後篇 君がために
それからも婦人は毎晩、クリフォードの部屋へ現れた。彼は夜毎続く誘惑に必死で耐え続け、そうして――四日目、最後の長い長い夜も、過ぎていった。
五日目。決戦の日が、漸く訪れた。
目のくまは、より一層濃く、深くなっていた。クリフォードの瞳は鋭く、何処か虚ろな光を宿す。
心は決まっていた。
リムリック騎士との決闘に勝利し、それからジェフリー公爵に挑むこと。そして公爵に勝利し――恩賞として、公爵夫人エスメラルダを求めること。
(必ずや――刀の錆にしてくれる……!ふ、ふふふふふふふ)
寝不足その他の事由で、いつになく気が立っているクリフォード。完全に目が据わっていた。
彼は婦人に見送られ、地図に書かれていた『約束の地』へと赴く。
リムリック公国髄一の騎士を用意すると、ジェフリー公爵の手紙には書かれていた。しかしどんな相手が現れようと、彼には負ける気がしなかった。
「こんな、巫山戯た真似を……」
鬱蒼とした森を往くと、不意にひらけた場所に着いた。
どうやらここが、相手から指定された地点のようである。確かに障害物もなく、一騎討ちには最適といえよう。見上げると、太陽は高く高く昇っていた。
「もうそろそろ、か」
腰に差していた剣を手に、じっと決闘相手を待つクリフォード。
木々のざわめきに、足音らしきものが交じる。そこには――
「…………はっ?」
思わず間の抜けた声を漏らすクリフォード。森の中から姿を現したのは、えらく怪しい風体の人物だった。というのも、チェインメイルのみという軽装にも拘わらず、頭部は物々しい甲冑で覆われている。左手には細身剣を携えていた。
クリフォードは思わず、一歩、後退る。もしこんな人物が同じ部隊にいたら、間違っても並んで歩きたくはないところだ。頭の甲冑さえなければ普通の軽剣士姿だが、その一点があまりにも珍妙な存在感を醸し出している。
木々の切れ間から覗く空には太陽が煌々と輝き、影は真っ直ぐ足元に。場所も間違いない。つまり――この怪しい人物と、決闘をしろということだろうか。
尋ねようか逡巡していると、相手はひゅん、と剣先をこちらへ向ける。間違いなさそうだ。
冗談ではない、とクリフォードは憤る。怒りそのままに、相手へと投げつけた。
「何だ、その怪しい格好は。戯れも大概にせよ!」
しかし相手は何も言わず、剣を構えこちらを待ち構えている。
「く……。我が名は、キルケニー公国クリフォード。
リムリック公国の騎士よ、――相手になろう」
正直なところ、早々に終わらせて仕舞いたいというのがクリフォードの本音だった。少なくともこの状況を、彼は騎士として屈辱に感じていたのである。
「ゆくぞっ!」
若き騎士は、吠えると共に突進していった。
先ずは、正面から斬りつける。相手は剣でその軌道を逸らしてから、横へ跳び退く。
(――成程、身軽さを売りとした軽剣士だな。ならば……!)
そう目測を立てると、再び間合いを詰める。幾つか、金属の重なる音が森に木魂した。
間合いを整える暇を与えず、ひたすらに追撃するクリフォード。
「させるかっ!」
時間と間合いをあければ不利になる――そう考えた彼は、力押しで一気に決着をつけようとした。装甲のお陰で、多少食らった程度では倒れはしない。
ひゅん、と掠めた剣閃が、青年の頬に紅いラインを引く。牽制するように装甲の浅い二の腕や腹部を斬りつけられるが、彼は一歩も退かぬどころか、更に前へと向かっていく。
迸るクリフォードの気迫には、鬼気迫るものさえ感じられる。徐々に徐々に、相手は圧されはじめていた。
がっ、と。足場が悪く僅かに体勢を崩す剣士。その、ほんの一瞬の隙を衝き、クリフォードは大きく踏み込む。
そして。
「――そこだッッ!!!!」
気合一閃、相手の甲冑を剣で跳ね上げた。
……かららららああぁぁぁぁぁん――と。
まるで決着を報せる鐘のように、乾いた音がその場に響き渡る。
剣士の甲冑が、美しい放物線を描いて宙を舞い――やがて、二人の足元を転がっていった。
そのまま相手の喉下に剣先を向けようと、して。
「…………、な」
甲冑の中に隠れていた相手の顔が露になり、クリフォードは絶句した。
「何故、あなた……が、」
それだけを、何とか言葉にする。しかし相手は清々しい笑みを湛え、そんな青年を眺めていた。からん、と細身剣が左手を離れ、大地に臥す。
「私の負けです。流石ですね、クリフォード」
その面差しを、見紛うはずもない。
「エスメラルダ……さま……」
流れる白金の髪、翠玉の双眸――そこに佇んでいたのは、あの麗しき貴婦人エスメラルダであった。
彼女はその名を呼ばれ、眉を潜める。
「クリフォード。あなたを騙していたことを、私は詫びねばなりません」
「騙していた……?」
わけがわからないといった顔のクリフォードに、美貌の剣士は重く頷く。
「エスメラルダというのは、偽名です。
私は、リムリック公爵夫人などではありません。それに、公爵は独身です」
よく通る声が、青年の耳に届く。館で聞いた柔和な声音とは、違った響きをもって。
「で、では……あなたは一体――」
「その前に。――私の前で、誓いを立ててくださいますか」
何者なのかと、投げかけようとした問いは遮られる。
「あなたに嘘を吐いておいて、身勝手は重々承知です。ですが……」
つい、と。戸惑うようにその瞳が揺らぐ。しかし何かを決意したように、彼女は真っ直ぐ、クリフォードの目を見てこう続けた。
「私を信じ、その剣を捧げると。あなたが騎士の名誉のもとに誓えるのならば。
――私はあなたに、すべてをお話します」
「…………は?」
数度瞬き。話が唐突過ぎて、どう答えたものか返答に詰まるクリフォード。
「それは……あなたに仕える、という意味に受け取って宜しいのですか?それとも、素性も知れぬ公爵に仕えろということですか?
