三話目 芽の名前は
「こんばんは……」
鈴の音に驚きながら、恐る恐る中を覗く。
店は終わってしまったのか誰もいなくて、掃除がしやすいようにテーブルの上には椅子が置いてあった。
誰もいない店に肩を落として、店を出ようとした時、タッタッタッと足音が聞こえた。
振り返るとモップを手に持った女の人がいる。
ライラルの姿を下から上まで見て、女の人は低い声をだす。
「あの……店はもう終わりました……」
ポタリと自分から雨水がたれ、床を濡らしていることに気づく。
「すまない……少し腹が減っていて、開いていればと思ったんだけど……床、汚してしまったね。本当にすまない……失礼する」
早口で言って、急いで帰ろうと一歩前に足を踏み込むと、後ろに引っ張られる感覚がした。
振り返ると濡れたシャツを彼女が掴んでいた。
目を丸くしていると、彼女が眉をつり上げる。
「あの」
「はい……」
「お腹すいているんですよね?」
「あ、うん……」
「まかないのスープでよければありますから、食べていきますか?」
唖然としていると、彼女の頬がだんだん赤くなっていく。
「そ、そのままじゃ、風邪を引きますしっ……」
低い声がうわずっている。
視線をそらした彼女が妙に可愛らしく感じた。
「じゃあ……お願いしてもいいかな?」
彼女はうなずくと、シャツを離して駆け出してしまう。
タッタッタッ。
リズムを刻むみたいな足音にライラルはくすりと笑った。
しばらくして、彼女が戻ってきた。
手にはタオルと服がある。
彼女はテーブルの上に置いてあった椅子を元の位置に戻した後、こちらに近づいてきた。
つま先立ちして、タオルをライラルの肩にかける。
驚いて身を引くと、彼女は無表情のまま平坦な声をだした。
「拭いてください。風邪をひきますよ」
「いや……あの……」
「あとこれ……父のものですが、サイズが合えば使ってください」
服を差し出され慌てた。
びっくりしすぎてタオルが肩から落ちそうになり、寸前のところでキャッチする。
「あの……そこまでしてもらうわけには……」
「そうですか。なら、戻してきます」
しどろもどろに答えたのに彼女はあっさり言って、また駆け出した。
タッタッタッ。──つるっ。
慌てていたのか、彼女が何もないところで滑って転びそうになった。
「大丈夫!?」
声を張り上げて駆け寄ろうとしたら、彼女はこちらを振り向かずに体勢を直す。
「っ……大丈夫です。椅子に座って、拭いててください」
タッタッタッ。
遠くになっていく足音を茫然と見送った。
「くっ……」
彼女がいなくなってから笑いが込み上げてきた。
まるで猫みたいだ。
不機嫌そうなのに優しくて、しかもすばしっこい。
喉を震わせて笑うと、ライラルは椅子に腰をかけた。
濡れていく椅子に申し訳ない気持ちになる。
タオルで顔をふくと、太陽と石けんの落ち着く匂いがした。
鼻に匂いを吸い込んで、口から吐くと張っていた気持ちがゆるんでいった。
店内を見渡すと、小さいながらも所狭しと机が並べてあった。
壁には写真が飾られてある。
一人の女性の写真が多い。
セピア色の写真の中で彼女を見つけた。
小さい頃の写真だろうか。
目をつり上げて、ツンとすました顔をしている。
(本当に猫みたいだ……)
それが可愛らしくてじっと眺めていると、スパイシーな匂いが鼻孔をくすぐった。
匂いにつられて見ると、彼女がトレイにお皿をのせて歩いてきた。
「どうぞ……トマトのパン粥です」
「トマトの……」
初めてみたその料理に、ライラルは目をぱちくりさせた。
「父の故郷の味です。この辺りでは珍しいと思いますけど……」
「そうなんだ。ありがとう」
匂いに我慢できずに腹の虫が鳴りそうだ。
口の中もよだれがあふれて、すごいことになっている。
スプーンを手にとると、一匙すくってがっついた。
「んー!」
言葉にならない叫び声がでた。
美味しさがするっと喉を通ってしまい、慌てて二口目も食べる。
こがすまえにじっくり火を通したニンニクの甘さと、酸味を飛ばしたトマトの甘さ。
もしかしたらトマト自体がとても甘いのかもしれない。
唐辛子の辛さは鈍くなっていた腹を刺激して、もっとよこせー、もっとよこせーと、騒いでいる。
顔を近づけて無我夢中で食べた。
途中で水の入ったコップが置かれたが、最後まで一滴も飲まなかった。
口の中が幸せで、水で流すのがもったいなかった。
空っぽになったスープ皿を見て、ライラルは肩を落とした。
(食べちゃったか……もっと味わえばよかった)
名残惜しくて、皿にへばりついた残りまでスプーンでかきあつめる。
最後の一口まで美味しくて、椅子に寄りかかり、はぁと息を吐いた。
空腹が満たされてボーッとしていると、お皿を片付ける手が見えた。
はっとして、姿勢を正して彼女に言う。
「とても美味しかった。ありがとう」
彼女の目が猫のように細くなる。
「お礼なんて……私が作ったものですし……」
「そうなの? 君は料理人?」
「ち、違います! 私なんて……」
彼女は伏し目がちになり、口を尖らせる。
「父の作ったものには敵いません。父のスープはもっと美味しいんです。パンはもっとふくらんでいますし、スープだって……!」
「パン? このパンは君の手作りなの?」
気になったことを質問すると、興奮していた彼女が我にかえる。
「……手作りです。父の故郷のパンは塩が入っていないんです。だから……」
「へぇ、パンまで作れるんだ。すごいね」
