婚約者
「いない…」
翌朝、晶は自分がかけた携帯端末のアラームで目を覚ました。
まだぼんやりとしているが、いつもの寝不足の朝とは違い、頭はスッキリと軽くなっている。その頭で昨日のことを徐々に思い出した晶は、急いで隣のベッドを振り返った。
そこに香月の姿はなく、その事実に軽く溜息を吐く。
少し乱れているのでベッドに入った形跡はあるが、果たして彼は眠れたのだろうか。この契約は、香月も晶となら眠ることができるから一石二鳥だということで結ばれたものだったが、それは本当なのか、こうなると怪しくなってくる。
(あの時は、私のために嘘ついてくれたのかな…)
紳士的な彼は、人の気配がないと眠れない晶の困った体質のことを考慮して、この提案に乗ってくれたのかもしれない。実際、晶の方は彼のおかげで昨夜はとても心地よく眠ることができた。眠る前はあれほど緊張していたのに、それが嘘のように自然と意識が遠退いていき、朝までぐっすり眠ることができたのだ。
しかしそのおかげで、彼が隣で眠ったかどうか気付くことができなかった。以前彼が自分の隣で寝ている姿を見たことはあったが、その時はたまたま寝不足が祟って限界だっただけの可能性もある。
この契約に香月にとっての利がないのなら、ただの自分の我儘に香月を付き合わせているだけだ。そう思うと、晶は途端に居た堪れない気持ちになり、何とか真実を確かめる術はないものかと考える。
「でも、聞いても本当のことを言ってくれるとは限らないしな…」
これはやはり実際確かめてみるしかないだろう。今夜こそ、香月が眠るところを確認しなければ。晶はぐっと拳を握って意気込むと、ベッドから降りて朝の支度をするために急いで自分の部屋へと向かった。
***
「おはようございます」
着替えてから厨房に顔を出すと、すでに堀越が朝食の支度を始めていた。晶の声に振り向いた堀越は驚いたように晶を見る。
「おはようございます。晶さん、お早いですね」
「朝食の準備の手伝いをと思ったんですが、遅かったですね…」
晶の仕事は当面の間、夜の夕食準備と片付け、次の日の仕込みの手伝いということだったが、それだけではとても給料に見合わない。そのため晶は休みの日はできるだけ堀越の仕事を手伝おうと思っていた。
「晶さんとの契約は夕方からなので、その他の時間はゆっくり過ごして頂いて良いんですよ?」
「私は他にやることもないし、ぜひ手伝わせてください。仕事も早く覚えたいので」
休みの日といえば、今まではバイトや溜まった家事にあてていたが、この屋敷に住み込みで働くことになってからは、空いた時間を持て余すようになってしまった。
「そうですか。それは感心ですね。ではお言葉に甘えて手伝っていただきましょう」
穏やかに笑って頷いた堀越は晶に指示を出し、二人で朝食の準備を進めた。昨晩仕込んでおいたスープに切った野菜を入れて煮込んだり、焼き上がったパンを籠に盛り付けたりしている中で、晶は気になっていたことを聞いてみることにした。
「あの~…、香月さんはもうお仕事を始めているんですか?」
「瑠依様ですか?いえ、今は書斎で本を読まれていると思いますが、どうかされましたか?」
「そうですか…。香月さん、昨日遅くまでお仕事されていたみたいなので、ちゃんと寝たのかなと気になってしまって…」
「…ということは、今朝もお会いになっていない?」
「はい。私が起きたとき、ベッドはもぬけの殻でした。だからちゃんと眠ったのか心配で…」
それを聞いた堀越は、作業の手を止めて額に手を当てると上を向いてしまった。さらに深い溜息を吐いた彼の反応に、晶は戸惑いを見せる。
「ええと…」
「ご心配をおかけしてすみません。瑠依様は仕事にのめり込むと正に寝食も忘れてしまうところがありまして…。今まで昼夜を問わない生活を続けていたものですから」
「そうだったんですか…。でもそれなら、私と一緒に寝るというのは香月さんにとって何の得にもならないんじゃないですか?お仕事の邪魔になるくらいなら私は自分の部屋で―――」
「いえいえいえ!だからこそ、晶さんには是非とも瑠依様と一緒に眠って頂きたいのです!」
ずいと近づいてきた堀越は、何やら必死な様子で晶に詰め寄る。
「晶さんも先日見た通り、主人は徹夜を続けては倒れるのを繰り返しておりました。そんなこと身体に良いわけがありません。でもそんな中、今まで何の解決策も見つからなかったことに、光明がみえたのです。瑠依様が晶さんとなら眠れたという事実は、私の中でかなり革命的で喜ばしいことでした。是非とも晶さんにはこれから瑠依様の睡眠を支えていただきたいのです!」
