第2話 毎日の訪問者
昨日の今日で、あの氷のような視線が夢に出てきたせいで、私の目覚めは最悪だった。
重たい瞼をこすりながら店を開ける。
路地裏の朝はまだ薄暗く、石畳を濡らした朝露が冷たい空気を漂わせていた。
「……まさか、二度も来ないわよね」
独り言を呟きながら、私は店先の看板をセットする。
昨日のガーベラを買っていった『氷の侯爵』エリオット・アークライト様。王都中の貴族が恐れる彼が、なぜか一輪の花を大事そうに抱えて帰っていった後ろ姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
あれは幻だったのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、私はじょうろを手に取った。
冷たい水がパンジーの根元に吸い込まれていく音だけが、朝の静寂を満たしていた。
しかし。
私のささやかな願望は、開店からわずか十分後に粉砕された。
カツ、カツ、カツ。
規則正しく、重厚な靴音が路地の向こうから響いてくる。
心臓が早鐘を打った。まさか。嘘でしょ。
じょうろを持つ手が震え、水が少しだけ靴にかかった。
角を曲がって現れたのは、昨日と同じ黒いフロックコートに身を包んだ、長身の美丈夫。
相変わらず眉間に深い皺を刻み、周囲の空気を凍らせるような冷気を放っている。
カラン、コロン。
軽快なドアベルが、私の処刑宣告のように鳴り響いた。
「い、いらっしゃいませ……!」
裏返った声で迎える私を、アイスブルーの瞳がじろりと見下ろす。
彼は無言のまま店の中央まで進むと、そこで足を止め、またしても黙り込んだ。
店内を見回す鋭い眼光。昨日よりもさらに厳しい気がする。棚の埃ひとつも見逃さないような、査定するような目だ。
「…………」
息が詰まる。
喉が渇いて張り付く。
どうしてまた来たの? やっぱり昨日の花が気に入らなかった? それとも、この店の立地が邪魔だと直接通告しに来たの?
恐怖で胃が痛む。エプロンの裾を握りしめる指が白くなるのが自分でも分かった。
それでも、私は花屋だ。
お客様がそこにいる限り、恐怖で接客を放棄するわけにはいかない。
震える膝を叱咤し、私はカウンターから身を乗り出した。
「あ、あの! 本日は、どのようなお花をお探しでしょうか……?」
問いかけに対する返答は、やはり沈黙だった。
彼はただ、私をじっと見つめている。
……違う、私じゃない。私の後ろにあるドライフラワーの棚か? それとも壁のシミか?
視線の意図が読めない。無言の圧力に押しつぶされそうになる。
――負けるな、ルチア。
ここで怯んだら、店主失格だ。
私は大きく息を吸い込み、彼の視線を遮るように、あえて香りの強い花のバスケットを指し示した。
「も、もしお疲れでしたら! こちらのカモミールはいかがでしょうか!」
勢い込んで言った声が、狭い店内に反響する。
エリオット様の眉が一瞬だけ、ぴくりと動いた。
「……カモミール?」
低く、重厚なバリトンボイス。
私の背筋がびくりと跳ねる。
心臓が口から飛び出しそうになるのを必死で飲み込み、私は頷いた。
「は、はい。見た目は小粒で地味ですが、とても優しい香りがします。リンゴのような甘い香りで……その、高ぶった神経を鎮めたり、安眠を助けたりする効果があるんです」
言いながら、私は一束のカモミールを手に取り、彼の前に差し出した。
甘酸っぱい香りがふわりと漂う。
彼はそれを避けもせず、じっと見下ろした。まるで未知の生物を観察するかのように。
「……神経を、鎮める」
彼がポツリと復唱する。
その言葉の響きに、ふと、昨日とは違う色が含まれている気がした。
疲れ? それとも諦め?
