第3話 サボテンと侯爵様
カモミールの甘い香りが、ここ数日、私の鼻腔の奥に微かに残り続けている気がする。
エリオット侯爵が店に通い始めてから、もう五日が過ぎた。
彼は毎日、決まった時間に現れ、私が勧める花を一輪だけ買い、無言で去っていく。まるで日課の巡回任務のように正確で、そして相変わらず眉間の皺は深いままだった。
しかし今日に限って、その静かなルーティンは崩れる運命にあったらしい。
「すまねぇ嬢ちゃん! 次がつっかえてるから、ここに置かせてもらうよ!」
配送業者の威勢のいい声と共に、店の入り口にドサリと重い音が響いた。
返事をする間もなく、馬車の車輪が遠ざかっていく。
残されたのは、入り口を完全に塞ぐように積み上げられた、特大の肥料袋の山だった。
「ちょ、ちょっと待って……ここじゃお客さんが入れないじゃない……!」
私は慌ててカウンターから飛び出した。
『強力培養土・業務用』と書かれた麻袋は、一袋二十キロはある。それが五つ。
私の細腕では、引きずることさえままならない重量だ。
途方に暮れて、一番上の袋に手をかける。
ざらついた麻の感触が掌を刺す。
ぐっ、と力を込めてみるが、袋は地面に根が生えたように動かない。
これでは営業妨害だ。何より、このままでは直射日光で袋の中が蒸れて、土の質が悪くなってしまう。花屋として、土を傷めるのは許容できない。
「……やるしかない」
エプロンの紐を締め直し、私は覚悟を決めた。
腰を落とし、袋の端を掴む。
せーの、で力を込めた瞬間、腰にピキリと鋭い痛みが走った。
「うぐっ……!」
バランスを崩し、よろめいた拍子に背後のドアベルが鳴る。
カラン、コロン。
「い、いらっしゃいま……ひゃっ!?」
振り返ろうとした私の視界が、突然暗転した。
いや、影だ。
巨大な影が、私と肥料袋の上に落ちていた。
見上げれば、そこにはいつもの黒いフロックコート。そして、絶対零度のアイスブルーの瞳。
エリオット侯爵が、入り口を塞ぐ土嚢の山の前に立ち尽くしていた。
最悪のタイミングだ。
よりによって、一番見られたくない無様な姿を、一番怖い常連客に見られてしまった。
「あ、あの! 申し訳ありません! 今すぐどかしますので! えっと、ほんの少しだけお待ちを……!」
私は顔から火が出る思いで、再び袋にしがみついた。
焦れば焦るほど力が入らない。汗が額を伝い、目に染みる。
ああ、もうダメだ。怒られる。
「通行の邪魔だ」と冷たく言い放たれるか、あるいは無言で立ち去られるか。
覚悟して身構えた、その時だった。
スッ、と私の横から伸びた手が、肥料袋を掴んだ。
黒革の手袋。
貴族が身につけるような上質な革が、汚れた麻袋に食い込む。
「え?」
私の呆気にとられた声など無視して、彼は無造作に腕を持ち上げた。
二十キロの土の塊が、まるで綿毛のように宙に浮く。
信じられない光景に、私は口を半開きにしたまま固まった。
彼はそのまま無言で店内に入ると、私がいつも土を保管しているバックヤードの入り口に、ドスンと袋を置いた。
そして戻ってきて、二つ目を持ち上げる。
三つ目。四つ目。
正確な動作。無駄のない筋肉の動き。
高級なコートの裾が土埃で白く汚れるのも構わず、彼は淡々と作業を続ける。
「ま、待ってください! 侯爵様!? そんな、お召し物が汚れます!」
私は慌てて彼の袖を掴もうとして、躊躇った。
私の手も土だらけだったからだ。
私の静止の声を、彼は短い一瞥で遮った。
「……邪魔だ」
低く、短い声。
私の背筋がびくりと跳ねる。
否定された。けれど、その響きには棘というより、ただ事実を述べるだけの重みがあった。
彼は最後の袋を運び終えると、軽く手袋を払い、何事もなかったかのようにカウンターの前に立った。
わずかに乱れた呼吸。額に滲む一筋の汗。
それらが、彼もまた血の通った人間であることを雄弁に物語っていた。
私の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
恐怖の壁か、偏見の壁か。
「……どうして」
疑問が口をついて出た。
貴族が、しかも侯爵が、平民の店で肉体労働なんてありえない。
「……通れなかったからだ」
彼はぶっきらぼうに言い捨て、視線を逸らした。
耳の端が、ほんの少しだけ赤い。
嘘だ。
通るだけなら、袋を一つどかせば十分だったはずだ。彼は全部運んでくれた。しかも、私が指定するまでもなく、正しい場所に。
不器用。
あまりにも不器用すぎる。
この人は、言葉で「手伝おうか」と言う代わりに、体を使って答えを出してしまったのだ。
胸の奥が、温かいもので満たされていく。
それは恐怖とは対極にある感情だった。
「ありがとうございます……本当に、助かりました」
私は深々と頭を下げた。
顔を上げると、彼は居心地が悪そうに視線を泳がせている。
その視線が、棚の端にある小さな鉢植えで止まった。
私はハッとして、その鉢を手に取る。
丸くて、棘がたくさんあって、でも頂点に可愛らしい赤い花をつけたサボテン。
「あの、これ……お礼に受け取っていただけませんか?」
差し出された鉢を見て、彼が眉をひそめる。
「……これは?」
「サボテンです。トゲトゲしていますけど、中にはたっぷり水を蓄えていて、とても辛抱強い植物なんです」
私は鉢を彼の手に乗せた。
黒革の手袋が、恐る恐る棘に触れないように鉢を包み込む。
「それに……一度咲いた花は、とても鮮やかで綺麗なんですよ」
――あなたみたいに。
そう言いかけて、私は慌てて言葉を飲み込んだ。
そんなことを言ったら、不敬罪で捕まるかもしれない。いや、それ以上に、私の顔が熟れたトマトのように赤くなってしまう。
エリオット侯爵は、手の中の小さな緑の塊をじっと見つめた。
そして、ふっ、と息を吐く。
それは溜息ではなく、笑おうとして失敗したような、微かな空気の振動だった。
「……世話は?」
「あ、ほとんどいりません! お水も月に一度くらいで……」
「分かった」
彼は短く答え、懐から銅貨を出そうとした。
「い、いりません! お礼ですから!」
私が強く首を振ると、彼は一瞬動きを止め、それからゆっくりと手を下ろした。
「……そうか」
彼はサボテンを、いつもの花よりもさらに慎重に抱え直した。
まるで、壊れ物を扱うように。
カラン、コロン。
ドアベルの音と共に、彼が店を出て行く。
その背中のコートには、白い土埃がまだ残っていた。
けれど、それを指摘するのも野暮な気がして、私はただ見送った。
サボテンと、不愛想な侯爵様。
その取り合わせがおかしくて、そして少しだけ愛おしくて。
「……全然、怖くないじゃない」
一人になった店内で、私は誰にともなく呟いた。
入り口にはもう肥料の山はない。
けれど、彼が残していった無骨な優しさの余韻が、いつまでもそこに積み重なっているようだった。
言葉を持たない彼の優しさを、私はまだ半分も理解できていないのかもしれない。
それでも、明日もまた彼が来てくれるなら、その時はもう少しマシな顔で「いらっしゃいませ」と言える気がした。




