百鬼糸(なきり いと)
「ごきげんよう」
屋敷前のエントランスに停められた黒塗りの高級車から、その少女はゆっくりと降りてきた。
彼女が降り立った瞬間から、その周りに花が舞い散るような錯覚を覚えるほど、その少女は匂い立つような美しさを放っていた。
青藤色の着物に、緩く三つ編みにした黒髪を肩に下げたその子は、正に美少女と言うに相応しく、長いまつ毛に縁どられた黒い大きな瞳は聡明な色を湛えていた。その洗練された美の中にも僅かにあどけなさが垣間見られ、それが彼女の魅力を一層引き立てていた。
それにも増して、どこか浮世離れした雰囲気もあって、晶の目は一瞬にして彼女に釘付けになってしまった。
(…す、すごく、すごく綺麗な子!こんな子今まで見たことない…何だかいい香りまで匂ってくる…。やっぱり、あの子だったんだ…)
晶が婚約者の話を聞いてから予想していた通り、彼女はあの時目が合った美少女だった。
あの時とは、晶が初めて堀越と出会った雨の日の夕暮れのことで、堀越が運転していた車の後部座席にこの少女が座っていた。
あの時と同じように着物姿の彼女はやはりとても可憐で、出迎えた香月に向かってにこやかに挨拶を交わすその様子を、晶は少し後ろの方で控えている場所から密かに観察しながらその時のことを思い出していた。
同じく芸術品のような香月と並ぶと、もはや神々しささえ感じてしまう。二人から後光のような眩しさを感じて目を瞬かせていると、香月がこちらを振り向いた。
「糸、紹介するよ。こちらは先日からうちで働いてくれている静野さん」
香月の婚約者を前に、晶は緊張しながらも背筋を伸ばす。そんな晶を見て、彼女は朗らかな顔を見せた。
「静野様、ごきげんよう。わたくしは百鬼糸と申します」
「は、初めまして。静野晶です」
「ふふふっ。よろしくお願いいたしますね」
緊張している晶が面白いのか、彼女は手を口元にあてて楽しそうに笑ったあと、少しの間晶のことを見つめていた。
「?」
その視線の意味が何なのか分からず晶も糸のことを見つめていると、彼女はやがて目線を香月に移し、花も恥じらうような美しい笑顔を彼に向けた。
「どうしたの?」
「いえ…」
笑顔の意味を香月が問うも、糸は恥じらう様に顔を逸らす。その仕草がとても可愛らしくて、何故か晶の方が顔を赤くしてしまった。
(うおぉぉ…破壊力半端ない!こちらも強そうだわ…)
この糸を前にして、果たして勝てる人類などいるのだろうか?同性の晶ですら惚れてしまいそうだ。その糸を前に平然としている香月は一体どうなっているのだろう。いくら見慣れているからと言っても、先程の天使のような神々しい笑顔を浴びて無反応なのはどうしたことか。
そんなことを考えているうちに、香月が糸をエスコートして二人は屋敷の中へと入って行く。二人を見送っていた晶は、車から出てきた堀越にお茶の準備を手伝ってほしいと頼まれ、そのまま二人で厨房へと向かった。
「糸様は、瑠依様の幼馴染でして、お二人は物心付いたときからの付き合いなのです」
厨房で湯を沸かしながら話す堀越は、普段は使わない花柄の可愛らしいティーセットを戸棚から取り出して入念にチェックしている。晶は彼が今日の客人のために焼いておいたベイクドチーズケーキを冷蔵庫から出して、慎重に切り分けていた。
「そんな昔からのお付き合いなんですね。すごく素敵なお二人で、思わず拝みそうになりました」
手を合わせて拝むポーズをしながら晶がそう言うと、堀越は手を止めて晶の方をじっと見つめた。
「拝む…。ハンカチを噛みしめるとかではなく?」
「ハンカチ?」
「いえ…なんでもありません」
堀越は薄く笑みを浮かべて、用意したティーセットとケーキを盆に載せた。ティーポットを良く温めた後、そこに茶葉を入れて湯を注ぐと、辺りにフワッと芳醇な香りが立ち込める。ポットにキルトのカバーをかけたら準備が整った。
「では、お茶をお出ししてきます。私が戻ったら一緒にケーキをいかがですか?」
「!! いいんですか?」
ニコリと笑みを残して堀越は厨房を後にした。
彼を見送り弾む気持ちで待つ間、晶は椅子に座って先程堀越に言われたことを思い出す。
(嫉妬なんて、畏れ多い…)
