白い手
「温かい・・」
「この子温かいよ・・」
台詞が変わった。
「まるでお母さんみたい・・」
「いいなあ・・」
「来て・・。こっちに来て・・」
「おいでよ・・。こっちにおいで・・」
「一緒に来てよ・・」
声の全ては、やがて2人を求める恨めしいような声に変わっていった。
「どうする?ヤバくない?」
神酒が輝蘭に問いかけた。これでは何時この子達が襲いかかってきてもおかしくない。そんな状況だったのだ。
「逃げましょう。それが一番みたいです」
「でも、真っ暗だよ」
「大丈夫。これがありますから」
輝蘭は背中のリュックから、懐中電灯を取り出した。
彼女が雛の森に来る時に、必要になるかも知れないと思いリュックに入れた秘密アイテムである。
「これで出口の方を照らします。そしたら、二人で一緒にそこまで走りましょう!」
「オーケー。しょうがないね。一回ここから逃げてから、もう一度作戦考えよ」
2人は握り合っていた手を離した。
前にも書いたが、スポ少で神酒は陸上を、輝蘭はバレーボールをやっていて、2人とも体の動きには多少なりとも自信はあった。
よくは見えないが、相手は幼い子ども達だ。だから今どんな状況であっても、彼女達はそれを切り抜けると信じていた。
何を思ったのか、突然神酒が、輝蘭の頬に軽く自分の唇を触れさせた。
「・・ミキさん?」
「ヘヘッ。上手くいくおまじない」
そして、2人は身構えた。
「ミキさん。また後で会いましょう」
「うん。・・・あのね、キララ・・」
「なんですか?」
ほんの少しだけ、沈黙が流れた。
「キララのこと、大好きだよ」
「・・・知っています。私もです」
そして2人は小さく声を合わせた。
「いっせーの・・・・・・・せっ!」
神酒と輝蘭は勢いよく飛び出した!
輝蘭が懐中電灯で照らした先には、ドンピシャリで緑色の大きな扉が浮かび上がっていたが、それと同時に奇怪な光景も映し出されていた。無数の白い手が2人に掴みかかろうと、文字通りそのおぞましい魔手を伸ばしてきていたのである。
扉まで約六十メートル。
神酒は何本もの奇妙な白い手を掻い潜りながら、扉まで全力疾走した。
キララは大丈夫?
神酒がちらりと横を見ると、少し離れた所を懐中電灯の光が無茶苦茶な方向を照らしながら前進しているのが目に入った。
おそらく輝蘭がそれを手に握ったまま走っているのだろう。彼女も無事な様子だ。
いくつもの腕を潜り避け、何本もの手を振り払い、神酒は走り続けた。
途中足場の悪さにバランスを崩し何度も転びそうになったが、それでもその度に体制を建て直し、遂に神酒は扉のノブに手をかけることができた。
「着いた!」
ところが、その時想いもよらぬ出来事が彼女に降りかかっていた。
「違う!このドアじゃない!」
それは2人が地下墓地に入り込んだ時に通り抜けたドアと同じ形状をしていが、年月を経たその痛み具合が、先程彼女達が見たものとは全く別物だったのである。
ドアが開かない!神酒はドアを何度も叩いた。蹴り上げもした。しかしその緑色の巨大なドアは、彼女のための僅かな隙間すら開こうとはしなかったのである。
そしてそのすぐ後だった。神酒の後ろから、聞き覚えのある少女の悲鳴のような叫び声が聞こえたのだ。
神酒はすぐ後ろを振り返ったが、もう追いついてもいいはずの輝蘭の姿がまだ無い。見ると彼女の足元に、見覚えのある明かりがコロコロと乾いた音をたてながら転がってきて、意図的に想像していなかった不安が、彼女の胸の中に大きく広がっていた。
まさかキララが?
「キララ!!」
神酒は輝蘭の名を叫ぶと、意外なことにすぐに返事は返ってきた。
しかしそれは神酒が期待していた声ではなく、あの闇の中の面妖な声が、彼女に声を投げかけてきたのだった。
「この子、温かいね・・」
「うん。とっても温かい・・」
「まるでお母さんみたいだ・・」
「そうだね。お母さんみたい・・」
「やっぱりこの子に、お母さんになってもらおうよ・・」
「うん。それがいい・・」
「そうしよう・・」
「でも・・」
「一人じゃ足りないね・・」
「足りない・・」
「もっと欲しい・・」
「お母さんがもっと・・」
神酒は闇の中からの見えざる視線が彼女に集中するのを感じ、背筋に冷たいものが走った。
「もう一人いるよ・・」
「本当だ・・」
「お姉さんがもう一人いる・・・」
「この子にも、お母さんになってもらおうよ・・・」
「うん・・・」
「それがいい・・・」
この言葉を聞き、神酒は大きな声で叫んでいた。
確かに恐怖はあった。しかし今の彼女はその恐怖の感情を越え、強い怒りで満ち溢れていた。
「ふざけないで!」
周りを囲む幼子達の声が沈黙した。
「ふざけないでよ・・。あたしの友だちを返して!」
応える者は誰もいない。
「キララは・・。キララはあたしの親友なんだよ・・。お願い!あたしの友達を返してよ!」
ほどなく、返事がした。
「ダメだよ・・」
「ダメ・・」
「できないよ・・・」
「そんなことしたら、ぼくたちのお母さんがいなくなっちゃうじゃないか・・」
「ダメだよ・・・」
神酒はもう一度叫んだが、もう体から力が抜けてしまって、大きな声は出せなかった。
それでも彼女は座り込んだまま、声にならない声を絞り出した。
「キララ・・・」
闇の中に白い影が浮かんだ。
その影は最初一つの大きな霧のようだったが、すぐにいくつかの小さな塊に分かれていく。そして塊はやがてゆっくりと、その一つ一つが白い病的な手の形になり、掌を神酒の方向に向けた。
再び彼女を捕らえようと、あの白い手が行動を始めたのだ。
神酒は身構え、心の中で叫んだ。
負けない。負けるもんか。こんなやつらなんかに絶対負けない!
