無力
葵の気配が消えてほっとした陽一は、自分の張った結界が破れませんようにと、ハラハラしながらも相手を見据えた。
一人は、井川英雄、もう一人は見たこともない美女だ。二十代前半くらいで、色白の痩せた女の人だ。こっちを見てほほ笑んでいるが、目がちっとも笑っていない。
結界は、外からは見えず中で衝撃が起きても壊れないようになっている――はずだ。
戦って傷つけあうのは嫌だ。話し合いをしなくてはいけない。
「あ、あのっ」
井川に向かって話しかける。
「佐野さんから事情は聞いています。俺はあなたと争う気は全くありません。佐野さんがご迷惑をかけたかもしれませんが、許してもらえませんか」
井川は怪訝そうに眉をひそめた。言葉が通じていないのだろうか。不安に思うと、女がしゃべった。
「佐之尊はどこにいる」
「え?」
「佐之尊だ。居場所を言えばお前の命は助けてやろう」
話をする気はなさそうだった。陽一は息を呑んだ。
「茅子、気をつけろ、そいつは普通の人間ではない」
井川が女に向かって言った。茅子と呼ばれた女は頷いた。
「この子は何か持っているようだわ。あたしはそれをもらうことにしよう」
茅子が言って、陽一に近寄った。
陽一は後ずさりしながら、どうにかして逃げなくては、と思った。雪もいつの間にかやんでいた。
攻撃を仕掛けてくるだろうか。実戦などしたことない。相手から目を逸らすことだけはしないように、じりじりと下がった。その時、井川が腰を低くして陽一を見据えると、思い切り飛びかかって来た。
嘘だろ?
あっと言う間にタックルされて、地面に背中を打ちつけた。鈍い音がする。
やばい。
顔をしかめて起き上がろうとしたが、痛みで動けない。
「殺しちゃだめよ」
茅子がにやりとする。
陽一は、少しでも抵抗しようとこぶしを握った。手に力が集まる。
腹にまたがっている井川の顔に目がけて力を放出した。普通の人なら吹っ飛ぶくらいの威力なのに、彼は目を開けたまま傷一つない。
井川が手を振り上げた。陽一は思わず顔を手で覆い、無我夢中で体をひねった。井川のこぶしが地面にのめり込む。陽一は、四つん這いになりその場から逃げだしたが、井川が背中に飛び乗り抑え込まれた。地面に顔を押しつけられ、息もできない。
目の前に茅子のブーツのかかとが見えた。女がしゃがみ込んで陽一の顔を覗き込んだ。
「あなたの力、もらうわね、ちょっと痛いけど泣かないでね」
赤い唇はうれしそうだ。陽一は、口を噛みしめると力を込めて吠えた。
「くっそおっ」
グーッと思い切り力を出すと、井川の体が浮いて跳ね飛ばされた。あっと驚いた茅子の顔が見えた。
陽一は、すかさず茅子に向かって飛びかかった。茅子のポケットから、からん、と何かが落ちたが、気にせず茅子をブロック塀に押し付けた。
女に怒りの目で睨まれたが、ここでひるむわけにいかない。
「何をするのっ」
茅子が叫んだ。茅子の両手が塀の中へのめり込む。もっと、力を出して身動きの取れないようにしようとすると、ドンっと足で腰を蹴られた。
「がっ」
陽一は、再び地面へと逆戻りする。
「容赦ならんガキだ」
井川に顔を殴られる。何度も打ちつけられて、目がかすむ。
「殺さないで」
茅子は両手を塀から楽々と抜け出した。血も流れていない。しかし、顔はちっとも笑っておらず、怒り心頭という感じだ。
茅子は手首をさすり、
「私に触れるなんて…」
と、呟いた声と同時に、感じたことのない衝撃を受けた。
陽一は悲鳴を上げたが声にならなかった。
背中で何かされている。だが、何が起きているのか分からない。
目の前が朦朧としてきた。体の中にあった何かが取り出されている気がする。
「黒い石だわ」
茅子が呟くと、陽一はがっくりと頭を落とした。
「モリオンね。天然だから高く売れるわ」
「触っても平気なのか」
井川の声も聞こえた。
「平気よ。これは、もともとハンターがこの少年に渡したものでしょう。この少年のおかげで浄化されているわ」
陽一は指先ひとつ動かせなかった。
晶…。
「何か言った?」
茅子が言ったが、井川は首を振った。
「早くここを去ろう。人に見られる」
茅子は頷くと井川に抱きついた。二人の姿が消える。
晶…。
陽一は目を閉じたまま、晶の顔を思い描いた。
このまま、会えずに死ぬのか。そんなの嫌だ。
晶…。晶…。
何度も彼女の名前を呼んだ。結界が消える。陽一が意識を失ったのだ。
晶…あきら…。アキラ…。
×××××
「陽一?」
庭の花を眺めていた晶は、不意に表情を険しくさせて立ち上がった。
今、陽一の声が聞こえた。
少年の弱々しい声に心臓が冷える。
「陽一っ」
晶は叫んだ。
「晶さま?」
久しぶりに後宮へ見舞いに来ていた舞が驚いて晶を見た。隣には、瑠稚婀もいる。瑠稚婀は顔をしかめ、晶を見た。
「姫」
「お主も何か感じたか」
瑠稚婀が頷いた。
「今すぐ地球へいく」
「晶さま、何があったのですか?」
「陽一の身に何かあったようじゃ。助けに行かねば」
晶が目を閉じた。集中して移動しようとすると、
「なりませぬ」
と、静かに男の声が響いた。
三人の女たちはびくっとした。見ると、俊介が縁に立っていた。
「お兄さま」
舞が驚いた顔で兄を見た。俊介が中に入って来て、膝を突いた。
「帝の命令でございます。姫はまだ、地上へ下りることはなりませぬ」
「しかし、俊介、陽一の一大事ぞ」
焦る晶の目には涙が浮かんでいた。
「我は…、我はもう我慢ならぬ」
「姫」
俊介が静かに云う。
「わたくしが地上へ参ります。陽一の無事を確かめて来ます」
「そんな…」
晶が悲しげに目を伏せた。
「では」
俊介が消える前に、瑠稚婀がさっと手を振り、白い小さな紙切れが俊介の背中に張り付いた。同時に消え去る。
「人形を仕込んだ。俊介殿を通じて、我々にもわかるようにした」
「瑠稚婀さま…」
舞が目を見張る。
「すまぬ…」
晶は自分の無力さに目を閉じた。