晶だって、香月の隣に自分がいる様子を思い描いたことがないわけではない。でもその結果、自分では似合わないどころかお笑いになってしまうことが分かったのだ。
あの香月の隣には、糸のような魅力あふれる女性が似合う。自分なんかじゃおこがましくて、想像するだけで罰が当たる。
「…よし、決めた。あの二人を私の中で推しカプにしよう!」
頭を擡げた何かに気付く前に、晶の思いは明後日な方向へと向かっていった。
***
「わたくし、今日を本当に楽しみにしておりましたの」
客間の窓際に置かれたソファに腰かけ、ティーカップを持ちながらにこやかに話す糸を、香月は不可解そうな顔を隠すことなく見ていた。
いつもとは違い妙に機嫌の良い婚約者の様子に、香月はやがて軽く息を吐く。
「…今日は一体、どういった要件なんだ?」
ぶっきらぼうにそう聞く香月に、糸は楽しくて仕方がない様子で答える。
「一度、ちゃんとお会いしておきたかったんですわ。確かめたいこともありましたし…」
それを聞いて香月は益々不可解な顔をした。
「静野さんのこと?確かめるって?」
「ふふふっ…これは私の「力」に関係することですので、いくらあなたでも教えられませんわ」
「ああ、そう…」
そう言って脱力したようにソファに沈みこんだ香月は、まるで興味を失ったかのように紅茶に口を付けた。
その様子を面白そうに眺めていた糸は、「そうだわ」と思い出したように手を叩く。
「瑠依様。今日はもう一つ要件がございましたわ。実は、我が家の関連グループが経営しているリゾートホテルでトラブルが起きているようでして、ぜひ瑠依様のお力をお借りしたいのです」
「…僕の力って…」
「もちろん、『瑠依様の』お力ですわ。……そんなに嫌そうなお顔をなさらないで」
香月の瑠璃色の瞳が暗い海の底を映したように淀んだ色に染まったのを見て、糸は手を伸ばし、香月の頬に軽く触れる。
その手に馴染む感触に、糸は蓋をしたはずの想いが零れない様、きゅっと口を結んだ。
刹那の沈黙の後、香月は糸の手に自分の手を重ねると、溜息と共にその手を軽く握って降ろそうとする。
その時、ドアの方で物音がした。
二人が振り返ると、開け放たれたドアの前で晶が盆を持ったまま固まっている。見るからに狼狽えている晶に香月が立ち上がって声をかけた。
「静野さん、どうしたの?」
「あ、ああのっ、すみません!お茶のおかわりをお持ちしたんですが…本当にすみません!!」
恐縮してひたすら謝る晶の姿に、今度は糸が鷹揚に声をかける。
「静野様、お茶をありがとうございます。どうぞ、こちらに来て一緒にいただきませんか?」
「ひえっ!?」
糸の突然の申し出に晶が目を白黒させていると、立ち上がった糸はドアまで足を運び、彼女を招くために手を差し出した。
「どうぞ。あなたも瑠依様と一緒に話を話を聞いてくださいませ」
「は、はぁ…」
(どう考えたって、私、お邪魔だよね!!?それに、私なんかがこの二人と一緒にいては、お目汚しになってしまう!…助けてください、香月さん!!)
晶は困惑した挙句、必死に香月に訴えるような目線を送った。しかし、香月は晶と目が合った途端、何故かグッと言葉に詰まったような表情をしただけで、何も言ってはくれなかった。
「さあ、こちらに」
糸は美しい笑みのまま、まるでエスコートするように自然と晶を誘導して二人掛けのソファに座らせると、自分もすぐその隣に座った。
(ひええええぇぇ!!びっ、美女が隣にっ!!しかも近い!!)
かちんこちんに固まって冷や汗をかく晶を横に、糸は美しく微笑んでいる。
それを見て、完全に主導権を握った糸に諦めたような溜息を吐いた香月は、自身も斜め向かいのソファに座り直して糸に視線を向けて切り出した。
「…では、話とやらを聞こうじゃないか。確か、君のとこのリゾートホテルでトラブルだって?」
「そうなのです。我が家の関連グループ会社が経営している海辺のリゾートホテルで、どうやら怪現象が起こっているという話が伝わりまして。その怪現象というのは、ある特定の部屋に泊まったお客様が、体調不良というか、寝ている時に異変を感じるというものなのです」
「異変というと?」
「話によりますと、寝てる時にふと気が付くと、身体が動かなくなっていて、どこからか子供の笑い声が聞こえてくるというのです」
(ひえっ…か、怪談…?)
