第一話 白い鳥の後
息子が死んだ。
報せが来た。能煩野から。——兵が走ってきた。吉備武彦という男が。口の減らない男だと聞いていたが——報せに来たときは、口が利けなくなっていた。
泣いていた。——男が泣きながら走ってきた。泣きながら走れるものなのか。俺は走ったことがないから分からない。
俺は大帯日子淤斯呂和気。十二代目の王。——息子を恐れて西に送り、東に送り、走らせ続けた男だ。
「……どこで死んだ」
「能煩野で。——伊勢に近い野で」
「伊勢に近い。——大和に近い」
「はい。あと一日で——帰って来られるところでした」
「…………」
「帰りたいと——言っていました。最後に」
「……帰りたいと」
「はい」
帰りたい、と。
あの子が。——帰りたいと。
帰りたがっていたのか。——知らなかった。走ることしか知らない子だと思っていた。走るのが好きで、止まれないのが性分で、遠くに行くのが生き方の子だと。
帰りたかったのか。——ここに。この宮に。俺のもとに。
帰して——やらなかったのか。俺が。「次は東だ」と言って。座る間も与えず。飯も食わせず。——帰りたがっている子を、送り出し続けたのか。
「報告します。——最後の」
吉備武彦が言った。声がかすれていた。
「日本武尊は——西を平らげ、東を平らげ、全ての任を果たしました。クマソを討ち、出雲を討ち、蝦夷を鎮め、荒ぶる神を鎮めました」
「…………」
「帰路で伊吹山に登り——山の神に敗れました。足が動かなくなりました。草薙剣は尾張に預けてありました。剣なしで登って——負けました」
「剣なしで——なぜ」
「剣を——帰る理由にしたかったのだと。尾張に置いておけば、取りに来る理由になると。——帰る理由を作りたかったのだと思います」
「…………」
「帰る理由を——作らなければ帰れない子だったのです。帰っていいと言われなかったから。——帰る理由がなければ、帰る口実がなければ。あの人は——帰れない人でした」
帰っていい、と。
——言わなかった。一度も。
「よくやった」と言わなかった。「お疲れ」と言わなかった。「良い名だ」と言わなかった。——「帰っていい」と言わなかった。
一言でよかった。一言あれば——あの子は帰ってきた。走って。一日で。あの足なら。
一言を——惜しんだのではない。怖かったのだ。帰ってこられるのが。あの力がこの宮に戻るのが。兄を素手で壊した力がこの距離にあるのが。
怖くて言えなかった。——「帰っていい」が。
「もう一つ——報せがあります」
「何だ」
「日本武尊は——白い鳥になりました」
「…………」
「死んだ後に。体から——白い鳥が出ました。白い大きな鳥が。空に飛んでいきました」
「飛んでいった。——どこへ」
「分かりません。——あちこちに飛んでいました。大和の上を。伊勢の上を。尾張の上を。走水の海の上を。——最後に、空に消えました」
「消えた」
「はい。——どこにも降りずに」
どこにも降りずに。
走って帰れなかった子が——飛んでも帰れなかった。
降りる場所がなかったのか。——降りる場所はあっただろう。伊勢に叔母がいる。尾張に女がいる。——ここにも。この宮にも。
降りなかったのか。降りられなかったのか。——降りてよいと言う者がいなかったからか。
降りていい、と。——俺が言えばよかったのか。「帰っていい」と。「降りていい」と。「ここにいていい」と。
宮の前に出た。
空を見た。——青い空。雲が高い。鳥はいなかった。白い鳥は——もういなかった。消えた後の空は青いだけだ。
「……馬鹿な子だ」
声に出した。——初めて。息子に向かって言葉を出したのは。生きている間には何も言わなかった。死んでから——「馬鹿な子だ」と。
「帰ってくればよかったのに。——走って。飯を食えばよかったのに。座ればよかったのに。——一緒に」
誰もいない空に向かって言っている。遅い。——全部遅い。
「怖かった。——お前が。お前の力が。お前の速さが。全部怖かった。——しかし怖いから遠ざけるのは。怖いから言わないのは。——ただの臆病だった」
吉備武彦が——まだ立っていた。門の前に。
「……お前は。あの子のそばにいたのか。最後まで」
「はい。——最初から最後まで」
「あの子は——笑ったか。走っている間」
「……あまり。しかし——泣きました」
「泣いた? ——あの子が?」
「伊勢で。叔母上のそばで。——声を上げて」
「泣く子ではなかったのに」
「泣ける子になりました。——走っているうちに。人に会っているうちに」
「…………」
「最後に——歌を歌いました」
「歌?」
「倭は国のまほろば、と。——美しい国だと。帰りたい国だと」
「…………」
「それと——走れるうちに帰れ、と。止まってからでは遅い、と」
走れるうちに帰れ。——あの子が。止まれない子が。止まってから言った言葉。
俺に向かって言ったのではないだろう。吉備武彦に向かって言ったのだろう。——しかし俺に刺さった。
走れるうちに。——送り出す側にも同じことが言える。言えるうちに言え。言えなくなってからでは遅い。「帰っていい」と。「よくやった」と。「良い名だ」と。
全部遅い。——全部遅かった。
翌年。
白い鳥がいた場所に——陵を作った。能煩野に。体が残っていた場所に。
しかし陵を作ると——白い鳥が出たと言う者がいた。陵から飛び立ったと。別の場所に降りたと。——その場所にまた陵を作ると、また飛んだと。
三度作った。三度飛んだ。——白鳥の陵は三か所ある。どれが本物か分からない。三つとも本物かもしれない。三つともに——少しずつ。走る子が——走った場所に少しずつ残っている。
止まれない子は——死んでも止まれない。走り続けている。——鳥になって。
俺は——老いた。
白い鳥が消えた空を見ながら老いた。見ることしか出来なくなった。——送り出すことも出来ない。送り出す子がもういないから。
空を見ている。——青い空。雲が高い。鳥はいない。
帰っていい。——今さら言っても届かないが。言う。空に向かって。
帰っていい。——ここにいていい。座っていい。飯を食っていい。
遅い。——しかし言う。言わないよりましだ。遅くても言う方が言わないよりましだと——あの子の叔母が、最後に俺に会いに来たとき言った。
「遅くても——言ってあげてください。空に向かってでも。あの子に聞こえるかどうか分かりませんが。——言わないよりは」
帰っていい。
〈第一話・了〉