王都の治安を一手に担う激務。彼が背負う責任の重さは、私のような平民同然の娘には想像もつかない。
もしかして、本当に疲れているだけなのかもしれない。
そう思った瞬間、恐怖よりも「なんとかしたい」というお節介な性分が頭をもたげた。
「あの、よろしければ……香りを試してみませんか? 葉を少し揉むと、もっとよく香ります」
私は震える指先で、カモミールの葉を少しだけ潰してみせた。
立ち上る香りが強くなる。
エリオット様はわずかに身を乗り出し、鼻をひくつかせた。
その瞬間、眉間の皺がミリ単位で浅くなったのを、私は見逃さなかった。
「……悪くない」
短い一言。
けれど、それは拒絶ではなかった。
「あ、ありがとうございます! では、こちらをお包みしますね!」
安堵で膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、私は包装紙を広げた。
カシャカシャという紙の音が、静寂を埋めてくれるのがありがたい。
手早くリボンを結び、彼に手渡す。
「銅貨二枚になります」
彼は昨日と同じように、無言で銅貨をカウンターに置いた。
そして花束を受け取ると、やはり大事そうに胸元に抱え、踵を返した。
カツ、カツ、カツ。
去り際の背中は、入ってきた時よりもほんの少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。
「はぁぁぁ…………」
ドアが閉まると同時に、私はカウンターに突っ伏した。
冷たい木の感触が頬に心地いい。
二日連続。これはもう偶然じゃない。
「おいおい、大丈夫かよルチア。魂抜けてるぞ」
不意に、呆れたような声が降ってきた。
顔だけ上げて入り口を見ると、茶髪の青年がニヤニヤしながら立っている。
幼馴染のカイルだ。近所で雑貨屋を営む彼は、この店の唯一と言っていい理解者であり、口うるさいお目付役でもある。
「……カイル。見てたの?」
「見てたも何も、あの『氷の侯爵』がここから出てくるところを目撃して、肝が冷えたよ。お前、何かやらかしたのか? 税の滞納か?」
カイルは店内に入り込むと、勝手知ったる手つきで椅子を引き寄せ、ドカッと座った。
彼の軽口に、ようやく強張っていた神経が緩んでいく。
「失礼ね。滞納なんてしてないわよ。……ただ、お花を買いに来ただけ」
「花を? あのアークライト侯爵が?」
カイルが目を丸くする。
彼の懐疑的な視線は、もっともだった。
「俺には信じられねえな。あの人は『歩く法典』とか『感情のない石像』なんて呼ばれてるお方だぞ? それがわざわざ、こんな路地裏の小さな店に通う理由があるか?」
カイルの言葉が、私の胸にある不安を正確に突き刺す。
そう、理由がないのだ。
貴族なら、屋敷に庭師を呼べばいい。もしくは使用人に買いに行かせればいい。
当主自らが、しかも二日連続で足を運ぶなんて、異常事態だ。
「……もしかして、本当に地上げの偵察なのかな」
私は弱々しく呟いた。
カイルは顎に手を当て、真面目な顔で考え込む。
「偵察にしては堂々としすぎてるが……まあ、あの人の考えることは凡人には分からん。だがルチア、気をつけるに越したことはないぞ。もし退去命令が出たら、すぐに俺に言えよ。逃げる手伝いくらいはしてやるから」
「縁起でもないこと言わないでよ!」
私はふくれっ面で抗議したが、心の底には重い鉛が沈んだままだった。
エリオット様の目的は分からない。
けれど、あの眉間の皺と、花を見つめる時のわずかな緩み。
その二つが矛盾して、私の中でぐるぐると回っていた。
「でもね、カイル。あの人、お花を持つ手だけは優しかったの」
私はカウンターに残された銅貨を指先で弾いた。
カイルは「へぇ」と意外そうに眉を上げる。
「まあ、お前がそう言うなら、悪い奴じゃないのかもな。……お前の『花センサー』は、俺の商売勘より当たるからな」
カイルは軽く肩をすくめ、店を出て行った。
一人残された私は、彼が置いていった言葉を反芻する。
悪い人じゃない、か。
そう信じたい。けれど、明日もまた彼が来たら、私の心臓がもつかどうか自信がない。
窓の外を見上げると、太陽が高く昇っていた。
日差しが店内の塵をキラキラと照らし出している。
平和な昼下がり。
けれど、私の日常には、確かに異質な訪問者が定着しつつあった。




