五十八話『似合わない』
その次の瞬間、視界の端に、何かが飛んだ。
それは、手だった。
見ると、久千管理官の手首から先が、なくなっていた。久千管理官は「え?」と声を漏らし、視線をゆっくりと、自身の手首へと向ける。
そして、僕よりも僅かに遅れて状況を把握した久千管理官は、絶叫した。
「わああっ、な、なんだ、これはっ。私の手がない。熱いっ、熱いっ。血が、血が出ている。ああああっ」
意味もなく、その場を歩き回る久千管理官。すると、また腹に響く重い発砲音が聞こえてきた。
瑞己に爪を向けていた河童の皿が、砕け散る。
僕は「瑞己っ」と叫んだ。瑞己は一瞬、硬直したものの、すぐに理解し、僕の元へと全
力で走って向かってきた。僕は瑞己の腕を掴んで引き寄せると、遠方を見渡す。
一体、どこからだ。
すると、二百メートルほど離れた高台に、小さな光が反射しているのが見えた。
「……加藤さん」
僕がそう呟いたと同時に、再び、弾丸が風を掻き分ける重厚な音が鼓膜を叩く。
しかし、その弾はどこにも当たらなかった。
久千管理官の頭頂部の髪が、何かを避けたかのように、逆立っている。
外れたのか、わざと外したのか。
僕はそれを見て、反射的に「ま、待ってっ」と、高台に向かって両腕を広げた。
「撃たないでくださいっ」
掠れるほどの大声でそう伝えると、吹いていた風が凪ぎ、静寂が訪れた。聞こえてくる
のは、久千管理官の呻き声だけ。
高台に見えていた光点が、姿を消した。
久千管理官は地面に膝をついて蹲り、苦悶の表情を浮かべて左手で右腕を押さえている。
出血量が夥しいので、このままだと危ないだろう。
とりあえず、駆血しなければ。
そう思い、久千管理官の元へと駆け寄ろうとした僕だったが、その足が止まった。
久千管理官の周りを、四匹の河童が囲み、じっと久千管理官を見下ろしていたのだ。
久千管理官はそれに気付き、顔を上げる。
「うう……、何だ、お前たち」
すると、河童たちは「ふひひ」と不気味な笑い声を上げ始めた。
「何がおかしいっ。黙れっ」
久千管理官の指示に、河童たちの笑い声はピタリと止んだ。
息が詰まるほどの静寂が訪れる。
しかし次の瞬間、河童たちは一斉に、久千管理官の身体へと襲い掛かった。
「おいっ、やめろっ。ふざけるなっ。河童如きが、この私を…………」
僕は一歩も動けず、ただ見ているしか出来ない。
やがて、少しだけ聞こえていた久千管理官の呻き声も聞こえなくなり、ピチャピチャと
河童たちが肉を貪る音だけが、闇夜に響いていた。
僕はその様子を、黙って見つめた。
最後の河童が爆発し、その様子を見ていた僕は足元から崩れ落ちた。
「お、おい。しっかりしろっ」
瑞己に抱えられるものの、どう頑張っても力が入らず、僕は地面に横たわる。すると、河童を倒した北陸支部の四人が、慌てた様子で駆け寄ってくる。
花さんは僕の服を脱がすと、顔を歪めた。
「河童の攻撃受けてる。応急処置せなっ。ヘリウムっ」
「わかってるさ。けど、血清打っても効かないんじゃないの?」
「アホか。打ってみなわからんやろ」
「それよりも問題は、出血量だよ。血を流し過ぎている」
真五郎さんの焦る声に、スキンヘッドの班長は「とりあえず」とポーチから血清と大量のガーゼを取り出す。
「救急は呼んである。今、俺たちに出来ることは、早急に血清を打ち、止血処置を施すことだ」
花さんたちは、手にビニール手袋を着け、応急処置を始めた。傷口に触れる度、激痛が全身を襲う。しかし僕はその都度、まだ生きているということを強く実感する。
すると、足音が近付いてきた。
「大丈夫か?」
その声は、相模さんだった。相模さんは僕を覗き込むと、一瞬、硬直した。僕の傷を見て、悟ったのだろう。
ガーゼで傷口を押さえながら、真五郎さんは「大丈夫だよ」と笑う。
「きっと、大丈夫だから」
僕に言い聞かせるような、力強く、そして優しい口調。それに続いて、花さんが「せや」と僕の頬を軽く叩く。
「思ったより、そこまで傷は深くない。大丈夫やから、安心しい」
僕が「痛いです」と頬に触れると、花さんは笑った。その笑顔が強張っているのに、僕は違う意味で、胸が痛くなった。
「相模さん、状況は?」
僕が訊ねると、一点を見つめていた相模さんは「あ、ああ」と僕に視線を合わせる。
「こちらは、半数ほどの犠牲が出てしまった。この街に放たれた河童は、数匹が街から出てしまったものの、それ以外は全て片付けてある」
「そうですか。……街から出た数匹は心配ですね」
「ああ。しかし、既に周辺の地域にはその旨を伝え、避難指示が出ているはずだ。ハンターたちも、あとを追っている」
一般人の犠牲が出なければいいが。僕はただただ、誰も襲われないことを祈った。
すると、遠くからサイレンの音が聞こえてきて、やがて救急車がやってきた。それと同時に、数台の車両が僕たちの前に止まる。
相模さんが、「では」と瑞己の肩に手を置いた。
「これからキミを送っていく。車両に乗り込んでくれ」
瑞己は立ち上がると、僕を見た。僕が「任せたよ」と瑞己の目を見返すと、瑞己は唇を噛みしめながら、ゆっくりと深く頷いた。
「……絶対、生きろよ」
僕が「ああ」と小さく笑うと、瑞己は紙袋を握り締め、相模さんと共に車両へと乗り込んだ。そして、数台の車両が発進していくのを、僕は何も出来ないもどかしさを抱きながら、じっと見送った。
それから、僕は担架に乗せられ、救急車へと乗せられた。そしてふと、あの時の記憶が蘇る。最後に班長と話した時の、あの記憶が。
すると、走り寄ってくる足音が聞こえ、救急車に加藤さんが乗り込んできた。加藤さんは僕を見て、「瀬織くんっ」と名前を呼ぶ。
「わたしが同乗します。状態は?」
救急隊員は、難しい表情を滲ませる。
「失血に関しては、大丈夫だと思います。ただ、毒が……」
体表の色に変化はない。しかし、班長と八幡さんも、見た目に変化なく死んでいった。久千管理官が、用意した毒を河童の爪に染み込ませていると言っていたので、自然のものではなく、人工的な毒なのだろう。
それはつまり、血清が効かないということだ。
加藤さんは何かを言おうと口を開いたが、言葉は出てこない。その代わりなのか、加藤さんは僕の手をそっと握った。
僕はその加藤さんの顔を見て、苦笑する。
「どうして笑っているの?」
「いえ、加藤さんらしくない顔をしているな、と思って」
どんな時でも冷静で、ほとんど表情に変化のない加藤さんなのに、今の加藤さんは、不安に押し潰されそうな、そんな顔をしている。
加藤さんは握った手に力を込める。
「当たり前でしょ。……これ以上、大切な人がわたしの前からいなくなるのは、嫌だから」
大切な人、か。
僕は「加藤さん」とその手を握り返す。
「泣くのはまだ早いですよ。泣くなら、僕が無事、助かってからにしてください」
加藤さんは頷くと、「ごめん」と大きく鼻を啜った。
涙は加藤さんには似合わないな、と僕は思ったが、口には出さなかった。




