第5話 土と貴族の手
鼻を刺す酸っぱい刺激臭が、私の指先から離れない。
広場の花壇から採取した土を試験紙に押し当てると、鮮やかな赤色がじわりと滲み出した。
その色は、私の不吉な予感を冷酷な事実へと変える。
「……やっぱり、強酸性です」
試験紙を持つ手が震える。
通常、星花が好むのは弱アルカリ性の土壌だ。これでは根が火傷をしているようなもの。水を吸えるはずがない。
「原因は何だ?」
隣に立つエリオット侯爵が、低い声で問う。
彼の視線は私の手元ではなく、広場の外、水路の方角へ向けられていた。
「おそらく水です。この広場の水路は、北の山から引いていますよね?」
私が顔を上げると、役員の男性が青ざめた顔で頷いた。
「あ、ああ。だが、今までこんなことは……」
「北の山か」
エリオット侯爵が顎に手を当て、何かを検索するように虚空を見つめた。
数秒の沈黙の後、彼のアイスブルーの瞳が鋭く細められる。
「……先月から、上流で旧鉱山の再開発工事が始まっている。掘削で出た地下水が、濾過されずに流れ込んだ可能性があるな」
鉱毒。
その単語が頭をよぎり、私は背筋が寒くなった。
だとしたら、これは単なる園芸トラブルではない。人災だ。
「すぐに工事を止めさせます! 侯爵様、権限でなんとかなりませんか!」
カイルが詰め寄るが、エリオット様は静かに首を横に振った。
「止めさせることはできる。だが、既に流れ込んだ水を浄化し、汚染されたこの土を元に戻すには時間がかかる。……祭りには間に合わない」
淡々とした事実の宣告に、その場にいた全員が肩を落とした。
間に合わない。
それは、星花祭の中止を意味していた。
役員の一人が、へなへなと地面に座り込む。
広場に植えられた五百株の星花。そのすべてが、瀕死の状態だ。
「……諦めるしか、ないのか」
誰かの呟きが、重い鉛のように空気を澱ませる。
私も唇を噛んだ。魔法使いなら、指先一つで土を浄化できるかもしれない。でも私はただの花屋だ。できることは限られている。
――いいえ。
限られているけれど、ゼロじゃない。
私は顔を上げ、花壇を見据えた。
「入れ替えましょう」
私の声に、全員の視線が集まる。
「汚染された土を全部掘り出して、新しい培養土に入れ替えるんです。根についた酸も洗い流して、植え直せば……まだ間に合います」
一瞬の沈黙の後、役員が悲痛な声を上げた。
「無茶だ! この広さだぞ? しかも深さ三十センチは掘り返さなきゃならん。人手も道具も足りない、たった数日で終わるわけがない!」
もっともな反論だった。
私も分かっている。これは無謀な賭けだ。
大人数で夜通し作業しても終わるかどうか。それに、一度弱った苗を動かすリスクもある。
「でも、やるしかありません。やらなければ、枯れるのを待つだけです」
私はエプロンの紐をきつく締め直し、近くにあった園芸用のシャベルを握りしめた。
鉄の冷たさが、迷いを断ち切るように掌に食い込む。
一人でもやる。たとえ終わらなくても、最後まで抗いたい。
最初の一掘りをしようと土に足をかけた、その時だった。
バサッ。
重厚な布が落ちる音がした。
振り返ると、エリオット侯爵が上質なフロックコートを脱ぎ捨て、近くのベンチに放り投げたところだった。
白亜のシャツに、黒いベスト。
彼は腕まくりをしながら、役員が持っていた大きな鍬を無造作に奪い取った。
「こ、侯爵様!?」
役員が素っ頓狂な声を上げる。
「何をしている! さっさと道具を集めろ」
彼は私たちが呆気にとられている間に、花壇の中に足を踏み入れた。
磨き上げられた革靴が、汚染された泥に沈む。
「あ、あの! エリオット様、それはさすがに……!」
私が止めようとすると、彼は鍬を構え、驚くほど力強い動作で土に打ち込んだ。
ザクッ、という鈍い音が響き、固い土が大きく掘り返される。
「俺は、この祭りが嫌いじゃない」
二度目の鍬を振り上げながら、彼は誰に言うでもなく呟いた。
「年に一度、領民が馬鹿騒ぎして笑う日だ。……それを守るのが、領主の仕事だろう」
領主の仕事。
それは書類にサインをすることや、舞踏会に出ることだと思っていた。
こんなふうに、泥にまみれて汗を流すことではなく。
胸の奥が熱くなる。
この人は、不器用なんかじゃない。誰よりも真っ直ぐで、誠実なだけだ。
「……カイル! 店からあるだけの培養土と道具を持ってきて! あと、手の空いてる人を集めて!」
私が叫ぶと、呆然としていたカイルが弾かれたように走り出した。
私もシャベルを突き立てる。
エリオット様の隣で、小さなシャベルで土を掻き出す。
ザッ、ザッ。
最初は二人だけの音だった。
けれど、すぐに役員たちが上着を脱ぎ捨てて加わった。
通りがかった若者が、何事かと足を止め、そして事情を知って袖をまくった。
「侯爵様があんなことしてんだぞ、俺らが見て見ぬふりできるかよ!」
一人、また一人。
作業の輪が広がっていく。
私の背中にかかる負担は重いはずなのに、不思議と体は軽かった。
横を見れば、エリオット様が黙々と、しかし正確なリズムで土を掘り返している。
汗でシャツが背中に張り付き、整った髪が乱れている。
その姿が、どんな着飾った貴族よりも高潔に見えた。
日没が迫り、空が茜色に染まる頃には、広場は熱気と土埃に包まれていた。
花壇の半分が掘り返され、新しい土の黒色が広がり始めている。
「……少し、休憩しよう」
エリオット様の声で、全員の手が止まった。
彼は鍬を支えにして立ち尽くし、荒い息を吐いている。
白いシャツは泥だらけで、見る影もない。
私は水筒の水をコップに注ぎ、彼に差し出した。
「お疲れ様です。……本当に、ありがとうございます」
彼はコップを受け取ると、一気に飲み干した。
喉仏が上下し、ふう、と息をつく。
そして私を見て、口の端をほんの少しだけ吊り上げた。
「……礼を言うのはまだ早い。半分しか終わっていないぞ」
「はい。でも、終わりが見えました」
私たちが視線を交わすと、周囲からも笑い声が上がった。
泥だらけの顔を見合わせて、みんなが笑っている。
絶望的な状況なのに、そこには確かな希望があった。
私は自分の手が真っ黒になっているのを見て、誇らしく思った。
この手は今、花を救っている。そして隣には、同じ汚れを厭わない人がいる。
それだけで、明日も戦える気がした。
広場に灯り始めた街灯が、私たちの長い影を並べて映し出していた。




