大将と子猫
「というわけで、一応住む場所も仕事も見つかりました。店長には今まで大変お世話になり、ありがとうございました」
若い女の子が憧れるようなポップで甘いテイストの家具が設置された休憩室。
そこに置かれた猫脚のソファに優雅に座り、真っ赤なスリット入りのドレスから覗くちょっと逞しい足を組んだ目の前の女性に向けて、晶はぺこりと頭を下げた。
真っ赤なチェリーのように艶やかな唇をへの字に曲げて晶を見つめる彼女は、この繁華街の一角に店を構える「ソムニウム」の店長で、今日も艶やかな金髪をきっちり結い上げ、付け睫毛に濃いアイシャドウもばっちり決まっている。
その界隈では名店として名高いこの店は、晶が高校入学から今までお世話になったバイト先で、晶はここで三ヶ月ほどカフェの給仕として働いていた。
この度、香月の家の住み込みの使用人として正式に働くこととなった晶は、正式に「ソムニウム」での仕事を辞めるため、ここにやってきたのだ。
「あんた…あの日いきなり消えたと思ったら、そんなことになってたの?」
胡散臭そうな目で晶を見ていた店長は、溜息交じりにそう言うとキセルとライターを取り出した。
あの日とは、晶のバイト先に香月が乗り込んできた時のことだろう。あの時、仕事中だった晶は香月に連れられて何も言わずに店を出てしまった。そのことがずっと気になっていたが、どうやら自分はあの日、いきなり消えたことになっていたらしい。
「あの、あの日のことは大変申し訳…」
「いえ、もういいの。…あの日、私の前に天使が現れて言ったのよね。あんたを連れて行くけど心配しなくて良いって」
「えっ?」
自分の知らない所でそんなやり取りがあったとは思わず、晶は虚を突かれる。それに構わず、目の前の彼女はまるで夢見る少女のような瞳で虚空を見つめた。
「そしてあの天使は、私を極上の天国へ誘ったの。…もう最高の気分だったわ!だから私としたことが、仕事のことも忘れてしばらくそれに浸っていたのよ。そしたらいつの間にかあんたが消えていた。けど、客も帰った後だったし、あんたの荷物も消えていたから、ああ、天使の仕業ねって妙に納得したの」
「はぁ…」
これは、もしかしなくても、香月の仕業だろう。確かに彼は天使のような美青年だし、何やら不思議な力があるようなことを本人が言っていた。晶も何度か催眠術のように眠らされたことがあるし、考え出すと彼の周りには不思議なことが多すぎるのだ。
しかし、その不思議を暴こうとすると、途端に彼の存在が消えてしまうような、そんな危うさが香月にはある。
晶がまだ知らない香月の一面がチラリと見えるたび、彼の瞳の中に何か濁りのようなものを感じることがある。晶はあの美しい瑠璃色の瞳を濁らせたくなくて、香月の不思議をそのまま受け入れることにした。普通だったら気味が悪いと思うかもしれないが、晶は死の危険が迫った時に、香月が言うところの「不思議な力」に助けられたことがあるため、もう彼の不思議さを否定することはできなかった。
(それに今、私が前を向いて生きていられるのは、半分以上香月さんのおかげだしね)
彼のおかげで晶は父親の死の孤独から抜け出せたし、生きる糧も与えてもらった。だから晶は彼の取り巻く世界をそのまま受け入れながら、少しでもこの恩に報いたいと思っている。
改めて決意を胸に店長に向き合うと、彼女は片眉を上げて興味深そうに晶のことを見た。
「ふ〜ん、あんたそんな顔するようになったんだ。まぁ、あの時の天使に引き取られたなら面白いじゃない。自分で決めたなら引き止める理由はないわね」
そう言って彼女はニヤリと笑う。晶は改めてもう一度感謝を込めて頭を下げた。
「今まで、本当にありがとうございました」
「うん。―――じゃあ、そういうことなら明日は『あーちゃん』の卒業ってことで、一日働いてもらうわね」
「…えっ!?」
驚いて顔を上げると、店長が楽しげにキセルに火を付けた。
「だって、あんた自分では無頓着だったけど、結構人気があったのよ?芋っぽくて素人感満載なのが良いって、隠れファンも多かったし。それなのにいきなりフェードアウトなんて、通ってくれたお客さんに失礼じゃない」
「え…?そう、だったんですか?」
驚きの事実に晶は目を丸くする。まったく気付かなかった。今まで自分のことでいっぱいいっぱいで、淡々と給仕の仕事をこなしていただけだったが、まさか影で応援してくれていた人がいたとは思わなかった。
「…まぁ、中には妙なやつもいたけど、裏のお兄さんたちに睨みをきかせてもらってからは静かになったし」
「えっ?」
「何でもないわ。じゃあ、今の雇い主が帰ってこないうちにパーッと終わりにしちゃいましょう!」
そう言って店長は早速、手元の端末を操作し始めた。多分晶の卒業を店のサイトに告知して客を呼び込むためだろう。
晶はもう今日で辞めるつもりだったが、この分だと明日はやるしかなさそうだと諦観する。
しかし、幸い今の仕事は休業のようなものなので、いい機会かもしれないと思い直した。晶は店長や客に恩返しするためにも、明日は頑張ろうと覚悟を決めた。
