記憶
「覚えている記憶はありますか?」
陽一郎は、面と向かって鬼と話をしていた。
鬼の顔は白く、金色の髪もほぼ灰色になっていた。印象として、弱々しい老婆を想わせる。
鬼は、しばらく陽一郎をじっと見つめてから、表情も変えずに静かに答えた。
「記憶か。我には母がいた。母は鬼ではないぞ。鬼は、この娘の愚かな気持ちが作りだした虚像であるからの」
虚像。では、実体ではないのか。
「姫は人ではない。月から来たのじゃ」
「月…」
陽一郎が呟くと、鬼が愛しそうに月を眺めた。
そういえば、うぐいす姫もよく月を眺めていた。
もし、名前を思いだしたら、鬼は還ってしまうのだろうか。
急に、胸がざわついた。
「主、我に名前を思い出させると云うたな」
「はい」
「主の云うとおりじゃ、我は名を思いだしたら月に還ることができるであろう。しかし、もう無理なのじゃ」
「なぜですか」
「我は鬼じゃ。母が望んでいるのは……」
鬼は一瞬、押し黙った。何か考えている様子だった。
「母が望むのは我でないことは確かじゃ」
鬼がすくっと立ち上がった。そして、黙っていなくなる。
陽一郎は胸騒ぎがした。一人でいると落ち着かない気持ちになった。
立ち上がって月を見た。
月。うぐいす姫は月に還ってしまう。
俺のうぐいす姫が還ってしまう。
嫌だ。そんなのは許さない。
俺の元から、うぐいす姫を奪うなんて、絶対にさせない――。
――おい…、あんた。なあってば。
陽一郎の目は月を睨んでいる。しかし、自分の声は聞こえていない。
――待てよ。それは身勝手な考えじゃねえか?
過去の記憶を追いかけていた陽一が叫んだ。
――陽一郎、あんた、何とかしろよ。
強引に過去を見せられた陽一は、陽一郎に向かって怒鳴った。
――ダメだ。わたしたちの声は聞こえない。
月から目線を外すと、過去の陽一郎は鬼が置いていった刀の先をじっと見つめた。
それは自分の右手を切り落とすはずの刀――。
陽一郎は刀を手に取って腰に帯びると、鬼の後を追いかけた。
――あんた、この後何をするんだ。
陽一は不安に駆られた。嫌な予感しかしない。
鬼は屋敷の中におらず、外へ出て空を眺めていた。陽一郎が背後に立つと、息を吐いた。
「満月じゃ」
「ええ」
鬼の名は何と云うのだろう。痩せた細い背中を見ていると老婆のように小さく見えた。
「どうしたのじゃ? 我に名前を思い出させるのではなかったのか?」
鬼がからかうように云うと、陽一郎が持っていた刀を鬼の首筋に当てた。
鬼は、ただ陽一郎をじっと見た。
「殺したいか」
「還さない」
陽一郎が喉から絞りだすように云った。
「あなたは俺のものだ。月へなど還すものか」
鬼の目が細くなった。
「ほお、陽一郎、主は鬼でもよいのか? 我には名前もない。ただの人食い鬼ぞ」
「あなたはうぐいす姫だっ」
陽一郎が叫んだ。
鬼は首を振った。
「そのまま我の首を刎ねようとしても無駄ぞ。我を殺すことはできぬ」
「だ、だが、俺にしか殺せぬと云った」
「もう遅い。手おくれじゃ」
陽一郎の手から刀が落ちた。彼は嗚咽を漏らし、泣き始めた。
「うぐいす姫さまにお会いしたい…っ」
鬼が刀を拾って、再び、陽一郎に握らせた。
「何を…?」
「護身用に持っておけ。これは、主を守ってくれる」
「どうすればうぐいす姫にもう一度会えるのですか? 教えてください。お願いいたします。最後にもう一度、姫に会いたい」
「名を…」
「え?」
「我に名前を与えてくれ」
鬼が寂しげに呟いた。
名前を思いだしたらうぐいす姫に戻れる。けれど、月へ還ってしまう。
