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令嬢の花屋は今日も平和です ~静かな侯爵様とのやさしい恋~  作者: 九葉(くずは)


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3/12

第3話 サボテンと侯爵様

 カモミールの甘い香りが、ここ数日、私の鼻腔の奥に微かに残り続けている気がする。

 エリオット侯爵が店に通い始めてから、もう五日が過ぎた。

 彼は毎日、決まった時間に現れ、私が勧める花を一輪だけ買い、無言で去っていく。まるで日課の巡回任務のように正確で、そして相変わらず眉間の皺は深いままだった。


 しかし今日に限って、その静かなルーティンは崩れる運命にあったらしい。


「すまねぇ嬢ちゃん! 次がつっかえてるから、ここに置かせてもらうよ!」


 配送業者の威勢のいい声と共に、店の入り口にドサリと重い音が響いた。

 返事をする間もなく、馬車の車輪が遠ざかっていく。

 残されたのは、入り口を完全に塞ぐように積み上げられた、特大の肥料袋の山だった。


「ちょ、ちょっと待って……ここじゃお客さんが入れないじゃない……!」


 私は慌ててカウンターから飛び出した。

 『強力培養土・業務用』と書かれた麻袋は、一袋二十キロはある。それが五つ。

 私の細腕では、引きずることさえままならない重量だ。


 途方に暮れて、一番上の袋に手をかける。

 ざらついた麻の感触が掌を刺す。

 ぐっ、と力を込めてみるが、袋は地面に根が生えたように動かない。

 これでは営業妨害だ。何より、このままでは直射日光で袋の中が蒸れて、土の質が悪くなってしまう。花屋として、土を傷めるのは許容できない。


「……やるしかない」


 エプロンの紐を締め直し、私は覚悟を決めた。

 腰を落とし、袋の端を掴む。

 せーの、で力を込めた瞬間、腰にピキリと鋭い痛みが走った。


「うぐっ……!」


 バランスを崩し、よろめいた拍子に背後のドアベルが鳴る。


 カラン、コロン。


「い、いらっしゃいま……ひゃっ!?」


 振り返ろうとした私の視界が、突然暗転した。

 いや、影だ。

 巨大な影が、私と肥料袋の上に落ちていた。


 見上げれば、そこにはいつもの黒いフロックコート。そして、絶対零度のアイスブルーの瞳。

 エリオット侯爵が、入り口を塞ぐ土嚢の山の前に立ち尽くしていた。


 最悪のタイミングだ。

 よりによって、一番見られたくない無様な姿を、一番怖い常連客に見られてしまった。


「あ、あの! 申し訳ありません! 今すぐどかしますので! えっと、ほんの少しだけお待ちを……!」


 私は顔から火が出る思いで、再び袋にしがみついた。

 焦れば焦るほど力が入らない。汗が額を伝い、目に染みる。

 ああ、もうダメだ。怒られる。

 「通行の邪魔だ」と冷たく言い放たれるか、あるいは無言で立ち去られるか。


 覚悟して身構えた、その時だった。


 スッ、と私の横から伸びた手が、肥料袋を掴んだ。

 黒革の手袋。

 貴族が身につけるような上質な革が、汚れた麻袋に食い込む。


「え?」


 私の呆気にとられた声など無視して、彼は無造作に腕を持ち上げた。

 二十キロの土の塊が、まるで綿毛のように宙に浮く。

 信じられない光景に、私は口を半開きにしたまま固まった。


 彼はそのまま無言で店内に入ると、私がいつも土を保管しているバックヤードの入り口に、ドスンと袋を置いた。

 そして戻ってきて、二つ目を持ち上げる。

 三つ目。四つ目。


 正確な動作。無駄のない筋肉の動き。

 高級なコートの裾が土埃で白く汚れるのも構わず、彼は淡々と作業を続ける。


「ま、待ってください! 侯爵様!? そんな、お召し物が汚れます!」


 私は慌てて彼の袖を掴もうとして、躊躇った。

 私の手も土だらけだったからだ。