普段の穏やかさからは想像できない堀越の必死の訴えに、晶は思わず身体を仰け反らせて目を丸くする。自分が香月の睡眠を支えるなんて、そんな大役が果たして務まるだろうか?現に昨日の夜だって彼が隣で眠れたのかすら分からないのに。
返事に言い淀んでいると、入口の方からコンコンとドアをノックする音が聞こえた。
振り向くとそこには、白シャツにグレーのスラックス姿の香月が少し呆れたような顔でドアに寄りかかって立っている。
「…二人で何の話をしてるの?」
「!! いえ、あの、その…」
晶がしどろもどろになっていると、すかさず堀越が返事をした。
「瑠依様に関する仕事を、晶さんに指示しておりました」
そう言ってニコリと笑顔を見せた堀越を、晶は驚愕の目で見返す。
今、彼ははっきりと「仕事」と言った。これが晶に課せられた「仕事」ならば、やらないわけにはいかないではないか。好条件の中にこんな落とし穴があったとは思わず、晶は内心青くなって頭を抱える。
「僕に関すること?」
「そうです。これから瑠依様の身の回りのお世話も晶さんにお願いするかと思いますので、色々とお教えしている最中でして。ねぇ、晶さん?」
「そっ、そうなんです」
慌てて返事をした晶と堀越のことを目を細めて交互に見た香月は、やがて軽く溜息を吐いた。
「ともかく、静野さんをあまり困らせないでね」
「もちろんですとも」
ニコリと笑顔を見せて請け負った堀越を、今度は晶が目を細めて見ることになった。
その後、朝食の準備を整え、ダイニングテーブルにセッティングされた美味しそうな朝食を前に、またしても晶は脱力する羽目になった。
「…私が同じ席に着くのは、夕食の時だけでは…?」
「え?そうだった?まぁ、これも仕事のうちだよ」
そう言ってるそばから堀越の手によって晶の前にも料理が運ばれてくる。実はお腹が空いていた晶は、その見るからに美味しそうな朝食の魅力に抗うことが難しそうだった。
なので晶はできるだけ心を無にして、料理の方を見ずに目の前の主人を真っ直ぐ見つめると、真面目な声で言った。
「香月さん。これでは私がお世話になっている理由が無くなってしまいます。労働の対価としてこのお屋敷に住まわせてもらって、その上お給料まで貰っている身としては、この対応は分不相応ではないかと」
「そんなことないよ。ちゃんと手伝って貰っているし、何より一人の食事は寂しいからね。…僕に付き合うのは不服かもしれないけど」
そう言って香月は目線を下げ、愁いを帯びた顔を見せる。そんな『推し』の顔を見た途端、晶の胸はきゅっと締め付けられたようになり、思わず言ってしまった。
「いえ!そんなことは…」
「じゃあ、決まりだ。僕のためにありがとう」
先程の顔から一転、キラキラと嬉しそうな顔でそう言われては、晶の負けが決定したのは明らかだった。
(この王子は…強い…)
完敗した晶がガックリと肩を落としたのは言うまでもない。
「そういえば、今日の午後に客が一人来る予定なんだ」
美味しい朝食を堪能した後、すぐさま片付けに入ろうとお盆を手にした晶は、食後の紅茶を嗜んでいる香月から唐突にそう伝えられた。
「お客様、ですか?」
「うん。その人は所謂僕の婚約者なんだけどね。時々この屋敷に来るから、静野さんにも紹介しておこうかと思って」
穏やかな顔でそう切り出した香月の顔を、晶は目玉が飛び出る思いで見つめる。思わず持っていたお盆を落としそうになるが、ギリギリで手に力を入れ直した。
確かに、香月ほどのスペックならそういうこともあるかと予想はできたが、この齢で婚約者が決まっているなんて、いったいどこの御曹司だろう。この屋敷の規模と言い、堀越という使用人がいることと言い、香月青年がどこか名のある家に関係する人物であることは想像に難くなかった。
「……婚約者の方が…。でも、なぜ私を?」
何とか平静を装いつつも疑問に思ったことを尋ねると、香月は何でもないことのように言った。
「向こうが君に会いたがってるんだよね。まぁ、先に顔を合わせておいた方が面倒がないかと思って」
「はぁ…」
自分に会いたがっているというのは、つまり、婚約者が香月の近くに突然現れた女のことを、不審に思って偵察に来るということではないのだろうか?
実際香月と晶が恋仲になるなんて、そんなことはありえないとしても、女の嫉妬は恐ろしいと聞く。婚約者の女性がどんな人物かわからない以上、最初から自分はただの使用人で、何の関係もない人間であることを明確にしておいた方が良いかもしれない。
とすれば、ここは『面倒がない』ように、素直に香月の言うことを聞いておいた方が良さそうだと晶は判断した。
「こちらの事情で手を煩わせてしまって申し訳ないけど、よろしく頼むよ」
そう言って困ったように眉を下げた主人に、晶は力強く答える。
「分かりました!こちらこそ、よろしくお願いします」