何処の誰とも知れぬ者に、いきなり仕えろと申されましても……私は正直、応じかねます」
あの手紙を読まされたときからずっと頭にあったことを、彼は口にした。この人物こそはと認めた主君でなければ、仕える気には到底なれなかったのだ。
「では、私になら仕えてもいい――と?」
「は……?それ、は」
彼女はじっと、答えを待っていた。こほん、と咳払いをし、クリフォードは翠色の瞳に映った己の姿を見る。
「はい。あなたに……なら」
青年の首が縦におちるのを見れば、エスメラルダと名乗っていた婦人は満足げにこう言った。
「――わかりました。それで、充分です」
彼女はふと空を仰ぎ、それから改めて視線をクリフォードへ戻す。
「リムリック公国太守ジェフリー。それが……私の本当の名です」
「……………………。はい?」
思わず耳を疑うクリフォード。そんな話を、信じろというのだろうか――と、如実に表情が物語っていた。それに、屋敷で見た彼女の姿はどう見ても女装ではない。自分の意思でないとはいえ、その身体に触れてしまったのだ、間違いなかった。
「ええ。女の身で家督を継ぐことは認められていません。ましてや長子が女であれば、死産であったものとして殺されるのが常。
――故に私はジェフリーと名づけられ、この身を男と偽り……この日まで生きて参りました」
凛とした眼差しが、クリフォードを射抜く。今までに見たどんな騎士より、諸侯より、強い瞳がそこにあった。膝を落とした彼女――公爵の左手が、剣を拾い上げ、鞘に収める。
「なればこそ……このような手の込んだ、回りくどい真似をする必要があったのです」
確かに、そう考えればすべての説明がつく。
ジェフリー公爵は、姿を現さなかったのではなく、現せなかったのだ。そして、使用人を置かず、たったひとりで騎士を出迎え、誘惑までしたのは……彼女の素性を知っても『騎士』として仕えることができるか、試していたのだろう。それについては、後ろ暗さがないでもないが。
それに。
「あなたの歩き方を見て……妙だとは、思っていました。
右足を踏み出して、左足を揃え、また右足から歩き出す。あれは、剣を扱う者の作法だ」
青年の指摘に、男装の麗人は目を丸くする。
「……驚きました。優れた観察眼ですね」
「それに、……公爵からという手紙は、あちこちにインクを擦った跡があった。あれは、左利きの人間によくあることです。そして、薬草で私の手当てをしてくれた際、あなたの利き手も左だった。そして、今し方……その細身剣もまた、左手に握られていた」
クリフォードは手当てをして貰った掌を、ひらりと示してみせる。
「ここまでして試すからには、それ相応の訳があったのでしょう?」
先程より一段軽い青年の声に、彼女は安堵したように胸を撫で下ろす。暫し視線を彷徨わせたが、やがて、語りはじめた。
「……父上は……先代リムリック公爵は、一年前、側近によって毒殺されました。
父上の側近だった男は、オーティ公国に通じていたのです。調べたところ、他にも幾人もの騎士が、他国の密偵と通じ我が国を狙っていたことを知りました。
私は絶望しました。何を信じればいいか、……わからなくなった」
徐々に、か細くなる声。もういい、というように、クリフォードは背中を優しくたたき、制する。
「それで、信に足る『まことの騎士』を捜し求めた――というわけですか。
自由騎士ギルドに現れた甲冑の騎士も、あなただったのですね?」
青年のそれは質問というより、確認という物言いだった。案の定、はい、と彼女は首肯する。
「しかしここには、私以外にも多くの騎士が足を運んでいたはずですが……」
「――全員、この手で首を刎ねました」
はっきりと、麗人はそう告げる。強い決意の色を秘めながらも、しかし何処か虚ろなその瞳に、クリフォードは胸がずきりと痛んだ。
そうまでしなければならなかった、この美しい男装の麗人が背負う運命の重さに思いを馳せる。クリフォードは見かねて、僅かに震える肩をそっと抱きすくめた。腕の中に収めると、その肩の小ささに驚く。
――この双肩に、国ひとつを背負っているのか。
「あの、……クリフォード……?」
「申し訳ありません。その、辛いことを……思い出させてしまって」
いいえ、と、腕の中で首をふるふると横にする彼女。そして、
「もう少し……このままでいて、ください」