陽一郎は、頭を抱えた。
過去の様子を窺っていたもう一人の陽一郎は、ふと、隣にいる陽一を見た。
「君は知っているのか?」
「何を?」
陽一は眉をひそめた。
「うぐいす姫の本当の名前だ」
「知らないのか?」
「わたしは知らない」
陽一郎が苦痛に歪んだ顔で答えた。
「彼女の本当の名前を知りたい。わたしは何度、鬼の名前を呼びたいと切に願ったろう。鬼に名前を与えてあげたかった。けれど、わたしは知らないのだっ」
陽一郎が悲鳴のような声を上げた。陽一はその気迫に押されて、思わず言ってしまった。
「晶だよ…」
陽一郎が顔を上げた。
「あきら?」
陽一郎の顔に赤みが差し、陽一の肩を強くつかんだ。
「それが、うぐいす姫の本当の名前なのだなっ」
「う、うん…」
「そうか、あきら様とおっしゃるのか」
陽一郎はうっとりとその名前を口にした。
「陽一郎、山を下りるのじゃ」
不意に鬼が囁いた。
「え?」
顔を上げると、鬼が怖い顔で睨んでいる。
「我を殺すか、もしくは村を去るか」
「どういう意味ですか?」
陽一郎が尋ねると、その時、林の方から草をかき分ける音、木の枝が折れる音がした。
陽一がそちらを見ると、暗い林の奥から村人が何十人も現れた。
「これってやばくねえ?」
「これから鬼狩りが始まる」
「止めろよっ」
「無駄だ」
陽一郎は首を振った。しかし、陽一は何かできる事はないかと過去の陽一郎と鬼の元へ走った。
「無駄だ、よせっ」
陽一郎の叫ぶ声がしたが、構わず走った。
鬼と陽一郎は村人に囲まれていた。村人たちは斧や鍬、刀を持つ者などもいて、皆、目つきが尋常じゃない。
その様子を見て、鬼がにやりと笑った。
「そんな物では我は殺せぬぞ」
腰をかがめて身構える。陽一郎は、はっとして鬼の前に立ちはだかった。
「もう殺しはおやめ下さい」
「どけ、皆殺しにしてやるっ」
鬼が叫んだ。
陽一は、鬼と陽一郎の目の前で立ちすくんでいた。
どうすればいいのだろう。自分には何ができるのか。しかし、方法が分からない。きっと、過去を変えることはできないのだ。
その時、村人の一人が鬼の前に立つ陽一郎を捕まえた。鬼が目を見開く。陽一郎は手首を後ろにまわされ、地面に押し倒された。
「その者を殺すな、殺してはならぬっ」
鬼が叫んだ時、どこかで火を放ったのだろう。ばきばきと木が爆ぜる音がした。
「こいつは鬼の仲間だ。殺せ」
陽一郎を押さえつける村人が血走った目で叫んだ。
鬼はそれを聞くなり、目をかっと見開いた。再び金色に輝きだす。
「許さぬ…!」
「婀姫羅です。あなたの本当のお名前は婀姫羅さまとおっしゃるのですっ」
押さえつけられた陽一郎が叫んだ。
鬼の動きがぴたりと止まった。
陽一は驚きのあまり息をするのを忘れていた。
見ると、村人に虐げられていた過去の陽一郎と、今の陽一郎がひとつになって、鬼に向かって叫んでいた。
「思いだしてください。本当の名前を。あなたは鬼ではありませんっ」
陽一郎は泣いていた。
鬼は、突然、頭を抱えると地面に膝をついた。
すると、灰色の髪が黒くなり、色白の素肌、柔らかい女性の体つきへと変化していった。
鬼が顔を上げると、それは穏やかで美しかったあの頃のうぐいす姫に戻っていた。
うぐいす姫は自分の手と顔に触れると、捕らわれている陽一郎の方へ駆け寄った。
「陽一郎さまっ」
「うぐいす姫さまっ」
村人は茫然として、陽一郎を逃がしてしまった。
うぐいす姫と陽一郎が強く抱きあう。
「思いだしましたか?」
陽一郎が聞くと、うぐいす姫が頷いた。
「ええ、あなたさまのおかげでございます」
