プロローグ あの家
本作をお読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、日本の民俗信仰・神話・伝承をモチーフにしたフィクションです。作中に登場する人物・団体・組織・地名・施設・建物・事件・儀式・口伝・家系・血筋・能力・神宝の効能などは、すべて架空のものであり、実在の人物・団体・場所・事件とは一切関係がありません。
また、作中に登場する神社・神宮・神話上の神々(饒速日命、日本武尊、天照大御神ほか)については、実在の史書や伝承を参考にしつつも、物語の都合上、独自の解釈・脚色・創作を加えています。実際の神道の教義・祭祀・信仰とは異なる部分が多々あります。特定の宗教・信仰・民族・地域を否定・批判する意図は一切ありません。
神宝の描写・能力設定は、作者による創作であり、史実や宗教的な正式見解を示すものではありません。
作中に登場する「湧名地区」「久刈家」「あの家」「骨封じ」「骨脈」などの固有名詞・概念はすべて架空のものです。実在する地名・建物・風習と同一または類似するものがあったとしても、それらとは無関係です。
本作はホラー・伝奇小説であり、死・怪異・霊的な描写を含みます。苦手な方はご注意ください。
最後に。この物語に登場する神々は、善でも悪でもなく、ただ「在る」存在として描かれています。恐れるためではなく、この国の土地と歴史の深さに思いを馳せていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
――作者
湧名地区に入る道は、県道から一本それた砂利道しかない。
カーナビはとうに沈黙していた。
画面には灰色の空白が広がるばかりで、「この先、道路情報なし」という文字だけが点滅を続けている。両側から杉林が迫り出してきて、真夏の昼間なのに空が細くなる。
夏草が轍のあいだに伸び放題で、人の往来がほとんどないことを物語っていた。
藤澤直哉は、助手席の窓に額を押し当てたまま、流れ去る木立を見ていた。
七年ぶりだ、とぼんやり思う。
「……まだ遠いか」
「もうすぐ」
ハンドルを握る早瀬詩織が短く答えた。視線は前に固定したまま、それ以上は何も言わない。
後部座席では弟の悠斗が膝の上で手を組み、窓の外を眺めていた。
その横顔は穏やかだが、直哉には分かる。悠斗の肩が、わずかに緊張している。
来るたびに、ここは変わらない。いや、むしろ少しずつ、人の気配が薄くなっている。
詩織がハンドルを切ると、木立の隙間から古い家屋の輪郭が見えた。
廃屋、と直哉は思った。しかし正確にはそうではない。
屋根瓦に苔が張り、縁側の木材は黒ずんで腐りかけているが、
玄関の格子戸は閉じられており、軒下には薄れた塩の跡がある。
人の手が、今もかろうじて入っている証拠だった。
あの家、と村人たちは呼ぶ。
名を口にすることを、誰もが避けた。
かつてそこに住んでいた一族の苗字すら、今では知る者が少ない。
ただ「あの家には近づくな」という言葉だけが、世代を超えて湧名の地に根を張り続けていた。
三方を山に囲まれた斜面の中腹に建つその家は、築年数の見当もつかない。
土台の石は積み直された形跡があり、壁の一部に不自然な継ぎ目がある。
何度か建て直されているのだと、直哉は七年前に知った。な
ぜ建て直されるのか、何のために建て直されるのかも。
直哉は目を細めた。
遠目にも、何かが違う。七年前と比べて、家の周囲の空気が違う。
重い、というのとも少し異なる。まるで家そのものが、静かに息を吸い込んでいるような。
「詩織」
「分かってる」と彼女は言った。「私も感じてる」
悠斗が後部座席で小さく呟いた。「……目が、覚めてる」
直哉は振り返った。悠斗の視線があの家に向いている。
その目が、普通の目ではなくなっている。直哉にはそれが分かった。
弟が何かを「視て」いる目だと、長年の経験で知っていた。
「悠斗、見るな」
「でも兄ちゃん――」
「今は見るな」
悠斗は黙って目を伏せた。
車はあの家の手前で停まった。詩織がエンジンを切ると、虫の声だけが残った。
夏の終わりの、乾いた鳴き声だった。
三人は、しばらく無言でいた。
啓太がいないことを、今更のように感じる。
四人でいつもここへ向き合ってきた。四人でなければ、この場所には立てなかった。今は三人だ。
啓太はどこにいるのか。今も生きているのか。
そして、何者かに利用され続けているのか。
直哉はドアを開けた。夏の熱気が一瞬だけ肌を包み、すぐに山の冷気が混じってくる。
砂利を踏む音が、静寂の中で妙に大きく響いた。
あの家は動かない。
ただそこにある。
七年前も、今も、変わらずそこにある。ただ、封じが――薄くなっている。
直哉は、胸ポケットの護符に触れた。葛葉神主が遺した、最後の護符だ。
神主はもういない。手紙と記録だけが残されていた。
「次に目が覚めたら、封じは効かん」
七年前に言われた言葉が、耳の奥で蘇る。
そして今、目が覚めつつある。
直哉は一歩、踏み出した。
かつて、この家にはある一族が住んでいた。
村人たちは今も、その一族の名を口にしない。ただ「久刈」という苗字だけが、古い記録の端にわずかに残っている。
その名が何を意味するのか。なぜこの家が建て直され続けるのか。
なぜ死者の骨が扉に打ち込まれているのか。
それを知ったのは、七年前の夏だった。
直哉が、十三歳の夏だった。
―― プロローグ 了
[注意事項]
本作に登場する儀式・除霊方法・護符の使い方などは創作です。実際に試みることは危険ですのでおやめください
登場する実在の神社・神宮への訪問・参拝については、各施設のルールを必ずお守りください
本作の内容を無断転載・二次利用することはご遠慮ください