 私の静止の声を、彼は短い一瞥で遮った。


「……邪魔だ」


 低く、短い声。

 私の背筋がびくりと跳ねる。

 否定された。けれど、その響きには棘というより、ただ事実を述べるだけの重みがあった。


 彼は最後の袋を運び終えると、軽く手袋を払い、何事もなかったかのようにカウンターの前に立った。

 わずかに乱れた呼吸。額に滲む一筋の汗。

 それらが、彼もまた血の通った人間であることを雄弁に物語っていた。


 私の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。

 恐怖の壁か、偏見の壁か。


「……どうして」


 疑問が口をついて出た。

 貴族が、しかも侯爵が、平民の店で肉体労働なんてありえない。


「……通れなかったからだ」


 彼はぶっきらぼうに言い捨て、視線を逸らした。

 耳の端が、ほんの少しだけ赤い。

 嘘だ。

 通るだけなら、袋を一つどかせば十分だったはずだ。彼は全部運んでくれた。しかも、私が指定するまでもなく、正しい場所に。


 不器用。

 あまりにも不器用すぎる。

 この人は、言葉で「手伝おうか」と言う代わりに、体を使って答えを出してしまったのだ。


 胸の奥が、温かいもので満たされていく。

 それは恐怖とは対極にある感情だった。


「ありがとうございます……本当に、助かりました」


 私は深々と頭を下げた。

 顔を上げると、彼は居心地が悪そうに視線を泳がせている。

 その視線が、棚の端にある小さな鉢植えで止まった。


 私はハッとして、その鉢を手に取る。

 丸くて、棘がたくさんあって、でも頂点に可愛らしい赤い花をつけたサボテン。


「あの、これ……お礼に受け取っていただけませんか?」


 差し出された鉢を見て、彼が眉をひそめる。


「……これは?」


「サボテンです。トゲトゲしていますけど、中にはたっぷり水を蓄えていて、とても辛抱強い植物なんです」


 私は鉢を彼の手に乗せた。

 黒革の手袋が、恐る恐る棘に触れないように鉢を包み込む。


「それに……一度咲いた花は、とても鮮やかで綺麗なんですよ」


 ――あなたみたいに。


 そう言いかけて、私は慌てて言葉を飲み込んだ。

 そんなことを言ったら、不敬罪で捕まるかもしれない。いや、それ以上に、私の顔が熟れたトマトのように赤くなってしまう。


 エリオット侯爵は、手の中の小さな緑の塊をじっと見つめた。

 そして、ふっ、と息を吐く。

 それは溜息ではなく、笑おうとして失敗したような、微かな空気の振動だった。


「……世話は?」


「あ、ほとんどいりません! お水も月に一度くらいで……」


「分かった」


 彼は短く答え、懐から銅貨を出そうとした。


「い、いりません! お礼ですから!」


 私が強く首を振ると、彼は一瞬動きを止め、それからゆっくりと手を下ろした。

 

「……そうか」


 彼はサボテンを、いつもの花よりもさらに慎重に抱え直した。

 まるで、壊れ物を扱うように。


 カラン、コロン。

 ドアベルの音と共に、彼が店を出て行く。

 その背中のコートには、白い土埃がまだ残っていた。

 けれど、それを指摘するのも野暮な気がして、私はただ見送った。


 サボテンと、不愛想な侯爵様。

 その取り合わせがおかしくて、そして少しだけ愛おしくて。


「……全然、怖くないじゃない」


 一人になった店内で、私は誰にともなく呟いた。

 入り口にはもう肥料の山はない。

 けれど、彼が残していった無骨な優しさの余韻が、いつまでもそこに積み重なっているようだった。


 言葉を持たない彼の優しさを、私はまだ半分も理解できていないのかもしれない。

 それでも、明日もまた彼が来てくれるなら、その時はもう少しマシな顔で「いらっしゃいませ」と言える気がした。

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