Ⅴ.アンティークショップ
この街で気になるものと言えば、指導者のいるビルの近くにある建物だった。ベビーブルーの家がこまごまと立ち並んでいる街の中で、それだけが黒く重々しく古風だった。自治政府の所有にあるというから歴史的に貴重なものなのかと思ったが、誰が建てたというような建物にまつわる話も聞かない。明らかな存在感を放っているというのに日常の景観の一つとしてまるで見えないもののようにその前を通り過ぎる通行人を見る度疑問が募っていたから、中に入ってみたくなっていた。
建物一階の、開放されているエントランスホールに立って内部を見渡す。床には違う色の石が嵌め合わせてあって円形の幾何学模様を形作っていた。その奥で壁に沿いながら幅広の階段が曲線を描いて上に続いている。上の階は明かりを点けていないようで昼間だというのに暗がりの中に沈んでいた。
高い所にある小窓から光が差し込んで舞う埃を照らす。私が物珍し気に見ている様子が面白かったのか、後ろから声が掛かる。
「気に入ったんですか?」
「ええ、まあ……ここ、上の階に行けないんですね」
「古い建物ですからね。行こうと思えば行けますよ」
階段に歩みを進めようとするフレッドを止める。
「私はただこの建物が何だったのか知りたかっただけなので」
彼は口元に指をやって、少し考えるような素振りを見せた。
「良くは知りませんが。確か、この建物は元々個人の邸宅だったんですよ。国外からの取引に関わって財を成した男性が老年になって一人で建てたものだと」
「邸宅? それにしては」
「まあ、そういう趣向だったんでしょう。彼の死後しばらくは建物を引き継ぐ縁者もない状態だったのですが、男性と親しかった地元の人がこの建物の管理を請け負っていたらしいですよ」
周りに誰もいないせいで彼の声が反響する。広さで空気が四方に圧迫されないのは良くても、一人で住むには少し落ち着かない。
とりあえず気は済んだので外に出る。途端、滑らかでひんやりとしていた空気が、人の残した汗の匂いや熱されたアスファルトの匂いに変わる。活きているものというのはどんなものでも粗雑で秩序が無い。
「これからどうしますか。行きたい場所などあったら言ってください」
「特には。ざっと巡れたらそれでいいと思っているので」
彼が欠伸をしながら街灯の柱に寄り掛かりながら折りたたんだ地図を出して眺めるのを、私は横目で見ていた。ちらりと見ただけでも縮尺がサクトの地図よりかなり小さい。そのくらい大まかな地図なら見なくても良い気がする。もしかすると、彼もまだこの町を良く知らないのかもしれない。
歩き出す彼の耳を金のピアスが飾っている。
この街の観光がまだでしたら案内しますよ、というのがフレッドの言葉だった。断りきれなかった私も私だが、彼にはもっと他に、貴重な休日の時間を割いて付き合う相手がいるだろうに。全く分からないけれど、私には彼の小さな虚勢を咎める気も湧かない。
仕事中であれなのだから、プライベートな二人きりの時間なんて何を話せばいいのか分からなくて無駄に気を遣うのは見えているし、私はこの男性のことをまだ良く知らない。そういうことを何度かフレッドに丁寧に伝えてみた。けれどその度例の笑顔でかわされて何も変わらないまま話が戻ってきてしまう。もどかしい気持ちもそのうちどうでも良くなってきたというか、妥協した結果が今日の休日だった。確かに彼は軽薄に見えるものの邪な真似をするような人間ではないことを、人付き合いに慣れない人間なりに薄々感じ取り始めていたこともある。
私がいつもの癖で答えの出ない事を考え続けている間、フレッドは全く違う事を考えていたようだった。
「青紫、というより竜胆?」
私は瞬きして彼を見る。
「マニキュアの色ですよ」
嬉しさより気恥ずかしさの方が強くて思わず自分の爪を隠したくなったけれど、そういう訳にもいかない。他人の物のようにちらりとそれを眺めるに留めた。
