たった一度の奇跡
「祈らないのですか?神父様」
冷たい空気を震わせ、ベルの声が響いた。
「邪魔をなさるのですね。それならば神父様も容赦はしません」
祈り。
その言葉を聞いた時、ロバートは心の中を見透かされたような気がしてどきりとした。
彼の信仰はぐらついていた。
謎の声の主によってもたらされた時間の旅。その中で、彼はいくつもの悲劇的な場面に遭遇していた。
人生の狭間に突然現れる理不尽な境遇。そのどれ一つをとっても、彼にはそれを自分に対して『これでいい』と納得できる説明を導き出されるものは無かったのである。
ただ、いつかは救われる。神は見ていてくれるとだけ自分に言い聞かせた。
だが、最後に彼が見たもの。それは死してなお孤独の中に身を委ねなければならないベルの姿だったのだ。
獣と少女は共感した。それはまぎれもない事実。
ならば。こんな恐ろしい出来事に神が目を瞑るのであれば、祈りにはいったいなんの意味があるのだろうと。
「神父様!」
神酒がロバートに駆け寄ろうとしたが、彼はそれを大声で阻止した。
「来るな!」
神酒がビクッと体を震わせる。
「来ちゃいけない。もうあの子には何の言葉も届かない。君だけでも逃げろ!」
「ダメー!」
神酒はパラケルススの首にしがみついた。なんとかロバートから獣を引き離そうと思ったのだ。
しかし、所詮体力が違いすぎる彼女の力が獣に遠く及ぶはずもない。
「やめろ!そんなことしても無駄だ!君は早く逃げるんだ!」
「いやだ!」
神酒は叫んだ。
「もう誰も死ぬのを見たくない!もう身代わりなんてならないで!」
獣は首にまとわり付く小さな少女を振り払おうと、一度注意をロバートから離し、顔を大きく振り回した。まるで神酒は風に舞う木の葉のように揺さぶられたが、それでも決してパラケルススの首から振り落とされまいと懸命にしがみついく。
「無駄だ!そんなことしたって・・・」
ロバートが悲痛に叫ぶ。だが、神酒は彼の言葉に応じなかった。
「いや!無駄でもあたし諦めない・・あたし・・決めたんだから!!!」
神酒の叫びが、暗闇の中に高らかに響いた。
ロバートの耳にあの声が聞こえた。
「ほら。彼女は知っていただろう?」
彼の目の前で、何かが開けたような気がした。それはまるで、ロバートの頭の中で幾重にも重なっていたパズルが急に解けたような感覚にも似ていて、禍々しい獣が迫っていてもなお、暗雲の中に光を照らすように、彼に不思議な爽快感を与えていた。
そうだ。ぼくも知っていたはずだ。
祈りとは安易な神への頼みごとではない。
祈りとは『自分への誓い』
祈りの向こうにいるのは神ではない。
そこにいるのは本当の自分。神はそれを見ているだけだ。
努力をして、やれることを全てやって、それでももうどうにもならない時。
その時初めて神にすがればいい・・。
この神酒という子はそれを知っていた。
今彼女は自分ができることを精一杯やっている。
今までもそうだったのだろう・・。
私は今まで、まだ彼女のように、やれるだけのことをやっていないじゃないか・・・。
「主よ!」
ロバートは祈った。
それは彼が今まで行ってきた、ある種の他人まかせのようなものではない。
自分の全てを捧げることもいとわない決心を秘めた心からの願いであり、自分への叫びだった。
「私に力を下さい!どんな困難に出会っても、最後まで諦めない勇気を下さい!!」
その時だった。ロバートの胸に控えめに輝いていたロザリオが、突然強い光を伴い、激しく輝きだしたのである。
それは神が応えてくれたのか、それともあの謎の声の主の仕業なのかはロバートには判らなかったが、まぎれもなく人知を超えた力であり、彼が信仰を取り戻した証だったのかも知れない。
強い光を浴びたパラケルススは、自分の身に起きた未曾有の事態に動揺した様子を見せた。いつもであれば微々たる抵抗を見せるのみの人間が今、それが無視をできない大きな力を持って反撃してきたのだ。
全身から力が抜け、パラケルススは最後の咆哮を上げる間も無くその場に崩れるように倒れ、そしてそのまま動かなくなってしまっていた。
だが、この時一つのハプニングが起きた。
パラケルススの下に位置していたロバートが、倒れてきたその重みに潰され、動けなくなってしまったのである。




