五十九話『その後』
僕は水をかける度に、本当にこれでいいのだろうか、と心配になる。真夏ならまだわかるが、少し肌寒くなっているこの季節に真水をかけられたら、いくら自分のためにやってくれていることとはいえ、嫌なのではないかと思うのだ。
そんな僕の心配を余所に、今年も加藤さんは躊躇いなく水をバケツでかけている。僕が柄杓で少しずつかけていると、苛々した様子で「水」とバケツを渡される。僕は殊勝にそれを受け取り、「はい」と水を汲みにいく。
こんな遣り取りも、もう三回目になる。
あの日、人間と河童の最大の秘密が白日の下となり、世界に震撼が走った。
関わっていた幹部たちは全員、陰から引き摺り出され、彼らと癒着していた企業も全て明るみに出た。
その後、関わっていた幹部と企業に対し、司法機関、メディアによって徹底した追及と糾弾が行われ、彼らは法的、社会的に裁かれることになった。中には、自殺した幹部や、潰れた企業もあったものの、世間から同情の声は聞かれなかった。
そのようにして、人間側の粛清は、迅速かつ厳重に行われた。
一方、河童への対応は、時間がかかった。
幹部たちへの調査により、全国にいる河童、王の一族の居場所は全て把握出来たものの、そこから、議論が巻き起こった。
すぐさま河童を殲滅するべきだという意見と、彼らが言葉を話せるほどの知能を有しているのならば、武力ではなく話し合いをし、共存を目指すべきだという主張が対立したのだ。
しかし、そういった議論が、水を掛け合う以外の着地点を迎えることはなく、環境省は遺族団体からの強い意向を理由とし、半ば強硬的に、王の一族、そして河童全ての殲滅を決定、決行した。
ハンターの多くがあの死の街で殉職し、人員不足だったこともあり、殲滅には二年かかった。しかしそれでも、僕たち河童ハンター、いや、僕たち人類は、この世界から全ての河童を駆逐することが出来た。
その後、半年間、探索活動を行い、河童が完全にいなくなったことを確認し、特定動物捕獲管理班は解散となった。
そして現在、河童ハンターの多くは、獣害対策課で熊やイノシシ、鹿などの対応、調査、管理を行う部署に所属していて、僕は加藤さん、相模さんとともに、狩猟部隊として活動している。
河童と対峙していた頃に比べて、危険性と給料は下がったものの、それでもやっていることの本質は変わっていない。
人間の正義で、他の生物を殺す。
その是非を自分に問いかけながらも、僕は生活するために、毎日、自然の中へと足を踏み入れている。
僕と加藤さんは班長が眠るお墓を掃除し、手を合わせた。ここに来る前に、八幡さんのお墓は参っているので、今日、二回目の黙祷となる。
僕は日々の報告をすると、目を開き、すっと息を吸い込んだ。線香の柔らかな匂いが、そっと僕の中へと入ってくる。同じ煙なのに、硝煙の尖った臭いとは、まるで異なる。
僕よりも少し長い時間、班長と会話をしていた加藤さんが、ゆっくりと目を開く。僕はその横顔を見て、どうしてかふと、あの時のことを思いだした。
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
加藤さんは「何?」と白縁眼鏡の位置を指で正す。
「今さらなんですけど、あの日、僕が久千管理官に殺されかけていた時、高台からライフル銃で僕を助けてくれたのって、加藤さんですよね?」
加藤さんは「ええ」と小さく頷いた。
「でも、最後、弾を外しましたよね?」
あの時、加藤さんが最後に撃ち放った弾は、久千管理官から僅かに逸れ、おそらく、久千管理官の頭上を越えていった。
「……あれって、まさかいつもの癖で、皿を狙っちゃったなんてことありませんよね?」
加藤さんは目を丸くした。そして数秒間、その状態で硬直したあと、僕から視線を逸らし、恥ずかしそうに耳を赤く染めた。
「やっぱりそうだったんですね。……へえ、加藤さんもそんなミスをするんですね」
僕が軽くからかうと、加藤さんは僕を睨む。
「仕方ないでしょ。普段、河童の皿ばかり狙っていたんだから。急いで仕留めようと思ったら、つい、見えない皿を撃っちゃったの」
加藤さんはそう言って、肩を竦めた。
そこから、僕と加藤さんは数秒間、真顔で見つめ合ったあと、やがて加藤さんが堪え切れなくなり、小さく噴き出した。それにつられて、僕も頬が緩んでしまう。
