第4話 星花祭の危機
店の奥にあるサボテンの鉢を見るたび、あの不器用な背中を思い出して、私の口元は勝手に緩んでしまう。
あれから数日。エリオット侯爵は相変わらず毎日来店し、花を一輪買い、二言三言の短い会話を交わして帰っていく。
ただ一つ変わったのは、彼が店に入ってきた時の空気だ。以前のような凍てつく冷気ではなく、少しひんやりとした、心地よい秋風のような静けさに変わっていた。
「……今日は何を勧めようかしら」
開店前の水やりをしながら、私は鼻歌混じりに花を選ぶ。
彼のおかげで、怖い顔をしたお客様への免疫がついたのか、最近は接客が少し楽しくなっていた。
しかし、そんな穏やかな朝は、一人の男の乱入によって破られた。
「ルチア! 大変だ、ちょっと来てくれ!」
バン! と扉が乱暴に開く。
飛び込んできたのは幼馴染のカイルだった。いつもは飄々としている彼が、今日は顔色を変えて肩で息をしている。
「カイル? どうしたの、そんなに慌てて」
じょうろを置く手に、嫌な予感が伝播する。
カイルは私のエプロンを掴む勢いで詰め寄った。
「広場だ! 星花が……祭りのメインの花が、全部ダメになりそうだ!」
「えっ……?」
思考が一瞬停止する。
星花祭まであと一週間。街の中央広場に植えられた星花が一斉に咲き誇り、その青い光の中で夜通し踊るのが、この街の一大イベントだ。
もしその花が枯れたら、祭りは中止になる。
「全部って……まさか」
「本当だ! 役員たちが大騒ぎしてる。原因が分からないんだよ、お前の知恵を貸してくれ!」
カイルの必死な目。
私は迷わずエプロンの紐を解きかけたが、ふと動きを止めた。
今日は週末。書き入れ時だ。店を閉めれば、今月の苦しい家計がさらに追い込まれる。
――でも。
脳裏に浮かんだのは、祭りを心待ちにしている子供たちの笑顔と、広場で無残に枯れていく花々の姿だった。
「……分かった。すぐ行く」
私は「臨時休業」の札を手に取り、カウンターを出た。
利益よりも、枯れそうな花を放っておくことのほうが、私にとっては耐え難い苦痛だったから。
その時だ。
カラン、コロン。
いつものベルの音と共に、長身の影が入り口に現れた。
エリオット侯爵だ。
いつも通りの黒いフロックコートに、無表情な美貌。
タイミングが悪い。よりによって今。
「あ、あの! 申し訳ありません、侯爵様!」
私は慌てて頭を下げた。
「急用ができてしまいまして、これから店を閉めなければならないんです。せっかく来ていただいたのに……」
彼はぴくりと眉を動かし、私の隣で青ざめているカイルへと視線を移した。
アイスブルーの瞳に見下ろされ、カイルがひっと小さく息を飲む。
「……何事だ」
低く、地を這うような問い。
カイルが答えられずにいるのを見て、私は代わりに口を開いた。
「広場の星花に異変があったそうで……その、私が様子を見に行くことになりまして」
説明しながら、私は彼が怒って帰ることを覚悟した。
だが、彼は短く「行くぞ」とだけ言った。
「え?」
「馬車がある。乗れ」
彼は顎で表をしゃくった。
店の前には、紋章入りの豪奢な黒塗りの馬車が停まっている。
え、待って。私が? あの馬車に?
「い、いえ! 走っていけますから! そんなご迷惑を……」
「急ぎなのだろう?」
彼は私の反論を許さず、さっさと扉を開けてしまった。
その背中には、有無を言わせぬ圧と、奇妙な頼もしさが同居していた。
***
広場は、お通夜のような静けさに包まれていた。
普段なら子供たちが走り回っている石畳の広場に、街の役員や庭師たちが集まり、沈痛な面持ちで花壇を囲んでいる。
馬車から降りた私を見て、役員の一人が駆け寄ってきた。
「おお、ルチア嬢! 待っていたぞ!」
その直後、私の後ろから降り立ったエリオット侯爵の姿に気づき、全員が凍りついたように直立不動になった。
「氷の侯爵」の登場は、現場の混乱を一瞬で鎮圧する効果があったらしい。
私は彼らの畏怖をよそに、花壇へと駆け寄った。
「これは……」
息を飲む。
昨日まで青々としていたはずの星花の苗が、見る影もなく萎れていた。
葉は茶色く変色し、蕾は首を垂れ、地面にぐったりと横たわっている。まるで生命力を根こそぎ奪われたようだ。
膝をつき、土に触れる。
湿り気はある。水不足ではない。
葉の裏を見る。虫がついた形跡もない。
「どうだ、ルチア。病気か?」
カイルが恐る恐る尋ねてくる。
私は首を横に振った。
「ううん、違う。病気なら斑点が出るはずだし、虫なら食害痕があるわ。これは……もっと根源的な、根っこの問題かもしれない」
私はスコップを取り出し、慎重に一株を掘り起こした。
根についた土の匂いを嗅ぐ。
腐敗臭はしない。だが、土独特の豊かな香りが薄い。どこか無機質な、乾いた砂のような匂いがする。
「変ね……。水も肥料も、例年通りなんでしょう?」
役員が強く頷く。
「ああ、もちろんだ! 同じ井戸の水、同じ業者の肥料だ。何も変えていないのに、なぜ急にこんなことに……」
彼の言葉には、隠しきれない焦りと疑念が混じっていた。
何も変えていないのに悪化した。それが一番厄介なのだ。
私は掘り出した根を指先で揉んだ。ポロポロと崩れるように脆い。栄養を吸い上げる力がなくなっている。
「……原因は、土壌そのものの変質かもしれません。でも、たった数日でここまで変わるなんて……」
診断を下すには情報が足りない。
私は立ち上がり、広場全体を見渡した。
星花が植えられているのは、この中央花壇だけ。他の場所の雑草は元気に生えている。
ここだけに影響する何か。
考え込む私の視界の端で、エリオット侯爵が動いた。
彼は汚れることも厭わず、私の隣に片膝をつき、同じように土を手に取ったのだ。
周囲の役員たちが「ひっ」と悲鳴を上げるのが聞こえた。
「……酸っぱいな」
彼がポツリと言った。
「え?」
「土の匂いだ。微かだが、酸のような刺激臭がする」
彼の言葉に、私は慌てて土に鼻を近づけた。
言われてみれば、確かに。鼻の奥をツンと刺すような、金属的な臭いが混じっている。
私の嗅覚よりも、彼の感覚のほうが鋭かったのか。
「……本当だ。酸性の何かが混入した……? でも、どうやって?」
私は顔を上げ、彼を見た。
エリオット侯爵は、手袋についた土を払いもせず、真剣な眼差しで萎れた花を見つめていた。
その横顔には、「客」としての距離感はなく、共に難題に立ち向かう「同志」の熱があった。
「原因を突き止めなければ、治療もできません。……少し、お時間をいただけますか」
私が宣言すると、彼は静かに頷いた。
「手伝おう。このままでは、祭りが葬式になる」
辛辣な言葉だが、不思議と心強かった。
私はエプロンの紐をきつく締め直した。
店は休みだ。今日の私は花屋ではなく、この街の花の医者になる。
隣に並ぶ黒いコートの威圧感が、今は最強の盾のように感じられた。
広場に吹く風が、少しだけ冷たく、そして重く変わっていた。




