第18話 PCR検査
「うあー……やばい。自堕落すぎぃ……」
目覚めた俺は、日が既に高く昇っていることに気付いて軽い自己嫌悪に陥ってしまった。
隔離生活でできることは、暇つぶしと食っちゃ寝だけ。
五日目にして既にこの生活に飽き飽きしていた。
史があれだけ発電機を回したがるのもなんだか分かる気がした。
「顔拭くか……」
俺はもそもそ動いてベッドから降りると、机の上に置いてあったウェットティッシュを取って顔を乱暴に拭う。
清拭こそしているものの、長期間水で洗っていない顔は、何となく脂ぎっている感じがした。
「風呂入りてぇなぁ……」
ぼやいたところで入れるのはあと9、10日後だ。
俺はため息をつきつつ、せめて風を感じようと窓を開けた。
「千里は……居るわけないか」
隔離生活に入って以降、千里とのやり取りは激減している。
今も千里の部屋はカーテンが閉められ、中の様子をうかがい知ることはできなかった。
「ちょっとー、お兄ちゃ~ん。ようやく起きたんでしょ~? お母さんが怒ってたよ」
「あー……」
俺が窓を開けた音が聞こえたのだろう。
ドアを貫通して史の声が俺の元まで届く。
ちょっと呆れたような声色なのは、こうして寝過ごすのが三回目になるからだろう。
本格的に襟を正す必要があった。
「なあ史、朝ご飯って……」
「もうすぐお昼ごはん」
「ごめんなさい……」
人間の体というものは不思議なもので、数カ月に渡ってあまり食べない生活をした結果、割と少量の食事でも問題ない体質に変わってしまっていた。
とはいえさすがに3日連続で1日少量の豆を2食というのは無理があったようで、俺の胃袋は先ほどから何度も抗議の悲鳴をあげていた。
「明日からきちんと起きるから少し量を増やしてもらうのは……」
「15時くらいに冷えた豆ならいいよって」
ガスはなんだかんだで値が張るため、俺の我が儘で使うのは無理なのだろう。
もともとは自分が蒔いた種だったため、俺は仕方なく受け入れるしかなかった。
「じゃあ――」
ふと、ガラガラという聞きなれない物音が窓の外から飛び込んでくる。
いや、違う。
昔こそ聞きなれていたが、世界がこうなってしまってから全く聞かなくなったから、一瞬それがなんの音だったか理解できなかっただけだ。
それは、ディーゼルエンジンが動くときに出す物音だった。
「俺の検査かな?」
「わかんないけど、たぶんそうじゃないかな」
今車を使えるのは、ほとんど政府関係者に絞られる。
パンデミックが起きた当初は一部のマニアが食用油でバイクなんかを使っていたが、今ではほとんど見かけない。
大きな音はそれだけで人目を引く。
きちんと動くバイクなんて代物は、人を傷つけて生きる者達にとって格好の獲物だ。
使いたくても使えないのだ。
「でも、なんか方角が違うんだよな」
正確な方向は分からなかったが、エンジン音はこの家ではなく、むしろ千里の家から聞こえている様な気がしたのだ。
俺は開いている窓にから頭を出して、周囲を見回す。
すると予想通り、軽トラックを改造して後方に幌を取り付けた車が千里の家の前に止まっていた。
激しく俺の胸が騒ぎ出す。
千里は以前こう言っていなかっただろうか。
お父さんが熱っぽいと言っていたと。
千里の父親である浦木俊彦は、政府が運営する農場で働いているのだが、ウィルス感染を防ぐため、担当地域と担当グループは完全に固定されていて、グループ全員がひとつの家で共同生活を送っている。
これは飛沫によって感染するルインウィルスに対して有効な防御手段なのだが、同時にグループの1人でも感染してしまえばグループ全員が感染してしまうという欠点もあった。
そして、俊彦が感染したとすれば、その俊彦と濃厚接触をした千里たちも感染してしまっている可能性が高かった。
「マジかよ……」
俺の視線の先で、頭から足の先まで包む形の防護服を装着した人が2人、軽トラックの運転席と助手席から姿を表した。
2人は迷うことなく千里の家の門扉を開けて敷地内に入ると、かなり強い力でドンドンと入り口の扉を叩き始める。
間違いなく、目的は千里と千里の母親だろう。
ずっと家に閉じこもっている千里たちに防護服を着た人が会いに行く理由は……ひとつしかない。
最悪の予想が、目の前で現実となりつつあった。
「お兄ちゃん、うちに来たよ! お兄ちゃんの検査じゃないの?」
うちにも来たのか、なんて言いそうになり、慌てて言葉を飲み込む。
「……分かった、準備する。史も部屋に入っとけよ」
「うん。お兄ちゃん、絶対大丈夫だからね。私がついてるから」
「ああ」
俺は大丈夫だろう。
だが、千里は……。
廊下に居て千里の家に防護服を着た人が入っていったことを、史はまだ知らない。
どう伝えるべきか、俺には戸惑いしかなかった。
「それでは、血液の採取を行います。この検査はルインウィルスに感染していないかどうかを検査するもので、それ以外のウィルス、疾病を調べるものではありません」