感心すると彼女の目がすっと細くなった。
「……大したことありません」
「そんなことはないよ。パンもスープもとっても美味しかった」
ライラルは満たされた腹をさする。
「あんなに夢中で食べたのは久しぶりだ。本当に美味しかったなぁ……」
思い出していると、彼女の顔がだんだん赤くなっていった。
「……ど、どうも」
素っ気ない低い声に微笑みかけ、ライラルは懐から財布を取り出す。
「いくらかな?」
「え? お金なんていいです……」
両手をふる彼女を見て困った。
「それは俺の気がすまない。こんなに美味しいものを食べさせてくれた上に、タオルまで貸してもらったのに」
「いいです! そんなの、気にしないでください!」
ライラルは弱り果てて、コインを三枚、紙幣を四枚だした。
よい所でディナーを食べるぐらいの金額だ。
もっと出してもよかったが、あまり出しすぎると彼女が遠慮するかもしれない。
「じゃあ、はい。これで」
テーブルの上に置くと、彼女は仰天した。
「そ、そっ!」
「そ?」
「そんなに貰えません!!」
大きな声を出されて、口元がゆるんだ。
彼女は大慌てで何かいっているが、忙しなく動く手やつり上がった瞳は、猫がじゃれている姿に似ていて可愛くてしかたない。
にやけた口元を手で隠して、彼女に微笑みかける。
「気持ちだと思って受け取って。本当にありがとう」
借りたタオルをたたんでテーブルに置いて、席を立った。
「今度はお店が開いている時間にくるよ」
彼女は口をぱくぱく動かして何か言いたそうだったが、見てると声を出して笑いそうになったから、扉を開いた。
──リンリン
鈴の音がまた鳴り、一歩、外に出れば雨がライラルを包む。
でも今度は、雨が冷たくない。
足も軽快に動いて走れる。
腹の中がポカポカとあたたかく、雨もへっちゃらな気がした。
パシャリ。
水溜りを踏みながら走っていった。
屋敷につくと、パッドが泣きながら駆け寄ってきた。
「何時だと思ってんだよ! 心配させんなよ! の垂れ死んでんじゃないかと思ったじゃねぇか!」
怒るパッドにライラルはごめんと謝る。
頭を下げようとした瞬間、ぐらりと体から力が抜けた。
(あれ?)
「ぎゃあああ! 兄貴! 死ぬな!! 生きろぉぉ!!」
パッドの絶叫を聞きながら、ライラルの思考は真っ黒になった。
***
結局。
ライラルは風邪を引いて丸一日寝込んだ。
「なんで、風邪なんか引くんだよおおおおお!」
パッドは泣き叫びながら、ライラルの為に水枕を用意して、薬を用意して、水を用意して、着替えさせ、ミルク粥を作り、ありったけの布団をライラルにかけて、仕事に行った。
ぶつぶつと文句を言いながらも、きっちり介抱してくれる弟に申し訳ないと心で謝る。
(早く治さないとな……)
長引くとパッドが死にそうだ。
それに彼女にまた会いにいきたかった。
(名前……聞くの忘れたな……)
次に会ったときに聞いてみよう。
心に何かの芽吹きを感じながら、ライラルは目を閉じた。
***
風邪が治ったライラルはポップな色の町並みを軽快に走っていた。
途中で何匹かの猫とすれ違った。
くわっと大口を開いてあくびをする猫。
屋根の上に股を広げて無防備に寝る猫。
気だるそうにしっぽを垂らしている猫。
見慣れた猫がいつもより可愛く見える。
彼女を思い出してしまうからだろう。
にやけながらライラルは食堂を目指した。
「はぁはぁはぁ……」
人に聞いてたどり着いた食堂は、鮮やかなオレンジ色の建物の一階にあった。
(ここだ。タタタンタン食堂……間違いない)
窓から様子を覗くと、大男たちで賑わっていた。
彼女の姿を探したけど見つからない。
中に入るか入らないか迷っていると、一人の男に声をかけられた。
「なんだぁ? あんちゃん、中に入らないのか?」
「え? あの……」
「ここの店はうまいぞー。肉がいい。Tボーンステーキは最高だ。さ、入った、入った」
「えっ……あ……」
大男が先に入っていって、ライラルも中に入る。
──リンリン。
鈴の音がして、この店だと確信した。
タッタッタ。
喧騒に紛れて足音が近づいてくる。
(あ……いた……)
「いらっしゃいませ」
「よぉ。イルザちゃん。席空いているか」
先に入った男と会話していて彼女は自分に気づかない。
その間にもライラルの鼓動は早くなり、むずがゆくてたまらない気持ちになる。
(なんだこれ……)
ライラルは胸元を手でおさえて、苦しくなる鼓動をとめようとする。
それなのに、むずむずした気持ちは大きくなる。
まるで土に蒔いた種が殻を割るような──
「いらっしゃいま……」
男との会話が終わって、彼女と目があった。
驚いた顔をしている。
この前のことを思い出したのだろう。
ツンと目が細くなっていた。
それを見たら、ぱっと何かが芽吹いた。
種の殻を割って芽が伸びて。
太陽を求めて土から顔を出して。
伸びて伸びて、ぱっと芽が出る。
瑞々しい若葉が芽吹いた。
この芽の名前はきっと。
「ねぇ、君の名前はイルザっていうの?」
「え? ……そうですけど……」
「そう……俺は、ライラル」
ライラルは心に芽吹いた花の名前を口にした。
「ねぇ、イルザ。俺はね。君のことが好きみたいだ」
その言葉はイルザだけには届いたようだった。
はぁ? 何いっちゃってんのこの人。
みたいな顔をしていたから。
ポカンとする顔を見てライラルは、〝すごく可愛い顔をしている〟とのんきに思っていた。