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スイスには、夫と娘は連れて行かない。
言い終えた美智子さんは、肩の荷が下りたというように、わずかに顔の力が抜けた。だが、すぐに僕らの顔色を伺う表情になった。
僕と遠藤さんも、無言で顔を見合わせる。番組として、家族との別れをクライマックスにする予定だとは、彼女には伝えてはいない。
だが今、目の前でうつむく顔を見ると、こちらを失望させたのではないかと、不安な思いを抱いているように見えた。
落胆していると受け取られないように、できる限り、なんでもないことのように、「どうしてですか?」と、僕の方から尋ねた。
「やっぱり、あの子のこれからのことを考えると、母親が目の前で死ぬのを見せるのはね、やっぱり・・・」
濁しながら、曖昧に言葉を閉じた。
だがそれで、美智子さんが、僕らに取材を依頼した理由が、ようやく分かった。
日本に残す家族のために、自らの最期を映像として、届けたかったのだろう。
公園からの帰り道は、普段、美智子さんがよく利用しているスーパーへと立ち寄った。ひとつふたつと、食材をカゴに入れていく美智子さんを、少し離れた場所から撮影する。
カメラマンの提案で、ここでは僕らは話しかけず、ただ遠巻きに買い物風景を撮影することにした。
オンエアでも、ナレーションで何か言葉を重ねることはなく、ただ彼女の生活を映すだろう。家族を残し、一人で安楽死を迎えるという選択したあとに、ただ黙々と家族の夕食の準備をする。
遠藤さんも、何か自分の思いを重ねるよう
に、美智子さんの背中を見つめながら、ポツリと漏らした。
「俺の母親が、8月に死んだんだけどな」
彼女に聞こえないように、ため息に乗せた声で言う。
すでに知っていたことだったが、無言で頷き言葉を待った。
「美智子さんの言う通り、最後の言葉って、ずっと残ってるんだよな」
「それって・・・」
遠藤さんは、「俺の母親の場合」と前置きし話し始めた。
「怖い、だった」
僕は、もう一度深く頷いて、言葉の続きを遠藤さんに委ねた。
「怖い怖い怖いって、震えながら俺にしがみついて、それでも俺は」
何も言えなかったと、後悔を滲ませた。
「なんで、あのとき、大丈夫、だって、言って、やれなかったん、だろうな」
途切れ途切れに、短い息で言い終えると、最期は深いため息を漏らした。
美智子さんは、時折、後方のカメラを気にしている様子だったが、少し撮影の雰囲気に慣れてきたようで、今は真剣な顔で鍋に入れる魚を選んでいた。
「今でも、時々、信じられないんだよな」
「何がですか?」
「なんか・・・」
口ごもりながら、遠藤さんは続ける。
「母親と会えるのが、これで最期のはずはない、いつかまた会えるはずだって、いなくなったことが信じられないっていうのかな。でも、もう二度と会えないんだなって、当たり前だけど気付いて、でもまた会えるんじゃないかって・・・」
その繰り返しなんだろうな、人が死んだあとなんてと、寂しそうに付け加えた。
「安楽死か」
遠藤さんは、独り言のように言って、それきり黙ってしまった。
遠藤さんは、ずっと仕事一筋で、結婚をしていなかった。子供も、いないはずだ。両親を亡くし、兄弟もいない、本当の一人になってしまった、寂しさは僕にはまだ分からない。
そんな遠藤さんが、「安楽死」という言葉に、どのような意味を込めていたのか分からない。
安楽死をテーマに一本、ドキュメンタリーを作る。
そう企画が上がった時、思い出した動画があった。
豪雨災害のハッシュタグを追う中で見つけた短い動画で、そこに映っていた一人の青年に見覚えがあった。
動画はおそらく、避難所になっていた公民館の屋上から撮影されたもので、映像の中でその青年は車椅子に乗って、ビルに挟まれた小さな遊歩道にいた。
青年の姿は、2年前、関西地方で放送された、夕方のドキュメンタリーの中で見ていた。
下半身麻痺と精神疾患を抱えた30代の青年が、一般企業での就労を目指すという筋立ての短いドキュメンタリーだ。
試用期間が終わり、勤務先の社長は言葉を選びながらも、ここで雇うことは出来ないと告げた。
社長の言葉に彼は頷き、「はい」と、か細い声で答えた。 「そうですよね」「自分でもそう思います」「すみません」、笑顔のまま彼は繰り返した。諦めたように笑いながら、唇は震えていた。
その青年を動画の中で見つけた。
画質の荒い映像では、顔もはっきりとは分からなかった。だが、車椅子の背中にかけられた赤いポーチで青年だと気付き、取材の時の記憶と結びついた。
青年の母親が、お守り代わりに持たせていたものだった。
動画の中で青年は車椅子に乗って、諦めたように天を仰いでいた。
動画投稿者の「ああ・・・」というかすれた声が漏れ聞こえた直後、街に土石流が流れ込んだ。
土石や倒木、瓦礫や車など、あらゆるものを巻き込んで、黒い塊となり、青年を車椅子ごと押し流したのだ。
何度もその光景が蘇った
諦めたように、天を仰いだ青年の姿がどうしても頭から離れなかった。
安楽死について、自問自答を繰り返す中で、なぜか青年のことを思い出した。
安楽死とは、迫り来る濁流を前にして、諦めて空を見上げることなのか。それならば、安楽死ではない死に方とは何なのか、考えても分からなかった。
美智子さんは、少しスーパーの中を歩いただけで、体力を消耗してしまったようで、カートに体重を預け、息を整えている。
足が上がらず、地面を擦りながら、小さな歩幅でゆっくりと進んだ。