いくら暗いとはいえ、河童と人間を間違えるなんて。河童の川流れ、ということなのだろうか。今度、瑞己と会った時、この話をしようと僕は心に留めておく。
「でも、わたしも一つ訊きたいのだけど、あの時あなた、わたしが久千管理官のことを撃とうとしたのを、止めたでしょう。あれはどうして?」
「当たり前ですよ。加藤さんに、人殺しにはなって欲しくありませんでしたから。むしろ、僕は加藤さんが二発目を撃ったことの方に驚きました。どうして、久千管理官を殺そうと思ったのですか?」
加藤さんは「どうして」と僕の言葉を、口の中で転がす。
「……多分、あそこで久千管理官を撃たないと、わたしが今まで命を奪ってきた河童たちに、示しがつかないと思ったからだと思う。あの瞬間は、そんなことを頭で冷静に考えていたわけではないけど」
僕は「なるほど」と納得し、頷いた。何とも、加藤さんらしい理由だった。
するとその時、小石を踏む音が聞こえてきた。視線を向けると、そこには相模さんが立っていた。
「あ、相模さん、お疲れ様です」
相模さんは「ああ」と小さく手を上げる。
「二人とも、来ていたんだな」
「はい。もう、帰るところですけど」
「そうか。なら、掃除はしなくていいな」
相模さんはお墓の前に立つと、お墓をじっと見つめたあと、手を合わせた。
相模さんは黙祷を終えると、「そうだ」と僕たちに視線を向ける。
「尾角さんに報告したから、お前たちにも一応伝えておく。まあ、私事ではあるが、結婚することになった」
「結婚? まさか、相模さんがですか?」
僕が驚くと、相模さんは白い目を僕に向ける。
「私が他に、誰の結婚を報告するんだ?」
僕は「そうですよね」と苦笑する。
それにしても、まさか相模さんが結婚だなんて。普段、全くそういった会話をしないので、想像もつかなかった。そういえば、班長の部屋に入った時も、女性の影に驚いたことを、僕は思い出す。みんな、意外としっかりとしているらしい。
僕は「おめでとうございます」と言うと、ふと、加藤さんが軽く眉間に皺を寄せて、険しい表情で一点を睨んでいることに気がついた。
「あの、加藤さん?」
僕が加藤さんの顔の前で手を振ると、加藤さんは我に返った様子で、目を開く。
「えっと、大丈夫ですか?」
加藤さんは「え、ええ」とどこかたじろいだ様子で視線を泳がせると、顔に乾いた笑みを貼りつけた。
「相模さん、おめでとうございます」
相模さんは、いつもと違う加藤さんの様子に戸惑った様子ながらも、「ああ」と頷いた。加藤さんは、困惑する僕と相模さんの背中を押す。
「では、帰りましょう。ほら、瀬織くん、バケツ持って」
僕と相模さんは顔を見合わせ、互いに顔を傾けた。
駐車場に着くと、車が二台、停まっていた。一台は加藤さんのもので、もう一台は相模さんの乗ってきた車だろう。
すると、鈍い振動が遠くから聞こえてきて、相模さんがズボンのポケットから、携帯電話を取り出した。
「電話だ。失礼」
相模さんは一言断ると、「もしもし」と携帯電話を耳に当てる。
「はい。……え? そ、それは本当ですかっ。はい。今は墓参りに来ています。近くに瀬織と加藤もいます」
相模さんの反応から、ただ事ではない様子が伝わってきた。僕と加藤さんの背筋が、自然と伸びる。
やがて、電話を切った相模さんは、呆然とした様子で、虚空に視線を浮かべる。
「……奴らは、幹部たちも欺いていたんだ」
「どういうことですか?」
僕が唾を飲み込むと、相模さんは僕に視線を向ける。
「全国から相次いで、河童の目撃情報が寄せられているそうだ。……奴らは生き残っている。奴らは幹部たちに、全ての王の一族の情報を教えていたわけではなかったんだ」
「そんな……」
僕たちは、幹部たちから聞き出した情報から河童の殲滅を行い、そしてそれは完遂されたはずだ。しかし、それで河童がまた現れたということは、幹部たちが持っていた王の一族の情報が、不完全だったということになる。
つまり、河童たちは、もしもの時に種が存続出来るよう、保険をかけていたのだろう。
彼らはどこまでも、河童であり、そして人間だった。
しかし、だからこそ僕はこうして、生きている。
彼の、いかにも人間らしい矜持のおかげで。
僕の隣から、深く息を吐く音が聞こえてきた。
「……まだ終わってはくれなかったということね」
僕は「そうみたいですね」と頷き、天を仰いだ。
空はいつもと変わらない青を広げ、灰色の雲を遊ばせている。




