表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
令嬢の花屋は今日も平和です ~静かな侯爵様とのやさしい恋~  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/12

第5話 土と貴族の手

 鼻を刺す酸っぱい刺激臭が、私の指先から離れない。

 広場の花壇から採取した土を試験紙に押し当てると、鮮やかな赤色がじわりと滲み出した。

 その色は、私の不吉な予感を冷酷な事実へと変える。


「……やっぱり、強酸性です」


 試験紙を持つ手が震える。

 通常、星花が好むのは弱アルカリ性の土壌だ。これでは根が火傷をしているようなもの。水を吸えるはずがない。


「原因は何だ?」


 隣に立つエリオット侯爵が、低い声で問う。

 彼の視線は私の手元ではなく、広場の外、水路の方角へ向けられていた。


「おそらく水です。この広場の水路は、北の山から引いていますよね?」


 私が顔を上げると、役員の男性が青ざめた顔で頷いた。


「あ、ああ。だが、今までこんなことは……」


「北の山か」


 エリオット侯爵が顎に手を当て、何かを検索するように虚空を見つめた。

 数秒の沈黙の後、彼のアイスブルーの瞳が鋭く細められる。


「……先月から、上流で旧鉱山の再開発工事が始まっている。掘削で出た地下水が、濾過されずに流れ込んだ可能性があるな」


 鉱毒。

 その単語が頭をよぎり、私は背筋が寒くなった。

 だとしたら、これは単なる園芸トラブルではない。人災だ。


「すぐに工事を止めさせます! 侯爵様、権限でなんとかなりませんか!」


 カイルが詰め寄るが、エリオット様は静かに首を横に振った。


「止めさせることはできる。だが、既に流れ込んだ水を浄化し、汚染されたこの土を元に戻すには時間がかかる。……祭りには間に合わない」


 淡々とした事実の宣告に、その場にいた全員が肩を落とした。

 間に合わない。

 それは、星花祭の中止を意味していた。


 役員の一人が、へなへなと地面に座り込む。

 広場に植えられた五百株の星花。そのすべてが、瀕死の状態だ。


「……諦めるしか、ないのか」


 誰かの呟きが、重い鉛のように空気を澱ませる。

 私も唇を噛んだ。魔法使いなら、指先一つで土を浄化できるかもしれない。でも私はただの花屋だ。できることは限られている。


 ――いいえ。

 限られているけれど、ゼロじゃない。


 私は顔を上げ、花壇を見据えた。


「入れ替えましょう」


 私の声に、全員の視線が集まる。


「汚染された土を全部掘り出して、新しい培養土に入れ替えるんです。根についた酸も洗い流して、植え直せば……まだ間に合います」


 一瞬の沈黙の後、役員が悲痛な声を上げた。


「無茶だ! この広さだぞ? しかも深さ三十センチは掘り返さなきゃならん。人手も道具も足りない、たった数日で終わるわけがない!」


 もっともな反論だった。

 私も分かっている。これは無謀な賭けだ。

 大人数で夜通し作業しても終わるかどうか。それに、一度弱った苗を動かすリスクもある。


「でも、やるしかありません。やらなければ、枯れるのを待つだけです」


 私はエプロンの紐をきつく締め直し、近くにあった園芸用のシャベルを握りしめた。

 鉄の冷たさが、迷いを断ち切るように掌に食い込む。

 一人でもやる。たとえ終わらなくても、最後まで抗いたい。


 最初の一掘りをしようと土に足をかけた、その時だった。


 バサッ。

 重厚な布が落ちる音がした。


 振り返ると、エリオット侯爵が上質なフロックコートを脱ぎ捨て、近くのベンチに放り投げたところだった。

 白亜のシャツに、黒いベスト。

 彼は腕まくりをしながら、役員が持っていた大きなくわを無造作に奪い取った。


「こ、侯爵様!?」


 役員が素っ頓狂な声を上げる。


「何をしている! さっさと道具を集めろ」


 彼は私たちが呆気にとられている間に、花壇の中に足を踏み入れた。

 磨き上げられた革靴が、汚染された泥に沈む。


「あ、あの! エリオット様、それはさすがに……!」


 私が止めようとすると、彼は鍬を構え、驚くほど力強い動作で土に打ち込んだ。

 ザクッ、という鈍い音が響き、固い土が大きく掘り返される。


「俺は、この祭りが嫌いじゃない」


 二度目の鍬を振り上げながら、彼は誰に言うでもなく呟いた。


「年に一度、領民が馬鹿騒ぎして笑う日だ。……それを守るのが、領主の仕事だろう」


 領主の仕事。

 それは書類にサインをすることや、舞踏会に出ることだと思っていた。

 こんなふうに、泥にまみれて汗を流すことではなく。


 胸の奥が熱くなる。

 この人は、不器用なんかじゃない。誰よりも真っ直ぐで、誠実なだけだ。


「……カイル! 店からあるだけの培養土と道具を持ってきて! あと、手の空いてる人を集めて!」


 私が叫ぶと、呆然としていたカイルが弾かれたように走り出した。

 私もシャベルを突き立てる。

 エリオット様の隣で、小さなシャベルで土を掻き出す。


 ザッ、ザッ。

 最初は二人だけの音だった。

 けれど、すぐに役員たちが上着を脱ぎ捨てて加わった。

 通りがかった若者が、何事かと足を止め、そして事情を知って袖をまくった。


「侯爵様があんなことしてんだぞ、俺らが見て見ぬふりできるかよ!」


 一人、また一人。

 作業の輪が広がっていく。

 私の背中にかかる負担は重いはずなのに、不思議と体は軽かった。

 横を見れば、エリオット様が黙々と、しかし正確なリズムで土を掘り返している。

 汗でシャツが背中に張り付き、整った髪が乱れている。

 その姿が、どんな着飾った貴族よりも高潔に見えた。


 日没が迫り、空が茜色に染まる頃には、広場は熱気と土埃に包まれていた。

 花壇の半分が掘り返され、新しい土の黒色が広がり始めている。


「……少し、休憩しよう」


 エリオット様の声で、全員の手が止まった。

 彼は鍬を支えにして立ち尽くし、荒い息を吐いている。

 白いシャツは泥だらけで、見る影もない。


 私は水筒の水をコップに注ぎ、彼に差し出した。


「お疲れ様です。……本当に、ありがとうございます」


 彼はコップを受け取ると、一気に飲み干した。

 喉仏が上下し、ふう、と息をつく。

 そして私を見て、口の端をほんの少しだけ吊り上げた。


「……礼を言うのはまだ早い。半分しか終わっていないぞ」


「はい。でも、終わりが見えました」


 私たちが視線を交わすと、周囲からも笑い声が上がった。

 泥だらけの顔を見合わせて、みんなが笑っている。

 絶望的な状況なのに、そこには確かな希望があった。


 私は自分の手が真っ黒になっているのを見て、誇らしく思った。

 この手は今、花を救っている。そして隣には、同じ汚れを厭わない人がいる。

 それだけで、明日も戦える気がした。


 広場に灯り始めた街灯が、私たちの長い影を並べて映し出していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