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待ち合わせ場所に訪れた彼女は、赤い傘をさしていた。普段、二人では訪れたこともなければ、全く馴染みのない、各駅停車しか停まらない小さな駅だ。
待ち合わせにここを指定したのは彼女だが、偶然にも、僕にとってもこの場所は都合が良かった。
駅の改札口から、バスのロータリーを挟んで、チェーンのカフェがある。商業ビルの2階に入っているこの店の窓は、通りに面しているので、ちょうど駅の改札口に立つ彼女を見ることができた。
背もたれのないカウンター席に座りながら、改めて、窓越しに彼女の方へ目をやると、やっと雨が止んだことに気がついたのか、傘を閉じ、スマートフォンを持っていた。
改札口の前に、妻の奈々美がそこに立っていた。
スマートフォンを確認する。妻のアカウントに接触するために作った僕のアカウントを開くと、DMが一件届いていた。
『すみません、一番大事なことを忘れていました。わたしは』
妻からのメッセージだ。
言葉はそこで一度途切れ、チャット欄に僅かな沈黙が流れた。僕は既読だけを残し、道路を隔てた向こうにいる彼女の様子を伺う。
「ベージュのワンピースに、黒の・・・」
続けてメッセージが届く。黒のバック、目印の赤い傘。妻が朝、家を出た時の服装と持ち物が、羅列されていく。
待ち人が来ると信じて、取り残されたように、ポツンと佇んでいた。
その姿を見ていると、自分は酷く間違ったことをしているのではないかと気付き、罪悪感のようなものが胸にうずいた。
それでも、迷いを断ち切った。
今は何も考えないように感情に蓋をして、ただ彼女の様子を観察した。
『少し早いですが、待ち合わせの場所にいます。もし、迷っているのなら、断ってください。お気遣い頂かなくて大丈夫です』
待ち合わせの時刻が迫っていることに不安になったのか、連続してメッセージが送られてきた。
僕の方からも、事前に準備していた文章をコピーして、返信を返した。
『すみません、少し遅れます』
既読マークと共に、『承知しました。お気をつけてお越しください』と返信が届く。
『一つ、お聞きしてもいいですか?』
これも、事前に準備していた言葉だった。
既読が付き、ほんのわずか、逡巡するような間があったあと、『なんでしょうか?』と返ってきた。
『あなたは』
メモ帳からコピーした文章を送る。
『なぜ、安楽死を希望するんですか』
面と向かっては、ずっと聞けなかったことを尋ねた。
安楽死をすることに決めた。
妻はすでに決まっているカレンダーの予定を読み上げるように、さらりと僕に告げた。
安楽死。
唐突に言葉として耳にしても、一瞬、何を言っているのか分からなかった。
だがすぐに頭の中で、ある映像と結びついた。
それは、その少し前に、関西の地方局が制作した、あるドキュメンタリー番組で、全身を癌で犯された40代の女性が、スイスで安楽死を受けるというものだった。
なぜ安楽死を希望するのか、送信したメッセージをじっと見つめる。
返事がすぐには返ってこないことは、わかっていた。画面を見つめる代わりに、一度も口をつけていなかったコーヒーに手を伸ばす。
窓の向こうにいる妻を見ながら、手の動きの感覚だけでコーヒーを口に運んだ。
奈々美は、しばらくスマートフォンを見つめたあと、画面に指を重ねた。
自分の手元も、窓越しの妻も直視することが出来ず、逃げるようにテーブルに目を移した。
黒ずんだ木目のテーブルとコンセントの差し込み口をただ見つめる。さらに、気を紛らすために、周りの音に耳を立てる。普段は気にも止めることはなかったのに、談笑する主婦や学生の笑い声に、苛立ちを感じてしまう。
テーブルが、わずかに震えた。
通知を知らせる振動には気付いたが、すぐに見ることは出来なかった。
『寝たきりになって、何もできなくなって、天井を見上げている自分を想像すると、何よりも怖かったんです。それと死ぬことを比較して、マシな方を選んだだけです』
これは、直接妻の口から聞いていたことだった。
『それに』
最後に、もう一言添えてあった。
『わたしの世話で、夫の人生を壊したくないからです』
聞いたことがない言葉なのに、頭の中で、はっきりと、妻の声で再生された。
これ以上、妻を待ちぼうけで放置することに耐えられず、これも予め用意していた文章をメモアプリからコピーした。
『やはり決心がつかず、申し訳ありません、蛍さんにも、私から連絡を入れておきます』
メッセージを送信した。
顔を上げて、駅の方を見る。
ほんのわずか、妻の姿が見えたが、すぐに改札から出てくる人の波にかき消された。
スマートフォンの画面には、『了解しました』と返信があり、その数秒後、続けて『どうか、お気になさらないでください』という言葉も届いた。
改札口の人の流れは一度途切れ、再び妻の姿が見えた。
一人の男が妻に近づいていく姿が見えた。思わず、座席から腰を浮かせて、窓に張り付くような姿になってしまった。
紺色のジャケットを羽織り、マスクで顔を隠す。周囲を警戒しながらも、真っ直ぐに妻の方へと歩み寄った。
一週間前のことだ。
会いたい人がいると、妻に相談された。
夫としての僕にではなく、SNSで繋がっている匿名のアカウントとして、『一度、話を聞かせてもらうことになった』と、教えてくれた。
国内で安楽死の処置を行った医師のことだった。
もちろん、その時には、DMのメッセージを通して、全力で止めた。
どのような人物か分からない、事件に巻き込まれるかもしれない、だから絶対に会うべきではないと、くり返し警告した。だが妻は、一人でも会いに行くと頑なに譲らなかった。
いっそのこと正体を自白し、夫として無理やりにでも、家に閉じ込めておくことも考えたが、そんなことをしても、彼女の意思が揺らがないことは分かっていた。
今、その医師と会うことを止めても、これからずっと、24時間監視することはできないし。
いずれまた絶望し、自ら命を断とうとするだろう。
だからせめて、いつどこで会うのかを知り、近くで様子を見るため、果たすつもりのない待ち合わせの約束をしたのだ。
男が妻に話しかける。
何かあれば、いつでも駆け寄ろうと、立ち上がり、スマートフォンを握りしめた。
次の瞬間、妻と男は、人混みの中に紛れ、姿が見えなくなった。




