十九話『追跡』
僕は山の方に向かって、慣れないバイクを走らせる。運転が苦手で、さらに視界がとても悪いため、スピードはかなり抑えている。急いで事故にでも遭ったら、それこそ追跡することが出来なくなる。
あのマンションから出てきて、それも白い眼鏡をかけた女性となると、加藤さん以外には考えられないだろう。
そして、こんな時間に、山の方角へと向かうなんて。どうしても、僕の頭の中を、黒い想像が埋めつくしてしまう。
しばらく走っていると、僕はガードレールが途切れた側道に、二輪車のタイヤのあとがついているのを見つけた。
バイクを止めて見てみると、茂みの奥に僕が乗っているのと同じ、獣害対策課のバイクが隠されるように置かれていて、そしてそこから先の傾斜に、人が下りていったような形跡があった。ここから山の中に入っていったと見て間違いない。
昨夜の小雨のおかげか、足元がぬかるんでいて、はっきりと人の靴のあとが残っていた。 僕はその形跡を、慎重に辿っていく。ここはまだ山が浅いので、河童が出てくる可能性は低いものの、それでも危険であることには変わりない。銃も持たずに来て大丈夫だっただろうか、と不安になったが、どの道、持っていたところで自分には使いこなせないということを思い出す。
しかし、加藤さんだって、あれだけの銃の腕前を持ってこそいるものの、さすがに一人で山へと入っていくのは危険だ。いや、そもそも銃は支部で厳重に保管されているはずだから、持ち出すことは出来ないはず。
危険を冒してまで、一体、何のために。いや、今はそんなことを考えても意味がない。とにかく、加藤さんのあとを追わなければ。
僕は疑問を一先ず置いておき、蒼然と光る木の間隙を抜けていった。
そこから十分ほど歩くと、ようやく霧が晴れてきて、遠くから鳥の囀る声が聞こえてきた。先ほどまでは、不気味なほどの静寂の中、僕の湿った足音と、梢が水滴を垂らした音だけが響いていたので、僕はそれだけで安心した。見上げると、葉の隙間から青が覗いている。空も目を覚ましたようだ。
そして、僕は遠くに人影を認識した。
百メートルほど先に、両手に大きな紙袋を持った人が歩いている。かなり小さいのでよく見えないが、あの後ろ姿は間違いなく加藤さんだろう。特に周囲を警戒することなく、真っ直ぐと山の奥へと進んでいく。その足取りは、まるで行く先が決まっているかのように、しっかりとしている。
僕は距離を保ったまま、しかし見失わないよう、加藤さんのあとをつける。加藤さんは時折、警戒するように後ろを振り返るものの、今のところ、僕の存在には気付いていないようだ。
山は深くなればなるほど、冷たくなる気がする。それは、肌に当たる山気の温度ではなく、人に対して、何だか余所余所しくなるのだ。部外者が入ってきたかのように、どこからともなく白い視線を浴びせられるような、そんな感覚がする。
肌の表面に薄らとしがみつく水の膜は、汗なのか、それとも湿気なのか。皮膚を伝ってくれないもどかしさに、僕はつい歩を速めてしまいそうになるものの、必死にそれを抑え込む。鼓動の挑発にも、決して乗らない。
深く、静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。加藤さんなら、実はもう僕の尾行に気付いているのではないか。突然、河童に襲われたらどうしようか。そして、この先にはどんな光景が待ち受けているのだろうか。湧き出てくる不安の数々のせいか、胃の奥が鈍い痛みを訴える。
やがて、加藤さんは立ち止まると、鬱蒼と生い茂る雑草を掻き分け、その奥へと進んで行った。偶然その場所を選んだのではなく、明らかにその先に何かがあるような、そんな様子だった。
僕は近付くと、すぐに入ることはせず、聴覚に意識を集中させた。すると、山の音が聞こえる中、葉を踏みしめる音が、僅かに浮き上がってくる。
以前、僕は八幡さんに訊ねたことがあった。
「あの、それだけ耳がいいと、普段困らないのですか?」
「困るって?」
「日常の音も大きく聞こえるのではないかと思って」
「ああ、それは問題ないで。普段はスイッチオフにしてるから」
「スイッチ、ですか?」
「せや。意識のスイッチ。例えば今、オレは瀬織ちゃんの声だけに意識を向けてるから、他の音は聞こえへん。正確には、耳には入ってきてるけど、瀬織ちゃんの声以外の音に対する意識は閉じてるから、他の音を感じることはない。でも、意識したら、遠くの車の音も、誰かが廊下歩いてる音も、一気に全部入ってくる。……普段は、日常の音に対して意識を閉じてるから、別に大きく聞こえてうるさいなんてことにはならん。まあ、あれやな。わかりやすく言ったら、普段はぼーっとしてるってことや」
その時は何気ない会話だったが、その話は後々、探索活動においてとても役に立った。聴覚だけでなく、人間の感覚は意識することで何倍にも研ぎ澄まされる。特に、こういった緊張感の下では、本能が刺激されるのか、さらにその傾向は強くなる。
目を閉じると、加藤さんの後ろ姿がぼんやりと浮かんでくる。
やがて、僕は足音が確実に遠ざかったことを確認してから、茂みを掻き分け、奥へと進んだ。視界に加藤さんの姿はないが、方角は音からわかっている。
音を立てないよう、しかし小走りで追いかけると、加藤さんの姿を確認することが出来た。この辺りは岩塊が多く、両手が紙袋で塞がっている状態では乗り越えるのが大変で、なかなか進めない様子だ。
その時だった。
右方向、五十メートルほど先の木陰で、何かが動くような音がした。僕と同時に加藤さんも気付いたらしく、加藤さんが振り返る。僕は慌てて木陰に隠れ、その音と加藤さんに注意を向ける。
まさか、河童か。
ここで河童と遭遇するのは、面倒だ。もし、こちらに来たら動かざるを得なくなるし、加藤さんに向かっていったとしても、見て見ぬ振りは出来ない。
息を呑んで待っていると、やがて木の陰から、一匹の鹿が姿を現した。
僕は安堵に胸を撫で下ろしたものの、その鹿の様子がおかしいことに気がついた。
鹿の角が両方とも根元から折れていて、大量に出血しているのだ。
どうやら、加藤さんもそれに気付いたらしく、踵を返して鹿の元へと近付こうとしたものの、鹿は加藤さんが数歩近づいただけで、慌てて逃げて行った。
加藤さんはしばらく鹿の背中を見つめていたものの、再び先へと進んで行った。その表情は、ここからでは遠くてわからなかった。
しかし、どうして折れたのだろうか。鹿の角は一年毎に生え変わるものの、あれは確実に折れていた。さらに、自然に折れたとは考えにくい。だとするなら、折られたとしか考えられないが、人間がわざわざそんなことをするとは思えないので、おそらく河童の仕業だろう。
血の状態からするに、折られてからそれほど時間は経っていない様子だった。だとすると、この近くに河童がいるかもしれない。
僕は口を窄めて大きく息を吐き、岩を乗り越えた。