未だに固まったままで糸の話を聞いていた晶は、その場面を想像して背筋が冷たくなった。夜中にいきなり子供の声が聞こえるなんて、想像しただけで恐ろしいものがある。
「…それは、その人の夢ということではなく?」
もっともな香月の質問に、糸は首を横に振った。
「体験されたお客様は、瑠依様と同じように一度は自分の夢かと思ったらしいのです。けれど、同じ部屋に何度もお泊りになって、これは夢ではないと確信されたようなのです」
「他にも同じような体験をした客はいたの?」
「ええ、多分…。と言いますのも、その部屋は今まで何度も利用した方がいたわけではないのですが、利用された方々の間からその部屋の噂が、あることないことネット上で流れるようになってしまって…」
それはホテル側にとってとても無視できない事態だった。良い噂より悪い噂の方が拡散されやすい世の中で、名が売れていれば売れているほど早く手を打たないと取り返しのつかない打撃を受けることになる。ホテル側はこの事態を重く見て、早急の対応を取るために動き出した。
「ネット上の噂の拡散については、今の段階でしたら家のものが何とでもできるのですが、現にその部屋で怪現象が起こるというのであれば、その大元をどうにかしないことには同じことの繰り返しです。こちらとしては内々に対処したいところですので、わたくしから瑠依様にお仕事の依頼という形で原因究明をお願いしたいのです」
糸は香月に懇願するような瞳を向けている。それを目にした晶は、途端にぎゅゅぅっと心臓を掴まれたような気持ちになって、思わず彼女に庇護欲を掻き立てられてしまった。
「…瑠依様、この糸に免じて、この件引き受けてくださいませんか?」
「……」
渋る様子を見せる香月に、晶は驚きのあまり思わず彼を凝視してしまった。
(何と!婚約者である糸様のこんなに可愛らしい姿を前にして渋るなんて…!!ここで断ったら王子の名折れですよ、香月さん!)
こんなに美しく可愛らしい女の子が健気に懇願しているのだ。これを断れる男などいるはずがない。半ば祈るような気持ちで香月を見つめていると、暫くして彼は深いため息を吐いた。
「……わかった。引き受けるよ」
「まぁ!ありがとうございます!」
香月の返事に、花弁が舞う様に喜び笑顔を見せる糸。その様子を目尻を下げて見守る晶のことを、今度は香月が何か言いたそうな顔で見ていた。
「?…あの、どうかしましたか?」
その視線を不思議に思い、晶が首を傾げると、香月は顎に手をついたまま軽く息を吐いた。
「...いや。何で静野さんがそんなに嬉しそうなのかなと思って」
「へっ!?いや、百鬼様がとても喜ばれていたので…」
それを聞いて、当の糸は驚いた顔をした後、更に輝くような笑顔を見せた。
「まあ!!静野様、わたくしのために喜んでくださったの!?嬉しいわ…あの、もしお嫌でなければ、わたくしのこと、糸と呼んで下さらない?」
「へっ!?い、糸様ですか?そんな畏れ多い…」
「様もいらなくてよ。その代わり、わたくしも「晶さん」とお呼びしても?」
「私のことは全然かまいませんが…」
「わぁ!嬉しい!!」
そう言って糸は喜びのあまり、思わずといったように晶の右手を両手で握った。
その糸の手が思いのほか冷たくて、驚いた晶はついその手を温めるように両手で包み込んでしまう。晶の手は年中温かいことに定評があるため、以前はよく冬場に友達の手を温めてあげたりしていた。
その習慣でついやってしまったのだが、糸は晶のその行為に驚いたようで、大きな目を更にまん丸く見開いた。
一瞬、その瞳が揺れたように見えたが、糸は直ぐに瞬きをすると再び満面の笑みを見せる。先ほど香月に見せたのとは少し違う、そのあまりにも無邪気で嬉しそうな笑顔に、晶は再び胸がぎゅぎゅゅゅゅんと掴まれたようになり、赤い顔をしながら照れたように笑ってそれに答えた。
そんな笑顔で見つめあう二人の様子を、香月は黙ったまま静かに見つめていた。