陽一郎
陽一が、うぐいす姫の元へ自ら来たのは想定外のことで動揺してしまった。
しかし、すぐに行動を起こさねば、何のために陽一をここへ連れてきたのか分からなくなってしまう。
うぐいす姫は立ち上がると、赤猪子と陽一の元へ急いだ。赤猪子は結界ギリギリの場所で外側を睨みつけていた。陽一の姿は見えない。
「おばば、陽一郎をどこへやったのだ」
「姫……」
赤猪子は振り向いた時、うぐいす姫の顔を見てハッとした。そして、しわくちゃの顔を引き締めた。
「陽一郎殿は神殿に寝かせておる。言われた通り術をかけて眠らせた。しかし、時間はあまりないようだ。慶之介殿と月の騎士が姫を探しておる。そして、ハンターはもう間もなくここへ集結する」
うぐいす姫はこくりと頷いた。
「兄上たちはこの場所を知らぬのであろう?」
「慶之介殿は、わしがここにおることも知らぬゆえ、見つけるのは容易ではないはず」
「陽一郎の里には手を打ったであろうな?」
「無論、わしがこさえた人型を仕込んでおいた。今頃は夕餉の時間でしょう。問題ない」
「それを聞いて安心した。我はこれから、陽一郎の記憶を呼び覚ます」
「承知いたした。陽一郎殿はよほどのことがない限り目を覚ますことはない。彼の周りにかけた結界も容易には解けぬようにしました」
「恩に着る」
身を翻し、うぐいす姫が陽一の元へ行こうとすると、赤猪子が呼び止めた。
「姫」
「うむ?」
「わしに頼むことはもうないか?」
「ない。おばばは何もしなくてよい」
「……御意に」
うぐいす姫は社の奥にある部屋へ急いだ。一歩足を踏み込むたびに、心臓が早鐘を打ち、立ち止りそうになる。しかし、もう後戻りはできない。
陽一は薄い布団で眠っていた。寝顔はあどけない少年だ。
昔の記憶はおぼろになってきてはいたが、目の前にするとまざまざと過去が思い浮かんでくるようだった。
うぐいす姫は目を閉じて深呼吸をすると手を伸ばし、眠る陽一の額に指を当てた。
「陽一郎、もう幾年が過ぎたか。今まで目を背けていたが、お主にようやく会える」
一瞬、うぐいす姫の姿が元の彼女に戻ったように見えた。しかし、それは幻だったかの早さで鬼に戻っていた。
「我が命ずる。陽一の魂に眠る陽一郎の記憶よ、我と話をしよう」
うぐいす姫の呼びかけに、陽一の目が開いた。焦点の合わない瞳がぼんやりと自分を見つめていたが、やがて、大きく見開かれた。
「姫……」
見開いた瞳の表情は、あの最期の日の陽一郎だった。
うぐいす姫はとっさに声が出なかった。声を出せ、と己に言う。
「……久しぶりだの。陽一郎」
「うぐいす姫?」
懐かしい陽一郎の声だった。
◇◇◇
陽一郎は混乱していた。
険しい顔で警戒するように辺りを見た。
「村人は? 俺は確か……」
陽一郎はうぐいす姫の姿を見て驚いた。
「一体何が……。ここはどこです? ご無事だったのですか?」
「お主とゆっくり話がしたくてな。ここは安全じゃ、村人もおらぬ」
「俺には何が何だか……」
陽一郎は困った顔をしていたが、うぐいす姫の顔を見て少し落ち着いたようだった。うぐいす姫は心臓が高鳴るのを感じた。涙が溢れそうになるのをこらえる。
「陽一郎、時間がない。詳しい説明をしている暇もないのじゃ。我はお主に謝らねばならぬ」
「うぐいす姫……」
陽一郎はびっくりした顔で大きく首を振り、動かない右手を庇いながらすり寄ると、左手でうぐいす姫の手を取った。うぐいす姫はハッと顔を上げた。
「あなたは何も悪くはありません」
陽一郎の手から温もりを感じて、うぐいす姫はこらえきれず、涙をあふれさせた。
「すまぬ……。我のために、お主の一生を奪ってしまった。我は後悔しておる。だが、これで最後じゃ、もう、我らは二度と会わなくてすむ」
「俺は望んでいません」
「お主は望まなくても、我はもう疲れた。終わりにしたい」
陽一郎が顔を近づける。
うぐいす姫は醜い自分を隠そうと手を離そうとしたが、陽一郎が許さなかった。
「やめてくれ。もう、たくさんじゃ」
「俺は、あなたのものです」
「ならぬ」
きっぱりと答え、その手を突き放した。
「お主が我が元へ来た時、突き放すべきだった。この縁、ここで断ち切る」
「なぜですか。鬼になる以前からあなたが好きだった。あなたに会いたくて俺は山へ入った。村人を食べないで欲しいと願ったのは、あなたのそばに居たいがための言いわけです」
「それは思い違いだ。お主は兄を殺されて、復讐するのではなかったのか?」
――兄。
陽一郎が思い出したように呟いた。そして、左手を強く握りしめた。
