<29>サニールートもエリックルートもはじまってるみたいですよ?
午後の最後の授業が終わって、放課後のミカエルとの待ち合わせの時間を思い出しながら、シャーロットは片付けをしていた。隣に座っていたガブリエルはシャーロットの今日のノートを書き写す作業に必死で、まだ帰り支度をしていない。
「ちょっと待ってくださいませ、もう少しですの、シャーロット。」
「大丈夫ですよ、待ってますから、」
シャーロットはそう答えると、窓の外を眺めていた。
どれくらいかかるのか判らないけれど、せっかちなガブリエルだ、そんなに待つことはないだろう。そう思って窓の外を渡る雲を見上げていると、突然、視界の中にサニーが映り込んだ。
シャーロットに微笑むと、おでこに手を当てる。
「いけませんね、シャーロット、熱があるみたいですよ?」
「え?」
「ガブリエル様、ちょっとシャーロットは具合が良くないようなので、保健室に連れていきますね。」
「は、はい?」
シャーロットが戸惑っているうちに、お姫様抱っこに抱き上げられてしまう。
「まあ、いけませんわ。では保健室にシャーロットの荷物はこれが終わったらすぐに持ってまいりますから、サニー様、先に行ってくださいませ、」
親切にどうも、とでも言わんばかりにガブリエルは微笑んで答えている。
どうして信じちゃうの?! シャーロットが話をしようとすると、サニーが遮るように言った。
「さあ、急ぎましょう、」
シャーロットを抱えたまま歩き出したサニーに、シャーロットは抵抗して降りようとしたが、しっかり抱えられていて身動きが取れなかった。
サニーは歩きながら牽制する。
「舌を噛みますから話さないでくださいね、」
耳元でサニーが囁いた。「これでおあいこでしょう? シャーロット、」
ああ、お昼休みに騙したあれの、おあいこね…。
シャーロットは恥ずかしくて瞳を閉じた。大人しく抱きかかえられているのも恥ずかしかったけれど、サニーを甘く見た自分も恥ずかしかった。
保健室には養護教員はいなくて無人だった。仕切りのカーテンを開けて、シャーロットはベッドの上に下ろされた。
無人の保健室にサニーと二人…。
シャーロットはよくない予感しか思い浮かばなくて、慌てて立ち上がろうとした。
「座って、シャーロット。」
サニーはしっかりシャーロットを抱き締めた。サニーの吐息混じりの声が、耳に甘く囁く。
「私はこのままでも構いませんが、あなたは座りたいでしょう?」
悔しいけれど座った方が抱き締められないだけましだと思ったシャーロットは、顔を赤らめながら、後退りしてベッドに腰掛けた。
隣に座ったサニーはシャーロットの膝に手を乗せ、シャーロットの手を握った。
「お昼休み、どこに行ってたのか聞きたいですが、今はそんな時間も惜しい。」
囁く声が、シャーロットには体温まで伝わってくる程熱く感じた。
「シャーロット、私は…、嫌いですか?」
まっすぐに瞳を見つめるサニーに、嫌いと聞かれて嫌いと答えられる程何かがあった関係ではない。
「嫌いではないです。」
シャーロットは思った。嫌いと言えたなら、あなたはこの手を放してくれるのでしょうか?
「私を、嫌いなのでしょう?」
何を言わせたいのだろう。サニーは、それでも納得しない様子だった。シャーロットの手をそっと撫でている。
嫌いなところは思い浮かばないけれど…、サニーの良いところなら思い浮かぶ。
「嫌いではありません。あなたの…、柔らかそうな髪も、私とは違う肌の色も、黒い瞳も、好ましいと思います。垂れてる目も、私は好きです。微笑んだ顔も、素敵だと思います。背が高いところも、私を抱き上げたままここまで来れる体力も、すごいと思います。」
「よかった、」
サニーはシャーロットの瞳を見つめて優しく微笑むと、そのまま口に、キスをした。シャーロットが驚いて抵抗しようとする手を強く握り、唇を含むように何度もキスをして、納得したのか顔を離した。
「あなたが好きです、シャーロット。」
嬉しそうに微笑まれても、シャーロットはちっとも嬉しくなんかなかった。まんまと流されてしまった…。口にキスまで許してしまって後悔ばかりなのだった。そのキスですら嫌じゃないと思ってしまう自分が情けなかった。
「あなたが、私のことをいくら好いてくれても、私にはどうしようもありません。」
シャーロットは目を背けながら言った。瞳を見てしまうと、また問答無用にキスされそうだった。このまま流されてはいけないのだ。
「それは婚約しているからですか? そんなものはどうとでもなります。あなたさえ私を好きだと言ってくれたなら。」
婚約していなければサニーを好きになったかと聞かれれば、それはそれでまた悩ましい。シャーロットはサニーとどうこうなる未来なんて考えつけなかった。
「シャーロットが望むなら、私はあなた以外に妃を娶りません。それが私のあなたへの誓いです。」
そういえば…、王族は正妃一人と、寵妃と呼ばれる愛妾が何人かいるのがどの国でも一般的だった。この国にも寵妃はいて、彼女に子供がいないから話題にされないだけだった。
サニーの国は、ミカエルのゲームの話だと第二夫人という言葉が出てきていた。
「第二夫人とか、そういう存在ですか?」
「私の国では3人まで妻を娶ることが出来ます。シャーロット以外の女性は諦める、という誓いを立てましょう。」
ハレムという言葉も出てきた気がする…?
