クッキー効果
「はぁっ…はぁっ……」
屋敷へと続く石段を携帯端末のライトで照らしながら無我夢中で駆け上がっていた晶は、やがて心臓が破れそうになるほど息が苦しくなったところでその足を止めた。膝に手をつき肩で息をしながらも、焦燥感が心を急き立てる。
(早く…早く戻らなきゃ…!!)
先ほどの一連の出来事の記憶が、今になって晶を襲ってくる。その恐怖心で脚が震えるのを必死に耐え、やっとの思いでここまで上ってきた。相変わらずこの雑木林は気味が悪いが、先ほどの出来事より何倍もマシだった。
(あの不気味な顔…。さっきの男の子が助けてくれなかったら、私どうなっていたんだろう…?)
最悪な想像を必死に打ち消し、晶は息を整えきる前にまた階段を上り始める。このまま立ち止まっていたら、またあの男が追いかけてくる気がして、居ても立っても居られなかった。
(きっと、屋敷の敷地内に入れば少しは安心できるはず…あの屋敷は何か得体の知れないものに守られているような気がするし、屋敷に入って鍵を閉めれば物理的にも安心できる)
できるだけ早く屋敷に戻りたくて、必死に石段を駆け上がっていると、ふと、昨日見掛けた小さな祠が目についた。
と思った途端、その近くに何か大きなものが蠢いていることに気付き、思わず声を上げそうになった晶はぐっとそれを飲み込む。バクバクする心臓を抑えて、恐る恐るライトの光をそこに当てながらその蠢く物体を見定めた途端、何だか既視感を覚えた。
「……あれ?もしかして、昨日お屋敷に来た、小山さん…?」
「……」
ライトに照らされたのは、昨日屋敷に来た草と泥と小枝の塊に目玉がついた小山だった。小山は昨日見た時よりも幾分大きくなったように見える。
二回りくらい大きくなった小山は、そのぎょろりとした目を眩しそうに細めて晶の方を見ていた。相変わらずふわふわと地面より少し上を漂う様に浮いていた小山は、晶のことを認めるとスーっと晶の前に移動してきた。
かと思うと、泥と草を集めて出来た右手を差し出す。
「…オカエリ……オカワリ…」
「おう…ただいま…。あ、おかわりって…もしかして昼間に祠にお供えしたクッキー、食べちゃったの?やっぱり昨日のお供えした飴も小山さんが食べたってことだったのか…」
晶は昨日、出掛ける際にここにある祠に自分の手持ちの塩レモン飴をお供えしていったのだが、屋敷にやってきた小山が同じものを所望したので、もしやと思っていたのだ。今日も出かけるついでにクッキーをお供えしていったが、それも小山が食べてしまったらしい。
「ここの神様からバチがあたるよ?今度からこっちの木の根元に置いておくから、それを食べてね」
そう言って晶はリュックからクッキーの包みを二つ出し、一つを小山の手に載せた。もう一つは祠の前にお供えして、軽く手を合わせる。
クッキーを手にしてご満悦な様子の小山は、踊る様にその場で身体をくるりと一回転させる。
すると、手に持っていたはずのクッキーがもう消えていて、そのことに晶が驚いていると、ガサガサという音と共に小山が更に一回り大きくなった。それに、何だか微妙に形も人型に近くなってスマートになったような気がする。
呆けたようにそれを見ていた晶は、ふいにゾワリと全身に鳥肌が立ち、とても嫌な気配を感じて慌てて周りを見回した。
すると、階段の下の方からザワザワと、何かが近づいてくる気配がある。
(まさか……さっきの…!?)
先ほどの出来事が再び脳裏を掠め、ストーカー男に強くつかまれた肩がじくじくと痛みだす。晶は追いつかれる前に逃げなければと、再び震えそうになる足に力を入れた。
「小山さん!私、急ぐからまたね!」
体の向きを変え、駆け出そうとした晶の目の前に小山が立ちはだかった。驚いた晶は何事かと身構えると、小山は何故か晶の方に腕を伸ばし、ぎゅっとその身体を抱きしめる。
「!!? 小山さん!?」
驚いたのも束の間、今度は自分の足が地面からフワリと浮いたような感覚を覚え、晶は何が何だか分からず固まったまま滝のような冷汗を流す。小山はそんな晶を抱きしめたまま更に宙に浮くと、そのままクルクルと回り始めた。
「!?!?」
されるがままの晶は何が起こっているのか理解が追いつかない。今、自分は小山とダンスをしている場合ではないのだが、ガッシリとホールドされて身動きが取れないのでそのまま身を任せるしかない。
そうこうしているうちに回転は徐々に早くなり、その勢いで周りの草木が風圧で煽られ、やがて木の葉が勢いよく舞い始めるほどの勢いになった。
(…もう、この屋敷で起こることは、あるがままを受け入れよう…)
まるでつむじ風の様に勢いよく回転しているはずなのに、一切目が回らないのを不思議に思いつつも、もうどうにでもなれと晶は悟りを得たような顔で静かに目を閉じる。
やがて徐々に勢いが収まりはじめたのを感じ取り、晶がようやく目を開けると、彼女はあんぐりと口を開けたまま呆気にとられた。
「え……?なんで??」
