二十一話『加藤さんと河童』
僕は一旦、身体を引っ込めると、大きく深呼吸をした。人間、混乱すると本当に頭の中が真っ白になるらしい。一挙に疑問が押し寄せてきたことにより、僕は数秒間、状況を整理することが出来なかった。
頭が落ち着き始めると、僕はとりあえずもう一度、様子を窺うことにした。
河童は、今まで見てきたどの河童よりも身体が大きく、おそらく百七十センチくらいはあるのではないだろうか。その他の見た目に差異はないものの、耳には、金色のイヤリングがいくつかぶら下がっている。
しかしやはり、何よりも驚いたのは、河童が人の言葉を話していることだった。
やがて、加藤さんが紙袋から計十個ほどの箱を取り出し、河童はそれを石のテーブルに並べて、恍惚な表情を浮かべた。
「中身は何だい?」
「底に書いているわ。これは肉、これが魚……、あとは自分で見てちょうだい」
「あれはどこにあるんだい?」
「カステラなら、この箱が全部そうよ」
加藤さんが一つの箱を指差すと、河童はその箱を持ち上げ、頬に擦りつけた。
「ああ、あたしはカステラが大好き。だって、こんなに美味しいものは、この世には存在しないからね。当然、人間も食べ物の中で、カステラが一番好きなんだろ?」
「人によりけりよ」
「あら、どうして? こんなにも美味しいのに。あなたはどうなの?」
「わたしは嫌い。甘いものは苦手だから」
「人間は損な生き物だね。こんな美味しいものを、美味しいと感じられないなんて。その点、あたしたち河童は何でも美味しいと感じられるんだから、得な生き物。……そしてそれはきっと、あなたたち人間が、豊かになり過ぎているせいよ」
すると河童は、口元に怪しい笑みを浮かべる。
「だから一度、河童にこの星の主導権を渡してみないかい? 二番手に降格してこそ、見えてくる景色も
あるかもしれないよ」
加藤さんは小さく肩を竦める。
「わたしは別に構わないけど、わたしにそんな権限はないから。もしそうしたいのなら、人間を相手に戦うしかないわ」
「人間を相手にねえ。……なら、もし河童と人間が戦うことになった場合、あなたはどちらにつくんだい?」
「わたしは人間にはつかないわ」
加藤さんが即答し、河童は片側の口角を上げる。
「それは、どうしてだい?」
「人間が嫌いだからよ」
その言葉を聞いて、河童は高笑いする。
「相変わらず、あなたは面白い。人間なのに、人間が嫌いだなんて」
「人に生まれてきたくて、生まれてきたわけじゃないから」
「それはそうね。なら、河童に生まれてきたかったの?」
「さあ、それはどうかしら。わたしは河童の全てを知っているわけじゃないから。……じゃあドクダミ、あなたはどうなの?」
ドクダミ。どうやら、それがこの河童の名前らしい。ドクダミは「そうね」と扁平な頤を指で撫でる。
「あたしは、人間に生まれたかったね」
「それは、カステラがあるから?」
ドクダミはふっと小さく笑う。
「違うよ。人間は偉そうに生きられるからさ。それに対して河童は、人間に怯えながら、肩身の狭い思いをして生きなくちゃいけない」
「人間だって、河童に怯えて暮らしていると思うけど」
「何を寝ぼけたことを言っているのさ。大きな建物をたくさん並べて、大地のほとんどを我が物顔で占有している種族の、どこが怯えて暮らしていると言うんだい。人間にとって河童なんて、あたしたちにとっての煩い蝿くらいの存在なんだろう」
「蝿は河童を殺さないでしょ。でも、河童は人間を殺す」
「それは、人間が河童を殺すからだよ」
「違う。確かに人間は野蛮で残忍な生き物かもしれないけど、人間に害を与えない生き物を、無闇に殺すことはない。稀にそういうことをする人間もいるけど、彼らは人間の中でも異質な存在とされる。だから、河童が人間のことを殺さなければ、あなたたちも肩身の狭い思いをせず、生きられるはず」