その時、うぐいす姫は、陽一郎の腰に帯びていた短剣をすらりと抜いて、自分の腹に押し当てた。
一瞬の事で、誰も動けなかった。
「あっ」
陽一郎が悲鳴を上げる。
うぐいす姫の腹から血が流れだした。姫はほほ笑んだ。
「ありがとうございます。これで、わたくしは鬼ではなく、人として月へ還ることができます」
「うぐいす姫っ」
陽一郎が叫んだ。その時、陽一郎の手を阻むように、うぐいす姫が苦痛に顔を歪めると、再び鬼の姿に戻り、牙を剥いた。
「おのれっ」
髪を振り乱し、鬼が暴れる。
「我は死なぬぞっ」
村人がすぐさま武器を持って、鬼を取り囲んだ。陽一郎がそれをかばう。
傷ついた鬼は、姫に戻ったり鬼となったりしたが、がくりと膝をついた。倒れ込んだ時、村人がうぐいす姫の体に槍を突き刺した。
「やめろ、やめてくれっ」
陽一郎がかばおうとすると、うぐいす姫がゆらりと起き上がった。目から血を流し、悲しげな顔をした姫はふらふらと左右に揺れたかと思うと、体が真っ二つに割れた。
うぐいす姫と鬼。
うぐいす姫は拝むように手を合わせた。鬼は茫然と自分の姿を見下ろし、それから不安げな顔をして、うぐいす姫を見た。
陽一郎はうぐいす姫に駆け寄って抱きしめた。
「陽一郎さま、お伝えしたいことがございます」
「なんですか?」
「……どうか、わたくしのことはお忘れくださいませ、そして、花さまと末長くお幸せになってくださいませ」
陽一郎の顔がこわばった。
花はもういないのだ。しかし、今腕の中にいるうぐいす姫も事切れようとしている。
「そんなことより、あなたは無事に助かることをお考えください」
「あれをお呼びくだされ」
あれ、が何を指すのかすぐには分からなかった。しかし、鬼が自ら近づいて来て、うぐいす姫を見下ろした。
「わたくしの本当の姿」
鬼は冷ややかな目でうぐいす姫を見ていたが、背後から近づいた村人に気づかなかった。
陽一は思わず叫んでいた。
「おいっ、あんたっ、逃げろよっ」
鬼が振り向いた。そして、逃げもせずに、陽一の方をまっすぐに見据えた。
陽一は息を呑んだ。
――我らは月へ還る。
陽一は誰に言っているのだろうと思った。そして、自分だと気付いた。
「え?」
顔を険しくさせた時、鬼の背中に村人の槍が突き刺さった。
「あっ」
陽一郎が、村人の体にぶつかり、二人で地面に倒れ込んだ。
鬼とうぐいす姫は見つめあうと、手を取り合った。
空から白い光が下りてきた。
――母上…。
鬼が顔を上げて涙を流した時、うぐいす姫と鬼を包み込んだ。
陽一郎が後ずさりする。
陽一はそれを見つめていた。
鬼が陽一を見た。
「後は、主に託したぞ」
そう云うと、鬼とうぐいす姫は天に向かって同時に云った。
――我の名は、婀姫羅なり。
白い光はさらに強くなり、二人の姿が天へ上がっていく。
「逃がすなっ、殺せっ」
村人が叫び、槍を投げ、石つぶてを投げようとする者がいたが、それらはすべて光りに遮られた。
「うぐいす姫さま、待って、待ってくだされ…」
陽一郎の悲痛な叫び声が聞こえた。
陽一は茫然とそれらを見ていたが、気がつけば、黄泉の国へ戻っていた。
見覚えのある場所で目が覚める。
「目覚めたか…」
見知らぬ男がほっとした顔で吐息をついた。夜琥弥が背中を支えて起こしてくれた。
傷だらけの体は治っていた。
「折れた骨は戻しておいたから」
夜琥弥がにっこりと笑った。
「ありがとうございます」
陽一が体を起こすと、少し離れた場所で、陽一郎が項垂れて立っていた。
「あんた…」
陽一は呟いて、あとの言葉を失った。