「兄。そうです。あなたには言えなかったが、本当に卑劣な男でした。罪もない村の女たちに手を出し、あなたに仕える巫女にまで手を出そうとした。あなたは兄を止めるため村へ降りて来た。それが真実です」
陽一郎の兄は見目の麗しい男だった。彼は自分の容貌におごり、手あたりしだいに女を襲った。兄には親の決めた嫁がいたが、彼女は兄の虜となり、嫁もまた周りが見えなくなっていた。
「謝らなくてはならないのは俺たちです」
「鬼に心を奪われたのは我じゃ。もう、人には戻れぬ」
「うぐいす姫」
陽一郎はいつものように右手を差し出した。
「この手を切り取ってください」
「え?」
うぐいす姫はぎくりとして、陽一郎を見た。恐怖で体が震える。鬼が体の中で暴れている。
「よせ……」
「あなたは俺のものです。誰にも渡したくない」
「陽一郎、もう、我らは長い時を過ごした。我は、お主が他の女子を嫁にもらい、子を育てるまでずっと見つめてきた。お主が笑い、幸せに過ごすのを見て、我も幸せであった」
「俺はあなたと共に生きたいのです。俺の願いは聞き入れてくれないのですか?」
「我は地球では五十年しか生きられぬ。どうやら、五十年ほどで力尽きるようじゃ。我の願いはお主が静かに一生を終えてもらいたいこと。我はもう、お主が……他の女子と夫婦になるのを見るのは辛い。これで終いにしたい」
「うぐいす姫っ」
陽一郎が強く手を握ってくる。うぐいす姫は顔を上げなかった。
「お主を前にすると、我の中の鬼を抑えることができぬ。お主を求めているのは我だけではない。我の鬼がお主を喰いたいと願っている」
「俺を喰ってください。俺は、あなたに喰われて幸せなんだ」
「もう、やめてくれっ」
うぐいす姫は耳を押さえた。
「我はもう人を食べたいとは思わぬ。我は――」
二人の会話を遮るように、かつん、と石が転がる音がした。
「来た……」
うぐいす姫がさっと外を見た。暗闇で見えないが、結界の外側でざわざわと気配を感じる。陽一郎に向き直る。
「陽一郎、我の願いは叶った。お主の記憶を呼び起こした事により、お主とはこれっきりじゃ」
陽一郎の顔が気色ばんだ。
「どういうことです?」
「許せ、陽一郎。我はお前を傷つけた」
「愛していました」
陽一郎が顔を近づけて言う。お互いの顔が触れ合うほどに近寄ると、強く訴えた。
「あなたに毎日、喰われるたびにあなたが愛しかった。これきりだと、本気で言っているのですか?」
「お主のおかげで幸せな日々と過ごすことができた」
「うぐいす姫っ」
「かたじけない」
陽一郎は目を見開き、噛みつくようにうぐいす姫に口づけた。うぐいす姫は強く目を閉じて、陽一郎の意識を奪った。陽一郎はがっくりと頭を垂れると、床に倒れた。
「陽一郎……」
うぐいす姫は、彼のそばにしゃがみ込んだ。涙が頬を伝っていくのを止められなかった。
「姫……」
暗闇から赤猪子が現れた。うぐいす姫は涙を拭いて顔を上げた。
「陽一郎殿と話をされたのですね」
「ああ……」
「それで、これからどうなさるおつもりで……?」
「言ったはずじゃ、これで終結すると」
「お一人で戦うのか?」
「今さら何を言いだす」
うぐいす姫も負けじと赤猪子に向き直った。赤猪子は、うぐいす姫を見つめて話し出した。
「かつてわしは、村人に受け入れられず、孤独に追いやられていた。しかし、姫だけがわしを必要と言ってくれた。あの時から姫は命の恩人。何があろうとお助けすると心に決めていた。そのわしが姫を見殺しにできるとお思いか?」
赤猪子のしわくちゃの顔から涙がこぼれ、きらりと光ったかと思うと、彼女は持っている力を解放した。とたん、年若い少女に変わった。
腰まで伸びた長い黒髪が揺れて、張りのある白い肌は上気している。
「おばば、何をするつもりじゃ」
うぐいす姫が問うと、赤猪子の手に大きな薙刀が現れた。
「共に闘う」
「よせ。お主は父上が唯一愛した女性。我にとって家族も同然じゃ」
しかし、赤猪子は言うことを聞かず、社の入り口にある鳥居の方へ顔を向けた。
「陽一殿に結界を張ってくれ。その間、わしが外を守っておる」
「赤猪子っ」
呼び止めたが、赤猪子は見向きもせず行ってしまった。
頑固で高潔な志を持つ赤猪子には何を言っても聞かない。
うぐいす姫は、陽一を宙へ浮かせると社の一番奥の部屋へと移動した。奥の部屋は険しい山がそびえたつ場所にある。ハンターが陽一を見つけようとしても、少しは時間が稼げるはずだ。
――おばば、陽一を寝かせたらすぐに行く。