ぽそぽそと小声で呟くと、頭をすぼめた。その仕種が愛らしく、思わずクリフォードは微笑んでしまう。
「え、あ……あなたが、そう望まれるなら。
ええと――公爵、とお呼びしたほうが宜しいでしょうか?」
「いいえ。幾らなんでも、こんなときにジェフリーはないでしょう?母上が呼んでくださったように、……ジェシィ、と呼んでください。
――いまは」
はにかむように表情を崩し、そっと、寄り添うジェシィ。
「……でっ……では、ジェシィ様」
胸にもたれかかってきた彼女に内心ぎょっとして、鼓動と共に声も跳ね上がる。しかし、動揺を必死で押し隠そうと、抑えた声でその名前を呼んだ。
「クリフォード。私はあなたを欺き続けていました。でも……
私の心にいるかたが、あなただと言ったのは――ほんとうです」
ジェシィは顎を上げ、そっ、と唇を寄せる。まるで、接吻を求めるように……。
「あ、……ジェシィ……さま、…………」
喉が、からからに渇いていた。予期せぬ甘い誘いに、クリフォードは今度こそ、限界を強く感じる。連夜の誘惑に辛うじて耐えきった年頃の男に対し、それはあまりにも、あまりにも――
「ジェシィ、さま――っ」
「ところでクリフォード。私も、疑問に思ったことがあるのですが」
ぴたり。
抱き寄せようとした腕は、何かを思い出したような彼女のひとことに無情にも停止させられる。クリフォードは奇しくも、お預けを食った格好となった。
「え……は、はいっ?なん……でしょうか」
「あなたは恩賞に、何を求めるつもりでいたのですか?」
首を傾げるジェシィ。クリフォードの全身から、冷や汗が噴き出す。
「そ、それは、……その、」
彼が恩賞に求めるつもりだったもの。それは、公爵夫人エスメラルダだった。しかし真実を知った今、彼女こそが公爵本人だと知った今――それを口にすることは叶わなかった。
「……か、考えて……おりません、でした」
目一杯嘘を吐く。彼女はさして気にした様子もなく、そう、と短い相槌を打つのみだった。
「ねぇ、クリフォード。その恩賞ですけれど……
『私』でも――構わないのですよ?」
「えっ!な、お、お戯れを……」
後悔、という文字が、大きく彼の背中を押しつぶす。しかし続く言葉に、盛大に突っ伏した。
「ええ、冗談です」
嘘ではありませんけれど――、と添えた呟きは、幸か不幸か、クリフォードの耳に届くことはなかった。
巧い具合に唇付けるタイミングを逸した彼は、ちらとジェシィの唇を盗み見る。甘い口説き文句のひとつも知らない彼には、どうすればいいか皆目見当がつかなかった。
「……ふふっ」
くい、と青年の袖を引っ張り、ジェシィはねだるように唇を指で示す。示されるまま白く細い指を追い、クリフォードの視線はそのまま、鮮やかな唇に吸い寄せられた。
もうダメだ、そう思った。そして、卑怯だ、とも。
「…………よ、良いの……ですか……?」
なんとか声を搾り出す。
はい――とかたちの良い唇が返すのを目の当たりにし、クリフォードの中で抑えていたものが途端溢れ出す。ごくりと鳴った喉。よもや音を聞かれてはいないだろうかと、内心焦りを覚える。
花のつぼみを摘むように、柔な唇を傷つけぬように。逸る心を制して、そっと距離を詰める。
決闘のときより数段――いや、比べようもないほど、慎重に。
「あなたを……想っていました。館でひと目見たときより、ずっと――」
静寂の中、ふたつのシルエットがかさなる。
森の木々が、祝福の調べを穏やかに奏でていた――
かくして、騎士クリフォードはリムリック公国太守ジェフリーの側近となる。
仇敵オーティ公国を退けたジェフリー公爵とその騎士。しかしリムリック公国は一族の者に託され、ふたりは歴史からも人々の前からも、忽然と姿を消したという。その後、ジェフリー公爵と側近クリフォードの消息はどの記録にも残されていない。
ほぼ同時期。イングランドに亡命した、若い夫婦がいた。働き者の夫は畑を耕し、妻は美しい歌声とフィドルの音色で村人の人気者となったという。
ご覧いただきありがとうございました。
執筆時、18禁にするか否かで悩んだりもしたとかしなかったとか。
ラストけ変えた18禁varを書く可能性も、そのうちなきにしろあらず……です。
もし「いやそこは書こうよ」って方がいたらこっそりと(笑)。