「愛妾は、その他にもいるのですか?」
「私の父には夫人が3人と、愛妾や愛人が5人いますね。」
えっと…、1週間で面倒見切れない気がするんだけど…? シャーロットはどうなっているのか不思議に思った。
「仕方ないですね。シャーロットが望むなら、愛妾も愛人も諦めましょう。」
「婚約もしていない私に義理立てする必要はないので、気にしないでください。」
シャーロットはそういうので精一杯だった。後でガブリエルに会ったら、ガブリエルの結婚はどうなっているのか確認しようと思った。
「こういう話をきちんと決めてから婚約した方が、お互いに良い関係でいられるでしょう?」
サニーは微笑んだ。言われてみれば、そうだ。そんなことを確認したことはなかった。
よく考えれば私もミカエルと結婚したら、ミカエルに愛人ができる可能性があるんじゃない? シャーロットは今まで考えてこなかった可能性に気が付く。ちょっと、嫌かも。自分が愛人になるのも嫌だし、愛人となる女性とミカエルを取り合うのも嫌だ。
「ちょっと、考えさせてください。」
サニーへの返事ではない。シャーロットは家に帰って婚約誓約書を確認しなくてはと思った。金額のことばかりで、この前そういう話は出てこなかった。
「ええ、前向きに考えてくださいね、シャーロット。」
サニーが微笑んで、シャーロットの肩を抱いた。抱きしめられて、またキスをされそうになり、シャーロットは手でサニーの顔を押しのけ、抵抗した。何度も同じ手は食わないのだ。
「もう、ちょっと、そういうのはいらないです、」
「シャーロットは可愛いですね、」
サニーは笑いながら押し倒し、掴んだシャーロットの指を舐めた。
おでこに掛かる髪を撫でて分け、微笑みながら顔じゅうにキスをした。
「ちょっと、そういうのはもういいってば、」
唇を舐められて、シャーロットは、この聞き分けのない犬めっと思った。公爵家が領地で飼っている犬は白くて大きなスタンダードプードルで、隙あればシャーロットを舐めてくる。エリックとブルーノは面白がって眺めているだけだったので助けてくれなかった。ブルーノはそのプードルの真似をして、よくシャーロットの顔や唇を舐めた。その時のじゃれ合いを思い出していた。
「ハウスっ!」
保健室のドアを開けたガブリエルが聞いたのは、シャーロットの命令だった。くしゃみに聞こえたガブリエルがしきりのカーテンを開け見えたのは、びっくりしてベッドの傍に立ち上がったサニーの姿とベッドに横たわるシャーロットの姿だった。
ガブリエルは、「そんなに具合が悪いの?」とぽつりと呟いた。
ガブリエルが迎えに来たのと、サニーに命令してしまったので気まずくなったシャーロットは、猫を被り直し、サニーに「御機嫌よう」と微笑んで、保健室を出た。
サニーは最初びっくりした様子だったけれど、おかしくなってきたのかくすくす笑っていた。保健室に笑うサニーを残したまま、寮へと向かう。
「サニー様、お一人にして大丈夫ですの?」
シャーロットにカバンを渡しながらガブリエルは尋ねた。
「大丈夫ですよ?」
シャーロットは気にしないで歩き出した。早く自分の部屋に帰って顔を洗いたかった。
カバンのお礼を伝え、ガブリエルと別れるとシャーロットは自分の部屋に向かった。
顔を洗い終え着替えていると、誰かが部屋の中に入ってきた。
「ミチルー?」
お気に入りの部屋着のワンピースを頭から被っていたシャーロットは、声を掛けながら服から顔を出した。振り返った途端、エリックと目が合いびっくりする。エリックはドアに凭れて立っていた。制服姿のままで、腕を組んでいる。
「シャーロットお姉さま、鍵を掛けないなんて不用心すぎるでしょう?」
「エリックこそ、女子寮に何の用?」
男子は一応女子寮に入ってきてはいけない決まりがあるのだ。もちろん女子は男子寮に入ってきてはいけない。
「家族は適用外なんだぞ、お姉さま、知らないのか?」
「そういえば。だから、男子寮のエリックの部屋に入れたんだっけ?」
「あーやだやだ、ついこの前のことなのに、もう忘れたんだ?」