なんと、いつの間にか晶と小山は屋敷の門の前まで辿り着いていた。小山は緩やかに回転を止めると、腕を解いてふわりと晶を降ろす。
「…トジマリ…シッカリ…」
そう言って小山は晶の背中を押して門の内側へと押し込もうとする。どうやら小山は晶のために不思議な力を使って屋敷へと高速で送ってくれたらしい。
「わ、わかった。ありがとう小山さん!」
これも食べ物の効力だろうか。そう考えながらされるがまま門の内側へと入った晶は、小山に手を振りながら走って屋敷へと向かった。
「よく分かんないけど、助かった…。あ、そうだ!」
途中、あることを思い立った晶は方向転換をして玄関に向かわず屋敷の裏へ回り、物置小屋を目指す。今夜は一人ではとても過ごせそうにないと思った晶は、この際怒られてもいいからレンを部屋の中へ連れて行こうと考えた。
「レン!いる?」
走ってきた勢いのまま小屋の扉を開けると、黒い小さな身体がちょこんとそこに座って、そのブルーグレーの瞳をじっと晶に向けていた。まるで晶を待っていたかのようなその様子に一瞬首を傾げるものの、晶は急いでレンのもとへ近づき、その体をそっと持ち上げる。
「レン、…今日は一緒に過ごさせてね」
「ミャァ」
まるで了承するかのように一声鳴いたレンを連れて、晶は急いで裏口から屋敷の中へと入る。ドアにすぐ鍵をかけると、晶は安堵の溜息を吐いてその場に座り込んだ。
屋敷の中はしんと静まり返っていて、相変わらず得体の知れない不気味さを感じるが、先程までの嫌な感じとは全然違う。
あれは本当に生身の人間だったのだろうか?
普通の人間ならあの自転車のスピードに着いてこられるわけがないし、もしそうでなければ、あの男は既に晶が住むこの場所を特定していて、ここまで追いかけてきたということになる。
(だとしたら、結構ヤバいよね…?)
このまま香月たちが帰ってくるまで、この屋敷に籠るしかないだろうか。さすがにずっと外をうろつかれることはないだろうが、それでも外を出歩いていればいつまた襲われるかもわからない。
香月には何かあれば連絡するよう言われてはいるが、この件は晶の私的な問題で、香月たちにはまったく関係がない。唯でさえ厄介になっている身としては、このことを彼らに相談するのは躊躇われた。
「一体どうすれば…」
「ミャァ~」
途方に暮れそうになった晶の顔を、何かがぺたぺたと弄ってくる。見るとレンがその可愛い肉球を晶の顔に押し当てていた。
その気持ち良さとレンの体の温もりを感じて、晶は緊張で無意識に詰めていた息を吐き出す。
「…レンがいてくれて良かった……。取り敢えずご飯にしようか」
「ミャ~!」
晶は自分の部屋へと辿り着くと、レンのためのご飯を部屋に備え付けの浴室に用意する。さすがに躾もしていない子猫を部屋で好きに遊ばせるわけにもいかないので、今日は晶も一緒にここで寝るつもりだった。
食べ始めたレンを置いて素早く厨房に下りた晶は、昨日作って保管しておいたカレーとご飯をレンジで温めて皿に盛りつけ、それを持って再び自分の部屋へ戻る。
「レンは…もうご飯食べ終わっちゃったか」
既に食べ終えて体中を舐めとっていたレンを見て、自分もぺたりと洗面所の床に座ると、晶は手に持っていたカレーをもくもくと食べ始めた。
疲労困憊で食欲もなく中々食が進まないが、何とかスプーンを口に運ぶ。やがてレンがタオルの上で丸くなって眠り始める頃、やっと食事を終えた晶は再び厨房へ下り、手早く食器を片付けるとまた急いで部屋へと戻った。
戻る途中で何かの気配を感じた気がしたが、晶は脇目も振らずに走って部屋に駆け込んだ。
「…はぁっ…はぁっ……今のは…キヌさんかな?…それとも双子?」
今までこの屋敷で出会った幽霊に嫌な感じはしなかったし、香月も今まで何も言わなかったのできっと晶にとって彼らは無害だろう。もし彼らが晶に用があったなら申し訳なかったが、今日は既に疲れきっていて、彼らに構っている余裕はなかった。
晶は枕と毛布を持って浴室へ行くと、すぴすぴと寝息を立てているレンの近くに横になる。タイル張りの浴室の床はひんやりと冷たくて固く寝心地は最悪だったが、近くに生きているものの気配を感じるだけで不安から逃れることができるのだから、晶にとってはそれだけで十分だった。
「そう言えば、あの枝を小山さんに返さなきゃ。…外に出られるようになったら、お礼しに行こう」
洗面所で水に浸けていた枝が目に入り、助けてもらったのに碌にお礼も言えなかったことを思い出す。
今度はケーキでも焼いてあげようか。それよりも、あの男は今でも屋敷の周りをうろついているのだろうか?これからどうすればいいのかなど、色んなことがぐるぐると頭の中を巡っているが、晶は疲労が極限でこれ以上まともに考えることができそうになかった。
「おやすみ、レン…」
限界を感じた晶は小さくそう呟くと、一定のリズムで上下する丸まった黒い背中を眺めながら、レンの息遣いを子守歌にして泥に沈むように眠りの中へ堕ちて行った。




