「あなたがどこに向かうかを決めるのは、あなたがどこに立っているかを知ることから始まる。」
時刻6時30分
鈴の音のアラームが部屋に響き瑠衣那は目を覚ました。ボサボサになった髪をまとめながらベッドから起き上がる。まずは意識をハッキリさせるために洗面所に行き顔を洗う。目が覚めたらパソコンの前に向かう。隣にはここ数日駆け回って集めた資料が山積みになっている。パソコンを開いて今日の予定を確認する。朝からカウンセリングの予定が詰め込まれていた。この予定をこなしながら資料集めるのは正直キツかった。
研究チームの顔合わせから数日が経過していた。次に集まるのは1週間後、それまでにできるだけ多くの情報を集めておきたい。やっとの思いでここまで辿り着くことができたんだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。
大きく深呼吸をして自分を鼓舞する。よし、今日も気合い入れて頑張っていこう。
瑠衣那は身支度を整え家を出た。
1人目のクライエントは秋山恵20代の女性。
瑠衣那は準備のためにカウンセリングルームに入る。
壁は白ではなく、灰みがかったオリーブ色。それはまるで、外界との距離をやわらかく遮り、心の深みへ降りていく準備をさせるような色だった。
窓は大きく、重厚なカーテンが引かれているが、昼は半分ほど開けられ、自然光が静かに床を照らしていた。ガラス越しに見えるのは、小さな庭。そこには一本のオリーブの木が立っており、風が吹くとその影がゆらりと室内に差し込んだ。
持っている荷物を置いて椅子にもたれかかる。資料を読み直しクライエントの前回のカウンセリングを思い出す。夢、象徴、言葉を振り返る。ふと時間を確認すると予定の15分前になった。一度体を起こし照明を消しに行く。その後香焚いて再び椅子に腰を下ろした。目を閉じ瞑想をして、心の中で自分に囁く。
(私は導くものではない、共に歩むものだ。)
目の裏に夢が映る。
白い衣を着た子どもが、深い井戸の底からこちらを見上げていた夢。
言葉はなかった。ただ、まっすぐに目を見つめられていた。
ふいに、胸の奥がふっと静まった。
思考のざわめきが消え、内なる水面に波紋ひとつない沈黙が訪れた。
ドアの外に、気配がした。
来談者が到着したのだ。
彼女は深く一度息を吸い、音のしないように吐き出した。
心の準備は整った。
ドアがノックされた。
ノックは小さく2つ、瑠衣那は立ち上がりドアを開く。
そこに立っていたのは秋山恵。肩までの長い髪が風に少し乱れている。
秋山恵は俯き入室した。挨拶をすることもなく椅子にもたれかかった。
「今日も来てくれてありがとう。あの夢のことは覚えてる?」
小さく頷きメモを1枚差し出した。
瑠衣那はメモを静かに受け取ると、その文字を目でなぞった。
音のない劇場
舞台に乗る私
無表情の観客
簡潔で、けれど強い緊張をはらんだ言葉たち。
それはまるで、長く閉じていた心の扉の隙間から、初めて風が吹き込んだかのようだった。
「……夢の中のあなたは、どんな気持ちだった?」
恵はうつむいたまま答えなかった。
けれど、その肩がほんのわずかに震えた。
瑠衣那は問いを重ねなかった。
むしろ、その沈黙そのものに向き合うように、語気を落とし、メモを指先でなぞった。
「音のない劇場……観客がいて、あなたは舞台にいる。けれど、誰も何も言わない。あなたも、声が出せなかった?」
恵は、ほんの少しだけ顔を上げ、今にもかき消えそうな声で「……うん」とつぶやいた。
それは、初めて彼女が発した“言葉”だった。
(声が……出た)
瑠衣那の胸に、ほんの一瞬、波が走った。
それは表情には出さず、ただ静かに息を整えた。
「舞台の上から、観客が見えていた? どんなふうに見えたのかな」
「……全部、白かった。顔も……見えなくて」
恵の声はかすれていたが、どこかで絞り出すような、意志の線が感じられた。
「全部白い……表情のない観客たち。まるで……あなたが見られているのに、誰にも見てもらえていないような……」
言いかけて、瑠衣那はふと口をつぐむ。
解釈ではなく、共に感じること。
瑠衣那はカウンセリングノートの横にあった白紙の紙と色鉛筆を取り、恵の前にそっと差し出した。
「……もしよかったら、その夢を描いてみる? 言葉にできなくても、描いたら、何か伝わるかもしれない」
恵は数秒、じっと紙を見ていた。
その後、おそるおそる鉛筆に手を伸ばした。
選んだのは、灰色と赤、そして淡い青だった。
鉛筆の音が、静かに部屋に響く。
その音が、どこか音楽のようにも聞こえた。
言葉を持たない夢が、彼女の手を通して、形を持ちはじめていた。
瑠衣那は静かに目を伏せ、心の奥にある夢をもう一度呼び起こした。
――井戸の底から、白い衣の子どもが見上げていた夢。
深いところで、何かがつながり始めている。
それはまだ、言葉にはならない。
けれど確かに、声の種は芽吹いていた。
<音のない劇場、舞台に乗る私、無表情の観客>
その短い文は、まるで心の奥に降り積もった静けさを映す鏡のようだった。
「…あなたは、その舞台の上で何をしていたの?」