「覚えてます。この前はローズとお邪魔しました、アリガトー」
はいはいそーでしたねーと、シャーロットは口を尖らせた。
「今日はお姉さまに朗報を持って来てやったぞ。さっきハウスキーパーに貰った。」
「えーなに、どうせロクなことないんでしょー?」
煩い弟の厄介な性格はよく知っている。
「ほらこれ、」
差し出された手紙には、父の署名があった。封蝋は公爵家の家紋である。ペーパーナイフで封を切り、中を見ると、父の丁寧でおおらかな字が並んでいた。
「この前の話し合い、お父さまはいろいろと思うところがあったみたいだぞ。俺にも手紙があった。内容はだいたい同じだろう?」
父の手紙には、婚約破棄はしばらく保留とする旨が書いてあった。隣国からのサニーの妹の王女を正妃にという申し出と同じタイミングでシャーロットが婚約破棄を願い出ると、隣国と内通していると勘違いされるから、という理由らしかった。
「サニー王子のおかげで、婚約破棄はしなくて済みそうだね、シャーロットお姉さま。」
「そうね。」
このまま婚約破棄を希望しないまま隣国と王家の駆け引きを静観していた方が、公爵家に被害はない。王家が隣国との関係を重視して王家から婚約破棄を申し出てくれれば、公爵家に落ち度無く違約金も払わず婚約破棄ができるのだ。シャーロットはこれは根競べになりそうだなと思った。
「…このまま隣国の姫は嫁いできそうなの?」
「さあ、俺への手紙にはないだろうってあったけどね。」
「へえ、じゃあ、どうするのかしらね。」
「あんまりしつこいようだと、ガブリエル第二王女とレイン王太子殿下の成婚を先送りにでもするんじゃないか? ガブリエル第二王女は結婚を急いでいないし。」
「ミカエル王太子殿下に他にも婚約のお話がきたりするのかしら。」
「うちの情報には今のところ引っかかってきてないね。」
「ふうん。ブルーノの、ラウラ・クリスティーナ様はどうなったか知ってる?」
サニーは今日シャーロットに、もう相手が決まったと言った。
「あの王女様は自国の貴族と結婚することになったらしいよ。なんでも、ラウラ・クリスティーナ王女がポーカーで負かされたとか。」
「負けたら結婚するの? それもすごいわねえ。」
「一応王女に勝ったら望みを聞きましょうと言う約束でした賭け事らしい。冗談で言った望みを、ラウラ・クリスティーナ王女は叶えてしまったと評判だ。」
「え、もしかしてわざと負けたの?」
ポーカーで結婚が決まるとか、シャーロットには理解できなかった。
「噂だと、ラウラ・クリスティーナ王女がもともと一目惚れしてたお相手だったらしいからな。」
それはそれで素敵かも…、シャーロットは見た事もない海外の姫にちょっと憧れた。
「と、いう訳で、シャーロットお姉さま。ブルーノは自由の身になったぞ。」
そう言えば、そうだった。シャーロットはややこしくなってきたなと思った。
「あいつは一応一国の王子だ。小さい国だし公国だけど、正式に書面を整えてうちに婚約を申し込んできた場合、外交問題になるからね。王家も交えて婚約の話し合いになるから、まあ、その時は頑張って。」
「はい?」
シャーロットは首を傾げた。
「そのまま断ればいいんじゃないの?」
「貿易の事を考えると、お姉さまを手放して自国の利を優先した方が、この国は儲かると思う。」
「え?」
「たぶん、ミカエル王太子殿下も、お姉さまより貿易での利益を取ると思うな。」
シャーロットは絶句した。
「あのね、エリックはちなみに、どうしたら一番最善だと思ってるの?」
「決まってるだろ、このタイミングで婚約破棄して違約金払って王家に干渉されることなくさっさとブルーノと婚約する、かな。内通とか余計な詮索をされる前に隣国と別のところから結婚相手を持ってくれば、王家のごたごたに巻き込まれなくて済むだろう?」
「そっか…。」
お金を払ってでもミカエルとは縁を切りたいと思うのか…。
婚約破棄の条件なのだから当たり前のことだけれど、エリックの事が少し嫌いになってしまったシャーロットなのだった。
ありがとうございました




