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令嬢の花屋は今日も平和です ~静かな侯爵様とのやさしい恋~  作者: 九葉(くずは)


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4/12

第4話 星花祭の危機

 店の奥にあるサボテンの鉢を見るたび、あの不器用な背中を思い出して、私の口元は勝手に緩んでしまう。

 あれから数日。エリオット侯爵は相変わらず毎日来店し、花を一輪買い、二言三言の短い会話を交わして帰っていく。

 ただ一つ変わったのは、彼が店に入ってきた時の空気だ。以前のような凍てつく冷気ではなく、少しひんやりとした、心地よい秋風のような静けさに変わっていた。


「……今日は何を勧めようかしら」


 開店前の水やりをしながら、私は鼻歌混じりに花を選ぶ。

 彼のおかげで、怖い顔をしたお客様への免疫がついたのか、最近は接客が少し楽しくなっていた。

 しかし、そんな穏やかな朝は、一人の男の乱入によって破られた。


「ルチア! 大変だ、ちょっと来てくれ!」


 バン! と扉が乱暴に開く。

 飛び込んできたのは幼馴染のカイルだった。いつもは飄々としている彼が、今日は顔色を変えて肩で息をしている。


「カイル? どうしたの、そんなに慌てて」


 じょうろを置く手に、嫌な予感が伝播する。

 カイルは私のエプロンを掴む勢いで詰め寄った。


「広場だ! 星花せいかが……祭りのメインの花が、全部ダメになりそうだ!」


「えっ……?」


 思考が一瞬停止する。

 星花祭まであと一週間。街の中央広場に植えられた星花が一斉に咲き誇り、その青い光の中で夜通し踊るのが、この街の一大イベントだ。

 もしその花が枯れたら、祭りは中止になる。


「全部って……まさか」


「本当だ! 役員たちが大騒ぎしてる。原因が分からないんだよ、お前の知恵を貸してくれ!」


 カイルの必死な目。

 私は迷わずエプロンの紐を解きかけたが、ふと動きを止めた。

 今日は週末。書き入れ時だ。店を閉めれば、今月の苦しい家計がさらに追い込まれる。


 ――でも。

 脳裏に浮かんだのは、祭りを心待ちにしている子供たちの笑顔と、広場で無残に枯れていく花々の姿だった。


「……分かった。すぐ行く」


 私は「臨時休業」の札を手に取り、カウンターを出た。

 利益よりも、枯れそうな花を放っておくことのほうが、私にとっては耐え難い苦痛だったから。


 その時だ。

 

 カラン、コロン。


 いつものベルの音と共に、長身の影が入り口に現れた。

 エリオット侯爵だ。

 いつも通りの黒いフロックコートに、無表情な美貌。

 タイミングが悪い。よりによって今。


「あ、あの! 申し訳ありません、侯爵様!」


 私は慌てて頭を下げた。


「急用ができてしまいまして、これから店を閉めなければならないんです。せっかく来ていただいたのに……」


 彼はぴくりと眉を動かし、私の隣で青ざめているカイルへと視線を移した。

 アイスブルーの瞳に見下ろされ、カイルがひっと小さく息を飲む。


「……何事だ」


 低く、地を這うような問い。

 カイルが答えられずにいるのを見て、私は代わりに口を開いた。


「広場の星花に異変があったそうで……その、私が様子を見に行くことになりまして」


 説明しながら、私は彼が怒って帰ることを覚悟した。

 だが、彼は短く「行くぞ」とだけ言った。


「え?」


「馬車がある。乗れ」


 彼は顎で表をしゃくった。

 店の前には、紋章入りの豪奢な黒塗りの馬車が停まっている。

 え、待って。私が? あの馬車に?