***
真夏の太陽が西の空に傾き、空を水色と桃色に染め始めた夕刻。晶は思い立って、ついこの間まで住んでいたアパートの跡地に足を向けた。
最寄り駅で停まった電車から見慣れたホームに降り立つと、むわりと熱風が顔に吹き付ける。茹だるような暑さの中、改札を抜けて晶は通い慣れた街並みを通り過ぎて行った。
ついこの間まで毎日のように見ていた街並みが、もう違ったものに見えるのが不思議だった。
こうして新鮮な気持ちで歩いていると、見えてきたのは見慣れたボロアパートではなく、造りかけの近代的な建物だった。
「もうこんなにできてるんだ…」
ついこの間までそこには鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた住み慣れたボロアパートがあったはずなのに、今はその面影が一つもない。代わりに足場に囲まれたコンクリート造りの無機質な建物が建てられ、木々が生い茂っていたはずの木陰の庭には、代わりに真っ黒いアスファルトが敷かれていた。
「はぁ~…変わったなぁ」
この場所は物心ついた時から父親と二人で住んでいた思い出の場所だった。しかし、ここまで面影が取り去られてしまうと、もはや感嘆の息しか出てこない。
そうやってしばらく新しい建物を見ていると、晶の耳にどこからか微かな鳴き声が聞こえてきた。
まだ幼そうなその鳴き声を聞いて、どこからだろうと辺りをきょろきょろと見回す。すると、ちょうど隣家の植え込みから真っ黒い影が飛び出してきた。
「わっ!…大将だ!!」
その影の正体は、住んでいたボロアパートを縄張りにしていた野良猫だった。
晶は思わずその影のように真っ黒な猫に走り寄る。「大将」とはその風体から晶が何となく付けた名前で、晶が寂しい時に傍にいてくれたりして大変世話になった黒猫だった。
大将は晶の姿を認めると、そこにちょこんと座り込み、じっと晶のことを見つめた。
その口に何か黒いものを咥えていて、近づいてよく見ると、その黒いものは子猫だった。その子猫は大将に首根っこを咥えられ大人しくしている。
「えっ、もしかして、大将の子供!?…可愛い~!!!」
ブルーグレーの瞳をまん丸にして晶を見つめてくる子猫が愛らしくて、晶は目じりを下げてとろけそうな顔になる。これはかなりの美猫ではないだろうか。改めて見ると、大将とは毛の色以外どこも似ていないので、きっと奥さんの方に似ているのかもしれない。
「大将やるなぁ~この色男」
「……」
何故か大将に呆れたような目で見られた気がするが、気のせいだろうか?
すると大将は子猫を地面に下し、再び晶の方を見て「なぁ~」と鳴いた。そして後ろを向くとそのまま去って行こうとする。
「ちょちょちょっ!大将!?この子は!?」
「ぶなぁ~」
そう一声鳴くと、大将はひょいっと近くの生垣に入って行ってしまった。呆気にとられた晶は、子猫を置いて大将を追いかけることもできず、子猫と生垣を交互に見るしかできない。
「ちょっと…どうするの?この子…」
「ミ~」
晶の方を曇りなき眼で見つめてくる子猫に、晶は冷や汗を垂らす。
(え?え?どうする!?だって、お屋敷に連れて帰るわけには…)
「ミ~!」
突然、子猫が晶の近くに寄ってきて、その足に纏わりついた。そのまま必死に晶の足に顔を擦り付けてくる。時折こちらを見上げては撫でてほしそうに甘えた声で鳴く姿に、我慢できずに晶は子猫を抱き上げて撫でまわした。
「あ~っっ!!可愛い!!どうしよう!!?」
「連れてお帰り…」
「わっっ!!」
いきなり後ろからしわがれた声がして、晶は文字通り飛び上がった。振り向くと隣家のブロック塀の前に、ぼろぼろの着物を着た白髪の老婆が座り込んでいる。老婆はしわしわの顔に埋もれた片目を晶に向けて、じっと晶を見つめていた。
見た目からしてこの辺りに住んでいる住民ではなさそうだ。まったく知らない老婆だったが、恐ろしい見た目に反して、晶は何故か懐かしいような、不思議な感覚がした。それに、どこからともなくいい香りがしてくる。これは確か、秋口に香る金木犀の香りではないだろうか。
そう気付いた晶は、もしかしてと自分が最近目覚めた能力のことを思い出す。晶は自分が霊的なものが見える体質になっていたことをすっかり忘れていた。
「え、えっと、こんにちは…。あの、さっき連れて帰れって言ったのは、この猫のことですか?」
「そうだよ…そいつはあんたの役に立つ。それに、行きたがってるから連れて行っておやり…」
「私の役に?…それにこの子がお屋敷に?」
そう聞くと、老婆はにやりと口角を上げ、そのまま消えてしまった。
慌てて周りを見回すが、金木犀の香りだけを残してその姿は跡形もなく消えてしまい、晶は夢を見ていたような気分になる。
「ミ~!」
「ど、どうしよう……」
腕の中で無邪気に鳴く子猫を抱えたまま、夕闇が迫る道端で晶は途方に暮れたように立ち尽くした。
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作者が半年間ぐらいハイテンションになり、ごはんが美味しく食べられます。(常時ダイエット中)