。
「花っ」
女が目を見開いてそれを見ていた。
「花さま……?」
「花、ここは危ない。離れてろ」
「でも、うぐいす姫さまのお命が危ないのでしょう?」
「どくんだ」
陽一郎たちのやり取りを女が見ている。何だか居たたまれない気持ちになった。
「いいから離れてろ」
「へえ……」
花がとぼとぼと離れて行く。その後ろ姿を見送って女を見た。女は傷ついた顔をしていた。
「お願いです。どうか、わたくしをこのまま月へ還してください」
月へ還りたい。
どこかで聞いた声だ。
陽一郎は、目を閉じた。自然と言葉があふれる。
「いや、許さぬ……」
「陽一郎さま……」
女の目から涙があふれた。
「ああ……」
陽一郎は胸をかきむしった。
この女が誰なのか、知らない。
でも、勝手に体が求める。
陽一郎は、うぐいす姫を抱きしめた。
「血迷ったか陽一郎」
背後で兄の声が冷ややかに聞こえた。
「やめてけれっ」
花の悲鳴がして、気づけば、自分とうぐいす姫をかばうようにして、花のお腹に刀が突き刺さっていた。
「花さまっ」
うぐいす姫が悲鳴を上げた。
「鬼をかばう者は殺す」
「兄者、何を……」
「花さまっ。なぜ? どうしてこんな事に……」
その時、うぐいす姫の髪が金色に変わり始めた。角が生えて口から牙が伸び、顔を上げたその目は赤く光った。縛られていた手足の縄をちぎり、鋭い爪で兄に飛びかかろうとした。
「鬼だ、殺せっ」
兄が刀を引き抜くと、花の体が崩れ落ちた。
「花っ」
陽一郎はすかさず花を抱きとめた。うぐいす姫がそれを見て兄を睨みつけた。
「主、許さぬ」
「ほら、やはり鬼だ。殺せっ」
うぐいす姫はかっと目を見開くと、陽一郎の体をすり抜け兄の腕にかぶり付いた。兄が悲鳴を上げる。
うぐいす姫はその鋭い爪で一気に兄の心臓を貫いた。絶命した兄は手を喰われた。仲間たちが逃げ去り、残された兄はどんどんと鬼に喰われていく。
「うぐいす姫さま……」
花が手を伸ばした。鬼にはもう、聞こえていないようだった。
「旦那さま……、姫さまを止めてくだせえ。あまりにもかわいそうじゃ」
「花っ」
花の腹からは血が溢れている。自分をかばったのだ。
「花っ、死ぬな……」
「しあわせでした……。旦那さまはうぐいす姫さまをお守りくだせえ」
「なぜ……」
「だって……、あのお方は、あなたが好きになったお方でございましょ。大切なお方でございましょ」
花の言葉がか細くなり、聞こえなくなった。
「花っ」
陽一郎が叫んだ時、後ろでヒューヒューと喉で息をする音がした。振り向くと血まみれの鬼がこちらを見ていた。
「その者、よく聞くがよい。我の怒りはこれでおさまったわけではない。これより我はこの村の男どもを全て喰い殺すことにした」
陽一郎は、花を強く抱きしめた。
「おやめ……ください……」
「お前、名を何と云う」
鬼は目を細めると、陽一郎に名を尋ねた。陽一郎は、泣きながら答えた。
「俺は、陽一郎と申します」
「陽一郎……」
鬼は呟くと、それきり何も云わなかった。口についた血をぬぐい、振り向くと、すうっとどこかへ消えてしまった。
陽一郎は、花を抱きしめたまま、涙をこぼした。
「花、俺をかばうなんて、どうしてこんなことをした。俺はお前がいないと、どうしていいか分からないっ」
揺さぶったが花はもう動かない。
「花っ」
花の亡骸を抱きしめて、陽一郎は泣いた。