「い、いえ! 走っていけますから! そんなご迷惑を……」


「急ぎなのだろう?」


 彼は私の反論を許さず、さっさと扉を開けてしまった。

 その背中には、有無を言わせぬ圧と、奇妙な頼もしさが同居していた。


 ***


 広場は、お通夜のような静けさに包まれていた。

 普段なら子供たちが走り回っている石畳の広場に、街の役員や庭師たちが集まり、沈痛な面持ちで花壇を囲んでいる。


 馬車から降りた私を見て、役員の一人が駆け寄ってきた。


「おお、ルチア嬢! 待っていたぞ!」


 その直後、私の後ろから降り立ったエリオット侯爵の姿に気づき、全員が凍りついたように直立不動になった。

 「氷の侯爵」の登場は、現場の混乱を一瞬で鎮圧する効果があったらしい。


 私は彼らの畏怖をよそに、花壇へと駆け寄った。


「これは……」


 息を飲む。

 昨日まで青々としていたはずの星花の苗が、見る影もなく萎れていた。

 葉は茶色く変色し、蕾は首を垂れ、地面にぐったりと横たわっている。まるで生命力を根こそぎ奪われたようだ。


 膝をつき、土に触れる。

 湿り気はある。水不足ではない。

 葉の裏を見る。虫がついた形跡もない。


「どうだ、ルチア。病気か?」


 カイルが恐る恐る尋ねてくる。

 私は首を横に振った。


「ううん、違う。病気なら斑点が出るはずだし、虫なら食害痕があるわ。これは……もっと根源的な、根っこの問題かもしれない」


 私はスコップを取り出し、慎重に一株を掘り起こした。

 根についた土の匂いを嗅ぐ。

 腐敗臭はしない。だが、土独特の豊かな香りが薄い。どこか無機質な、乾いた砂のような匂いがする。


「変ね……。水も肥料も、例年通りなんでしょう?」


 役員が強く頷く。


「ああ、もちろんだ! 同じ井戸の水、同じ業者の肥料だ。何も変えていないのに、なぜ急にこんなことに……」


 彼の言葉には、隠しきれない焦りと疑念が混じっていた。

 何も変えていないのに悪化した。それが一番厄介なのだ。

 私は掘り出した根を指先で揉んだ。ポロポロと崩れるように脆い。栄養を吸い上げる力がなくなっている。


「……原因は、土壌そのものの変質かもしれません。でも、たった数日でここまで変わるなんて……」


 診断を下すには情報が足りない。

 私は立ち上がり、広場全体を見渡した。

 星花が植えられているのは、この中央花壇だけ。他の場所の雑草は元気に生えている。

 ここだけに影響する何か。


 考え込む私の視界の端で、エリオット侯爵が動いた。

 彼は汚れることも厭わず、私の隣に片膝をつき、同じように土を手に取ったのだ。

 周囲の役員たちが「ひっ」と悲鳴を上げるのが聞こえた。


「……酸っぱいな」


 彼がポツリと言った。


「え?」


「土の匂いだ。微かだが、酸のような刺激臭がする」


 彼の言葉に、私は慌てて土に鼻を近づけた。

 言われてみれば、確かに。鼻の奥をツンと刺すような、金属的な臭いが混じっている。

 私の嗅覚よりも、彼の感覚のほうが鋭かったのか。


「……本当だ。酸性の何かが混入した……? でも、どうやって?」


 私は顔を上げ、彼を見た。

 エリオット侯爵は、手袋についた土を払いもせず、真剣な眼差しで萎れた花を見つめていた。

 その横顔には、「客」としての距離感はなく、共に難題に立ち向かう「同志」の熱があった。


「原因を突き止めなければ、治療もできません。……少し、お時間をいただけますか」


 私が宣言すると、彼は静かに頷いた。


「手伝おう。このままでは、祭りが葬式になる」


 辛辣な言葉だが、不思議と心強かった。

 私はエプロンの紐をきつく締め直した。

 店は休みだ。今日の私は花屋ではなく、この街の花の医者になる。


 隣に並ぶ黒いコートの威圧感が、今は最強の盾のように感じられた。

 広場に吹く風が、少しだけ冷たく、そして重く変わっていた。

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