その時だった。闇の中に、凛とした声が響いた。
「やめなさい!」
それは、神酒のよく知っている声だった。
幼子の霊達の恨めしげで陰のこもった声とは違い、生命と活気に溢れたそれは、まさしく輝蘭の声だったのである。
「彼女に手を触れてはいけません!」
輝蘭の声が闇の中に響き渡った時、神酒のすぐ目前に迫っていた白い魔手達が動きを止め、視界がぼやけるように元の霧に似た形状に戻り、フワフワと彼女の前を漂い始めた。そしてその霧の中から、ゆっくりと一人の少女が神酒のもとへ歩み寄ってきた。
少女は輝蘭だった。
ところが輝蘭は神酒の一メートルほど手前に立ち止まると、何故かそれ以上神酒に近づこうとはしなかった。
闇と霧のせいで表情はよく読み取れず、足元に転がった懐中電灯が、輝蘭の足元だけを照らしていた。
「キララ!無事だったんだ!」
もちろん!
神酒は輝蘭から、そんな元気な答えが返ってくると思っていた。
ところが、彼女が返事をためらっているのが神酒になんとなく伝わってきて、視界が悪く表情がよく見えないが、逆に輝蘭の悲しげな感情が神酒に届いた。
「ミキさん・・・。ごめんなさい、ここでお別れです・・」
「え・・・?」
もう輝蘭には会えない。そんな仄かな予感が神酒の心に漂い始めた。
「何言ってるのさキララ。一緒に帰ろう?そう約束したよね?」
輝蘭は返答に困っている様子だった。
どうしたの?キララどうして『うん。』って言ってくれないの?
神酒は輝蘭にそう伝えたかったが、言葉に出せなかった。
神酒が期待する答えとは別の返事がきそうで、それが恐かったからだ。
輝蘭の息遣いが聞こえた。それはゆっくりと、しかし細かく途切れがちな息遣いで、何か感情が爆発しそうなのを必死で抑えているように彼女には聞こえてくる。釣られるように、神酒の目からも涙が流れた。
「ごめんなさい、ミキさん。私、約束してしまったんです。ここに残るって・・」
神酒にはすぐに判った。
神酒を救うために、彼女は身代わりを買って出たのだ。
おそらく輝蘭は、あの姿を消した僅かな時間に、この幼子の霊達に約束をしたのだろう。彼女が全てを引き受ける。代わりに神酒には手を出すなと。
「ダメ、キララ!そんなことしないで!あなたまでいなくなってしまったら、あたしは・・」
「ミキさん・・」
闇の中から、神酒の胸元に輝蘭の手が伸びた。それは幼子の霊達の白い手とは大きく違っていて、血色の良い健康的な手だった。
学校帰り。遊びに行く時。ハイタッチをした時。何度も触れ合った輝蘭の柔らかな手・・・。
手の中には、小さな銀糸のお守りが握られていた。
いつも輝蘭が大事にランドセルに付けているお守りだ。
「これを差し上げます。大事に持っていてください」
神酒は輝蘭の手に触れた。それはその血色の良さとは裏腹に、とても冷たく、冷え切った手だった。このほんの僅かな時間に、きっと輝蘭のもとで血も凍るような恐ろしい出来事があったに違いない。
「ミキさんと一緒にいた時間。私、とっても楽しかった・・・」
闇の中の気配が、再びざわめきだしていた。
それに気が付いた輝蘭が後ろを少し振り向いた後、もう一度だけ神酒の顔をじっと見つめた。
神酒には判った。輝蘭は笑っていたのだ。
七海が消えたあの時のように、彼女も最期に笑顔を神酒に送っていたのである。
「ミキさん、お願い。私の事、忘れないでね・・・」
突然、闇の中に無数の手が蠢き出すと、その魔手は神酒には目もくれず、真っ直ぐに輝蘭を包み込むと、彼女を闇の中に引きずり込んでいく。
しかしその突然の惨劇にも、神酒はただその様子を見ていることしかできない。
「やめて!キララ!あたしを一人にしないで!」
神酒の絶叫にも似た叫びが響いたが、それに応える者は誰もいなかった。
輝蘭も、あの忌まわしき満たされぬ魂達も、何時の間にかその姿を消していたのである。
やがて、地下墓地に光が戻ってきた。
『私の事・・忘れないで・・・』
神酒には最後にもう一度だけ、輝蘭の声が聞こえたような気がしていた。
しかし何処を見回しても、そこには彼女に優しい笑顔で応えてくれる人は、誰一人としていなかったのである。