第十七話 闇にのまれた心
限界だった。
今まで必死につなぎ止めていたもの。
それがあっさり引きちぎられる。
しっかりと鎖で縛り、南京錠で鍵を閉めていた心。
だけど、その鎖、錠はあっさり崩れ去る。
錆びた鉄が風化するかのごとく。
粉々に砕け散る。
もうそこには、何もない。
さらけ出された心を守るものは何もない。
だから、私は……
「ああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
壊れた。
胸が痛い。
身体中どこもかしこもが痛い。
こんな想いをするのは何年ぶりだろうか。
こんな激痛、何年ぶりだろうか?
もう一人の私がひっそりと顔を出す。
そして
『死んでしまえ』
そうつぶやく。
けれど、その声は、私の心の奥底から、響く。
どこもかしこにも、響く。
耳をふさいでも、心を塞ごうも、聞こえてくる。
私は分かっている。
今ここで死ねば、楽になる事は。
苦しむ事はない。
彼女への罪はもうない。
今の私は背負うべき罪がない。
だから、死ねば、ただただ安穏な世界へと旅立てる。
それが分かっているから、もう一人の私はそうささやきかけてくる。
「黙れ!!私は、私はお前に屈したりはしない!!」
私は、思わず叫ぶ。
胸をかきむしり、必死になって叫ぶ。
隣に、彼女がいるが、そんなのは気にするだけの余裕はない。
今は、必死にもう一人の私と戦わなくてはならない。
もしここで、負けてしまえば、私は死ぬ。
だけど、死ぬわけにはいかない。
千鶴はそれを望んでいない。
そして、私自身もそんな事は望んでいない。
望んでいるのは、暗き闇。
彼女と私が抱える、現実を……
知識を得すぎた事によって生まれた闇。
絶望しかその手にもたない闇。
闇はただただ終焉へと導くだけ。
だから、私を死へと導く。
終焉へと導こうとする。
『なら、お前はこれからどうするというのだ?今更彼女を本当に愛せるのか?お前は知っているはずだ。自分の心を。そして、現実の儚さを』
そんな抵抗をする私に、彼はさらに囁きかける。
最も深い傷を。
『お前は本当は誰を愛していた?お前は本当は何を望んでいた?』
そして、彼は続ける。
私を絶望に叩き落とすために。
『お前は分かっているはずだ。お前が幸せになんてなれない事は。人が幸せになんてなれるはずがないと言う事を』
どんどん、私を追い詰める。
悲しいだけの言葉を、どんどん囁きかける。
耳を塞ごうにも聞こえる声に私は怯える。
どんどん心が闇に支配されていく。
死を望み始める。
『お前は知っているはずだ。いったい彼女から何を学んだ?何を知った?お前は無知ではない。だからこそ、現実を知っているはずだ。人は結局己しか愛せない事を。彼女だって自分を愛するからこそ、お前を引きずり込んだ。そして、お前は自分を愛しているからこそ、彼女から逃げ出した。自分の思いからも逃げ出した』
そこをたたみかけるように、彼は続ける。
嘲笑うように続ける。
私は……
もう戦えない。
言い返す言葉がないから。
私は決して無知ではない。
だから、現実を知っている。
そして、その現実を知っているからこそ、夢も希望も持てず、ただただ、現実を眺める事しか出来なかった。
夢も希望を捨てる事しか出来なかった。
私は瞳を閉じる。
全てがどうでも良くなってきた。
最初から分かっていた。
この結末であることは。
彼女の再会し、彼女と共にいると決めた瞬間に予想はついていた。
これこそが死へのきっかけになるだろうと。
だから、また絶望したのだ。
あの時、一人部屋でアルバムを見た時に。
そして、後悔したのだ。
選ぶ事のできなかった事に。
私は立ち上がると、そのまま下へと飛び降りる。
彼女がびっくりして、立ち上がるけれど、気にならない。
あまりにもの衝撃で、足首を少々痛めたけれど、それも気にならない。
心が麻痺している。
全てを拒絶している。
砂浜を進み、やがて海の中へと入る。
夏の日差しを浴びて、身体中が熱いはずなのに、なぜか寒かった。
凍えそうなほど寒かった。
いつだっただろうか?
今のように海の中に入り、自殺をはかったのは。
もう、覚えていない。
何も覚えていない。
記憶がどんどんなくなっていく。
これは、以前からそうだった。
自分が何を考えていたのかすら分からなくなる事があった。
それが、最近はひどい。
幸せだった日は記憶に残っていない。
残っているのはあの絶望の日々。
だけど、その絶望の日々ですら、うっすらと靄がかかり、ほとんど覚えていない。
だけど、それもどうでもいい。
どうせ死ぬのだから、記憶なんて残っている必要はない。
「ごめんなさい、千鶴。どうやら、私は貴女の願いをかなえる事はできないみたいですね」
せめてもの心残りは千鶴の願いをかなえられなかった事。
彼女は、私の幸せを願っていた。
だけど、やはり私の心は弱かった。
全てから逃げ出してしまうほど弱かった。