第一章 封じられた夏
一 帰省
山あいの村に、夏の光がゆっくりと降り注いでいた。
セミの鳴き声が辺り一面に響いていて、葉の擦れる音と混じり合っていた。
木々の葉は深い緑に染まり、ゆらゆらと揺れる影を土の道に落としている。
舗装されていない道は、まだ朝露の湿り気を残していて、足元がわずかにしっとりとする。
その道を、兄弟が並んで歩いていた。
兄の直哉は中学一年生。少しだけ背が伸びたが、まだ声変わりもしていない。
弟の悠斗は小学四年生。手ぶらで歩きながら、まるで遠足に来た子どものように目を輝かせてあたりを見回していた。
「お兄ちゃん、見て! クワガタいた!」
道の脇にある朽ちかけた電柱の根元。悠斗がしゃがみこみ、指さす先に、小さな黒光りする影がうごめいていた。
「うわ、マジだ……でけぇ。どっかから落ちてきたのかな」
「うちにも持って帰りたいなぁ。虫かご、持ってくればよかった……」
「そんなの電車で持って帰ったら迷惑だろ」
直哉は苦笑しながら肩をすくめた。
元々兄弟は四年前まで湧名地区に住んでいた。
父親の仕事の都合で近県の街に移り住み、以来ずっと帰省できていなかった。
今年の夏は共働きの両親が忙しく、初めて二人きりで電車とバスを何本も乗り継いでの旅になった。
悠斗は道中ずっと興奮気味で、乗り換えのたびに切符をなくしかけたり、窓の外を見ては「山が近い!」「川があった!」と叫んでいた。
四年前まで住んでいたのに、弟はすっかり街の子になっていた。
二人が向かっているのは、母方の祖父母が暮らす湧名地区。
山々に囲まれた小さな集落で、木工細工が有名だ。
かつては湧名村と呼ばれていたが、人口の減少により市と合併し、今は湧名地区と呼ばれている。五十世帯ほどの家が点在する、静かな土地だった。
直哉がここに来るのは四年ぶりだった。毎夏の帰省が恒例行事だったが、ここ数年は受験や予定が重なって足が遠のいていた。
坂を登りきった先に、見覚えのある木造の家が見えてきた。
瓦屋根は少し黒ずんでいて、蔵と母屋がL字に並んでいる。
木戸の横には、毎年変わらぬ風鈴が吊るされていた。風が吹くたびに、涼やかな音が耳に届く。
「おお、直哉か。悠斗も大きくなったな」
縁側には祖父・嘉一が腰かけていた。麦わら帽子を手に持ち、涼しげな作務衣を着ている。
足元には白髪の混じった柴犬のシロが寝そべっていた。
「じいちゃん、ただいま!」
「お世話になります」
直哉が少し照れながら頭を下げると、祖父は嬉しそうに笑った。
「まあまあ、暑かっただろう。ほれ、冷たい麦茶があるぞ」
縁側に腰を下ろし、グラスを受け取ると、ひんやりとした感触が手に心地よかった。
グラスの中で氷がコトンと音を立てる。
口に含むと、ほんのりと麦の香ばしさが広がり、喉の渇きが一気に引いた。
「今年はセミが多いなあ」祖父が言う。
「うん、駅から来る間に、いろんな声聞いたよ。ミンミンゼミと、ヒグラシも」
「ヒグラシが鳴き出すと、一日も終わりだな」
「おばあちゃんは?」悠斗が聞く。
「台所で、とうもろこし茹でてる。お前らの好きだっただろう。冷やしておいたスイカもあるからな」
祖父母の家は、どこもかしこも懐かしかった。
柱の傷跡に、直哉が身長を測った印が残っていた。
仏間には古い掛け軸と座布団。廊下の先には、祖父が趣味で集めた農具が並ぶ物置。
しばらくして、玄関の戸が勢いよく開いた。
「直哉、来てたんだな!」
振り返ると、そこに啓太が立っていた。
直哉の小学校時代の同級生で、四年前まで毎夏、祖父母の家の周辺で一緒に虫取りや肝試しをしていた仲だ。明るくて、ちょっとお調子者。けれどその分、妙な度胸がある。
「おお、啓太!」直哉が立ち上がる。
その後ろに、初めて見る少女がいた。
背がすらりと高く、薄い色のワンピースに麦わら帽子をかぶっている。
帽子の下からは艶のある黒髪が肩にかかり、陽の光を受けてふわりと揺れていた。
表情はおだやかだが、まっすぐな視線にどこか芯の強さを感じさせる。
言葉少なで人見知りに見えるが、それは気弱な性格というわけではなさそうだった。
「詩織、こっちが直哉。俺の友達。詩織は最近、うちの近くに引っ越してきたんだ」
「こんにちは」
少女はそう言って、軽く頭を下げた。声は少し低めで落ち着いている。
「……どうも」
直哉はやや気圧されながらも挨拶を返した。まだどこか子どものようで、それでいて大人びた雰囲気をまとった少女だった。そのアンバランスさが、不思議と印象に残った。