瑠衣那は静かに問いかける。恵は視線を宙にさまよわせ、やがてぽつりと口を開いた。
「立ってるだけ。何も話さないし、動かない。…でも、何かを期待されている気がした。観客たちは、まばたきもせずに私を見てて…。怖くはないんです。ただ、逃げられない感じ。」
「逃げられない感じ…」
瑠衣那はその言葉を反復する。そして思い出す、前回のセッション。言葉に詰まり、何度も言い直しては黙り込んだ恵の姿。まるで舞台の上に立たされ、何かを期待されているのに、それに応える術を失っているようだった。
「恵さん、この夢は…あなたが日常で感じている、ある種の“無言の圧力”を象徴しているかもしれません。誰かに見られている。何かを演じなきゃいけない。でも、その役がわからない。そんな感じ、ありませんか?」
恵のまぶたがわずかに震えた。
「…あります。」
その声は、地下水脈からこぼれたしずくのように、かすかで、それでいて確かな感情を含んでいた。
「仕事ですか?それとも、家庭?」
瑠衣那が尋ねると、恵は少しの間、沈黙したあと、口元に触れながら答えた。
「どちらも…でも、たぶん、もっと昔からです。小さい頃から、親の期待が強くて…。良い子でいなきゃいけないって、ずっと思ってました。失望させたくないって。でも、何を期待されてるか…わからないんです。」
その言葉に、瑠衣那の心が震えた。
("象徴は過去からの手紙"だ。)
「その舞台は、きっと子どもの頃からずっと続いているんですね。」
「……はい。」
恵はそう言って、初めて瑠衣那の目をまっすぐ見つめた。その瞳は揺れていたが、どこか決意のようなものが見えた。
「今日は、その劇場の幕を少しだけ下ろしてみましょうか。誰にも見られていないとしたら、あなたは何をしたいと思いますか?」
恵は深く息を吸った。言葉はすぐには出なかったが、その沈黙には意味があった。
–––
–––
「…先生今日はありがとうございました。私、先生のカウンセリングを受けてから少しずつ良くなってる気がします。」
恵はカウンセリング前の虚無な顔に比べて、活気があった。
「こちらこそありがとう。できれば次回来るときは、今回と同じように夢についてメモをしていてほしいな。」
「わかりました。」
そう言うと、恵は扉を開きカウンセリングルームを後にした。
瑠衣那のもとに来る人は、様々な薬物療法や心理療法を行い、そのどれも効果がなく手詰まりになっていることがほとんどだった。
そんな人達の助けになれてることはとても喜ばしい。
だか、瑠衣那がカウンセリングしたクライエントは一定の回復が見込めたが、それ以上に至ることはなかった。
瑠衣那は部屋に戻りノートとメモを見直す。
<音のない劇場、舞台に乗る私、無表情の観客>
一人になった部屋で彼女と同じ夢に入る。
その劇場は色鮮やかだった。
スポットライトは自分に向けられており、観客もこちらを見ている。しかし、何もできない。
声を出すこともできない、手を振ってみるも観客は無表情でただ座っている。
こんな華やかな舞台の上に立っているのに、処刑台の上にいるような気分になる。
今にでもギロチンが落ちてきて、首が落とされるようだった。
苦しくなり夢から醒めようとしたとき観客に白い衣の子どもがいたのが見えた。
近づいてみようとしたが、すでに夢から醒めていた。
体がすごい重い、頭も二日酔いの時みたいに痛い。
(あと2人も残ってるのに)
体力を過剰に使ったことを後悔するのと同時に己の無力さに萎えていた。
「……………」
「るいなちゃんならもっとたくさんの人をたすけられるよ、だってるいなちゃんはすごいがんばり屋さんだから、」
瑠衣那の生きるためのの原動力とも言える何年も前の記憶。
無邪気な子どもの何気なく放ったその言葉は、今でも瑠衣那を支える柱となっている。
重い体を持ち上げる。
しかし足取りは軽く、その顔にすでに迷いはなかった。
スマホの電源を付けてお気に入りの曲を流し、次のカウンセリングの準備を始める。
沈黙症状群の解明と治療の道のりは険しく果てしない時間がかかることは分かっていた。きっと10年、20年、それ以上必要かもしれない。
ただ、1つ言える事がある。私達はこの闘いのスタートラインに立つことができたのだと。ならば、後は走り切るだけだ。
瑠衣那は千里以上離れたゴールに向けて走り出した。
夢を持つことは大切です。
目標に向かって進むことも素晴らしいことです。
でも――
あなたが「どこへ向かうか」を本当に決めるためには、
まず「あなたが今、どこに立っているのか」を知らなくてはなりません。
なぜなら、地図を持っていても、現在地がわからなければ目的地にはたどり着けないからです。
人生も同じです。
理想を追う前に、
成功を焦る前に、
まずは立ち止まって、自分自身に問いかけてみてください。
「現在地を知る」ことは、決して後ろ向きではありません。
むしろそれは、未来へと進むための最も前向きな一歩です。
迷っているなら、まず立ち止まってください。
苦しんでいるなら、その場を見つめてください。
あなたがどんな場所に立っていようとも、
そこから、未来は始められるのです。
個人的には出来が良くない。あまり納得はいってない。