「ああ、これはただの気分で。不自然でしたか」
「いや、そういえばここに来た時に着ていたコートもそんな綺麗な色だったなと思ったので、好きな色なのかと。あれ、似合ってましたよね」
「それは良かったです。こういうものに私はそれほど興味がある訳でもないんですけれど、たまに流行りを気にする人もいましたから」
一秒だけ考え込むように指を上唇に当てると、彼はするりとこちらを振り返る。決まった一連の動作をこなしているかのような動きだった。
「眠りにつくのは、やはり辛いものなんですか」
「それは、どういう意味で」
「コールドスリープは徐々に長期化されているという触れ込みがあるけれど、最長でも10年はいっていないはずです。技術の問題か人体にかかる負荷か、弊害があるのでしょうけれど。その結果、短いスパンでスリープと覚醒を繰り返すことにして、あとは新薬で老化を抑えていることにした訳だ。まだまだ未発達といえばそうなりますけれど、でも、長い時間眠るのと、どっちの方が楽なんでしょうね」
言い聞かせるような口調が徐々に弱気になっていって、最後には、いやそんなことを聞きたいんじゃなくて、とかぶりを振る。反応しづらくて私は首を傾げていた。
「つまり、成長緩和措置やコールドスリープはどう考えても人体に無理をさせていると思うんです。日常生活においても随分特殊な環境でしょう。私がサクトにいた時でさえ彼等を見かけることは少なかった。だから、他人事ながら、その、心配にもなったり。たまにソファーでぼんやり窓の外を眺めている子達は本当に普通に見えるんです。ジネヴラさんも、私より年上だなんて絶対に思えない」
話の糸を手繰って先にあるものを見極めようとしていたような目つきをしていた彼が、一呼吸おいて声を出さずに苦く笑った。
「外側からは平気に見えるからこそ、人には言えなくて内側に問題を抱え込んでいるんじゃないかとも思えるんです。……余計なお世話ですよね」
「意外と大丈夫なものですよ」
微笑みを作ってみせると彼は安心していつもの表情に戻る。
サクトでも有名な店を場所を覚えるためにいくつか覗いた後、特に目的を持たずに通りを歩いた。気温が上がってきたのでもう少し薄着で良かったと後悔したが、常に通りに緩く風が吹いていたことを考えると丁度良かったのかもしれない。疲れてきた頃に立ち寄った小さなレストランでは窓が開け放たれていた。空腹と喉の渇きを癒しながら何度も髪をかき上げる私をフレッドが見ていた。視線がかち合うと彼が何故か驚いたように身を引く。
「どうされましたか」
「いえ……料理、美味しいですか?」
「ああ、はい。美味しい」
「良かった。もっといい場所も知っているんですけれどね」
「もっと高級な?」
「いや、ただ俺が好きなだけで、そういう所では全く無いんですけれど」
ワイングラスの中のミネラルウォーターが、後方で電子煙草を吸う客の背骨の浮いた後ろ姿を逆さに映していた。
その後で私達はもうひとつ店に足を伸ばした。そこまで興味があった訳では無かったけれど、人の出入りを恐れているような、秘密を抱えているような翳りのために却って足を立ち止まらせるような雰囲気の店だった。カラメル色の木材のような柱が使われている店内にはランプシェードや土産物が置いてある。手入れがきちんとされていて枯れたような上品さを演出してはいるが、内装も品物もそれほど高価なものでは無いことは分かる。
「人、いないんですかね」
店の奥を覗いたフレッドがぼそりと呟いた時、カウンターの向こうで小さな頭が動くのが見えた。スイングドアを開けて出てきたのは10歳かそこらの女の子だった。髪を一つに束ねている。特に接客用の服を着ている訳ではなかったが、こちらを見て瞬きすると近づいてきた。
「今お父さんいないんです。店は開いているのでゆっくり見ていってください」
少し大人びてませたような口調だった。背丈が大分違う相手を前にしても諂いもせず、それほど客用の笑顔を見せる様子もないのは子供ゆえだろうか。