透明なビニールのマスク越しに目元が鋭い女性が事務事項を淡々と告げて来る。
考えてみれば部屋に女性と二人きりになるシチュエーションなんて、史と母さんを除けば初めてのことだった。
状況的にそういう意味での緊張なんてしようはずもないのだが。
「分かりました」
俺は頷くと、袖をまくった右腕を女性の方へと差し出した。
「それでは採血に移りますが、食後三時間以上経っていますか?」
「あ、はい。朝ごはんを食べ逃したので、食事から12時間以上経ってます」
これは父さんから聞いたのだが、PCR検査は食後最低でも3時間以上経過していることが望ましいのだそうだ。
この昼前の時間帯に家を訪れて来たのはそういう理由もあったのだろう。
他にも水を沢山飲んでいないかとか、薬やサプリメントなど色々と気にすることがあり、そういった物が混じれば混じるほど、検査の精度は落ちていく。
最大で7、80%もの精度が出るのだが、雑にすれば40%かそれ以下にまでなってしまう。
ただやればいいというものではないのだそうだ。
そんな話をしている間に、女性は手際よくゴム管で俺の腕を縛ったり消毒したりと準備を整えていく。
「それじゃあ、少しチクっとしますよ」
「はい」
俺の出した腕に女性が注射針を突き刺していく。
血管の中に針が潜り込み、わずかに盛り上がっていく様子は、見ていてあまり気持ちのいいものとは思えなかった。
そんな気分を誤魔化すために、何気ない話題を振ってみる。
「これって、PCR検査ってやつですよね?」
「よくご存じですね。ですがそれだけではないのですよ。その他にも白血球やリンパ球の数だったりフェリチンが高値であるか……まあとにかく様々な検査をします」
確かに女性は何本もの血液サンプルを採取している。
PCR検査だけならばこんな数は必要ないのは素人目にも理解できた。
「でも昔はマスコミがPCR検査しろしろうるさかったじゃないですか。PCRだけで十分じゃないんですか?」
「いえ、PCR検査だけではどうしても偽陽性が出て来てしまったりと不十分ですので、日本では様々な検査を行い、総合的に判断しています。海外でPCR検査がもてはやされたのは、それしか検査手段がない場合が多いんですよ」
「へー」
確かに日本ではそこらに居る町医者がCTなどを持っていたりする。
海外では大きな病院に行かなければそんなものは利用できず、何時間も待たされてようやく受けられることがほとんどだ。
それだけ日本は他の検査体制も整っているため、PCR検査だけで判断をせず、より高度な判断が出来るとの考えからだろう。
「素人考えで専門家に意見するってやっぱり危険かもしれないですね」
「そんなことはないですよ。専門家でも間違いはありますし、なにより不安になっている皆さんがそういう反応をしてしまうのはよく理解できますから」
女性はグローブを装着しているというのにも関わらず、器用に注射器を操ってあっという間に採血を終えてしまった。
「あの」
テキパキと道具を片付けている女性に、俺は別の話題を切り出した。
どちらかと言えば、こちらの方が本命だ。
「隣のこと、聞いてもいいですか?」
「……プライバシー保護の観点からお答えはいたしかねます」
彼女達がやってきた時点でほとんどバレバレなのだが、それでも答えないのは千里たちの身を守るためでもあるのだろう。
感染した事実を知った隣人が、ウィルスから身を守るためだと放火を行った事件は数えきれないほど存在する。
千里と俺の関係を女性が知らない以上、なぜ来たのかを教えてくれるはずがなかった。
「すみません、俺と千里……隣に住む女の子とは仲がいいんで、ほぼ毎日あの窓越しに会話をしてたんです」
俺は窓を指さして女性にそう尋ねてみる。
これは、ちょっと意地悪かもしれないが、引っかけのようなものだ。
「その会話が原因になって、俺が感染するとかないでしょうか?」
今女性は、隔離施設から脱走した少女と接触した俺の検査をしに来たのだ。
つまり俺が感染源となって、千里に感染させるかもしれないというのが普通の見方だろう。
しかし俺は、俺が、千里からウィルスを貰ったのではないかと尋ねたのだ。
普通なら逆だと思うはずなのだが……。
「ちょっと拝見させていただいても?」
「はい」
女性はなんの疑問も抱かず窓に近寄ると、千里の部屋の窓を確認する。
目算で彼我の距離を測り、自信たっぷりに頷いた。
「これだけ距離が開いていて、しかも屋外ですから感染の危険はまずありません。飛沫は確実に下に落ちるので、こちらに届くことはないでしょう」
やはり女性は向こうからこちらへと考えている。
それはつまり、千里の方が感染源足りえるとの認識を持っているからだろう。
悲しいことだが、俺の想像は正しかったのだ。
「ありがとうございます」
「いえ、天津さんも自主隔離は大変でしょうが頑張ってください」
女性はそれだけ言うと、手早く道具をしまって部屋から出て行ってしまった。