ドクダミは釈然としないような表情を浮かべ、しばらく何かを考えるように、じっと虚空に視線を浮かべた。
やがてドクダミは、「いや」と小さく首を左右に振った。
「きっと人間は、河童が人間を殺さなくても、河童のことを殺そうとするはず」
「そんなことはないと思うけど」
「じゃあ、どうして人間は鹿を殺すんだい?」
ドクダミの問いかけに、加藤さんは言葉に詰まる。ドクダミは翡翠色に光る炯眼で、加藤さんを射抜く。
「鹿は人間のことを殺さないけど、人間は鹿を殺すじゃないか」
「あれは、鹿が農作物を荒らすから」
「鹿が農作物を荒らすのは、人間が山を壊して食べ物がなくなっているからだろう。結局、鹿は人間の都合で殺されている。違うかい?」
「それはわたしも、そうだと思うわ。でも、鹿は言葉がわからないけど、あなたたちは言葉を扱うことが出来る。だから、人間と話し合って、互いにルールを決めれば、きっと共存も可能なはず」
ドクダミは嘲笑するように、「共存?」と口元を緩める。
「馬鹿を言っちゃいけないよ。どうせ人間が提案するのは、人間に都合のいいルールだろ。表面上は、『共存』なんて綺麗な言葉を使っておきながら、実体は河童が支配されるに決まっている。……例えば、河童が食糧に困ったらどうする? あたしたちは当然、生きていくために、人間の農作物や家畜を奪ったり、人間そのものを食糧として襲ったりしようとするだろう。その時、人間はあたしたちを殺さないのかい?」
「きっと、河童が生きていけるだけの、食糧を支援しようとするはず」
「だったらどうして、鹿にはそうしない?」
ドクダミの声が大きくなり、洞窟内に反響する。
「人間の農作物を荒らす鹿は殺して、一方で、河童に対しては食糧を支援する。鹿と河童の違いはどこにあるんだい?」
加藤さんは少しの間を空けたあと、「それは」と小さな声で答える。
「……鹿には知性がなくて、河童には知性があるから」
その加藤さんの声には、自信のなさが滲んでいた。おそらく、本心では思っていないものの、それくらいしか答えが見つからなかったのだろう。
ドクダミは呆れるように、小さな息を吐く。
「何とも人間らしい、差別的な理由だね。きっと、あんたが人間でありながら人間を嫌う理由も、そのあたりにあるのだろうね。その点、河童は生き物を差別しない。相手が人間であろうが、ネズミであろうが、平等に生き物として向き合う」
それに対して、加藤さんは反応しなかった。
ドクダミは箱の中身を一つずつ確認しながら、「しかし」と加藤さんを一瞥する。
「どうしてあんたはいつも、そう話し合いをさせたがるんだい?」
「これ以上、あなたたちが人間に殺されるのを、見たくないからよ」
「だったら、話し合いなどではなく、あたしたちが人間を殲滅するために協力をしてくれた方が嬉しいんだけどねえ」
「勿論、それが可能ならばいくらでも協力はするわ。だけど、現実として、あなたたち河童が人間と戦っても、勝つのは不可能。だから、あなたたちがこれ以上死なないためには、人間と和平交渉を結ぶしかないの」
ドクダミは「なるほどね」と小さく頷く。
「それは一理ある。まあ、選択の一つとして、考えておくことにするよ。何せ、あたしが唯一、人間で信頼しているあんたの進言だからね」
「ぜひ、検討して。……それより、大丈夫なの?」
加藤さんの問いかけに、ドクダミは「大丈夫って?」と短い首を傾げる。
「ほら、石で確認した方がいいんじゃない?」
「ああ、それなら心配ないよ。既に見てある。……ところで」
ドクダミはそう言うと、ゆっくりと腕を上げた。
「あそこにずっと隠れている人間は、あんたの仲間かい?」