「え、あの」
「店番? 今は、君一人で?」
子供相手にまごついていたらフレッドが聞きたかったことをそのまま代弁してくれた。
「いや、上にお姉ちゃんがいるから、聞きたいことがあったら呼んできます。値段がどうとか、簡単なことなら私も答えられるけれど」
「そうか。今はちょっと見てるだけだから気にしないで」
言っているうちにドアが開いて、店の人らしき大柄な男性が姿を現した。フレッドを知っているのかいないのか、軽く彼に頭を下げて適当な会話を始めながら店の奥に入っていく。
その間に、私は店内を移動して風景画が飾られている壁の方に近づいていった。いずれも簡素な金属フレームに入っていて、値段も説明も見当たらない。古典的な形態のアートらしく物語の中にあるような街並みや遠い花畑の景色ばかりだが中にはどこか荒寥とした崖の風景の絵もある。この辺りの海辺の風景だろうか。印刷でないのはすぐ分かるけれど、何だろう、有名なアーティストの作品の模造品だったりするのだろうか。それとも、現在ひっそりと活動している人の作品なのだろうか。
「気に入ったんですか?」
その質問ならさっきも聞いたな、と思う。振り返るとまだフレッドと男性が話をしている。フレッドの声では無かったので今の言葉は男性のものだろう。彼等には見えないように静かにゆっくりと息を吸って吐いた。
服を軽く引かれて横を見ると店番をしていた少女が黙って氷水の入ったガラスのコップを押し付けてきた。受け取って口に含む。時々思うけれど、ただの水なのに食事をする場所で出される水とこういう所で飲む水は風味が違う。向こうが清潔な水なら、こちらには不純物が混ざっているということだろうか。そういえば前に何回か水で腹を壊したことがあったし、あまり飲まない方が良いのだろうか。でも口当たりは良い。半分ほど飲んで適当な場所にコップを置いた。
しばらくすると、フレッドの携帯に着信が来た。店を一度出ていった彼は、戻ってくると「ごめん、ちょっと用事があるから抜けるね」と言った。
「ああ、それなら私もそろそろ帰ります。今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
焦る表情を見せずに店を出て行く。広いストライドで歩き出す彼は飄々としていて、それだけ見れば何故あの人に苦手意識を覚えているのだろうとふと思ってしまう。
私がちょっとした気まずさを持て余しているのに気が付いたのかそうでないのか、店の男性がカウンターにいる少女に話しかけていた。
「ほらお前、話でもしてきなさい」
カウンターの下で携帯の端末でもいじっているのか、俯いたままの少女は無言で肩に置かれそうになった手を払い、男性を睨む。愛想の無さに少し頬が緩みそうになる。コップをカウンターに戻すと少女は顔を上げる。
「あ、ありがと」
「父親?」
男性がもう店の奥に消えていた後だったので聞いてみる。
「あ、うん。そうです。なんかすみません、あんな。またいなくなっちゃったし」
「いえ……見ていただけなので、全く構いません」思わず私は微笑む。
「そこの椅子、売り物じゃないので座れますよ」
「ありがとう。でももう帰るつもりなので」
「あ、そうだった。また……っていっても、観光ですか?」
「いや、違う」
「そう。あの髪の赤い人、たまに通りを歩いてるのを見かけたような気がしたの」
素っ気なさを装っているが何かを期待するような風に聞こえているのは彼女の好奇心だろうか。何をどういう風に答えればいいのだろう、と少し考えてしまう。
「あの人がここに来たいって言ったの?」
「いや……私の方かな」
少女は首を傾げて瞬きする。
「……そうなんだ。いいなあ」
「どうして?」
「え、だって、格好いいから」
彼女は退屈そうに息をついた。
迷走中ですがお付き合い頂けたら幸いです。




