「二人は一人よりも良い。苦労の報いが良いからだ。倒れるとき、もう一人が起こしてくれる。」
東京・国際学術コンベンションセンター
時刻は17:00残されたテーマは《非定型精神症状の社会的再検討》。ハーバード大学から推薦を受け留学をし”黎明の頭脳”と呼ばれた、あの天城慧悟が共同監修をしているということで今回の学術会の目玉の一つになっていた。
控室の椅子に腰掛けながら、瑠衣那は深く呼吸を整えていた。
背後には白衣姿の慧悟。資料を手に取りながら、何も言わずに彼女を見ていた。
「さて、どんな結果になるか楽しみだね。」
「……。」
「こういう時は、緊張をほぐすために声をかけるもんじゃないの~?」
慧悟は相変わらず沈黙を保っていた。
瑠衣那は微笑み、立ち上がった。
「行ってくる。見ててね。」
慧悟の返事を聞く前に、その場を出た。
壇上に立つと、照明が彼女の全身を照らした。
マイクの前に立ったその瞬間、瑠衣那の表情からは笑顔が消えていた。
彼女は、話し始めた。
「皆さま、はじめまして。榊原瑠衣那と申します。」
静かに、だが明瞭に。静まり返ったホールの奥にまで届く声だった。
「本日私が提示する仮説は、既存の精神疾患分類に対する批判でも、単なる印象論でもありません。
この社会にすでに存在している“声なき症状”に、ひとつの形を与える試みです。」
スクリーンに投影されたスライドには、以下の単語が順に映し出された。
「感情の平坦化」
「空虚感」
「対人応答の鈍麻」
「自己の喪失感」
「希望の消失」
「これらはすべて、既存の疾患分類に当てはめることができます。
うつ病、統合失調症、自閉スペクトラム、パーソナリティ障害、解離性障害……」
彼女は一歩、前へ出る。
「ですが、私は問い直したいのです。
これらの“沈黙”のような症状は、果たして全て、異なる根から生じたものなのでしょうか?」
沈黙が、ホールに落ちる。
彼女はそれを恐れず、むしろ利用するように、次の言葉を重ねた。
「今、社会には“分類されていない苦しみ”が溢れています。
診断名が付かない。薬も処方されない。だが、確かに存在する。
それらを私は仮に“沈黙症状群”と呼びました。」
スクリーンが切り替わり、世界各国のSNS上で収集された「言語化されない不調」を訴える投稿が映し出される。
「目が覚めても、誰とも話したくない」
「ただ何も感じないだけ。怒る力すらない」
「誰かに助けてほしい。でも助けてって言う言葉が浮かばない」
一瞬、ホールの空気が変わる。
聴衆の一部が、わずかに息をのんだのが見えた。
「私の仮説が、今すぐ診断基準に採用されることはありません。
それでも――私は“問い”をここに置きたいのです。」
スライドの最後に映し出された文字は、たった一言だった。
「"見えない声に、形を"」
「ありがとうございます。」
拍手は、まばらだった。
いや、正確には、空気を読むように「形だけ」行われたものだった。
真に称賛の意味を込めた拍手は――ほとんどなかった。
演説が終わるや否や、ホール後方の座席で、若い神経精神科医の一人が小声で笑った。
その表情には、同情も敬意もなく、あるのは哀れみのような優越感。
「感情の平坦化、空虚感、鈍麻? そんなの、DSM-5の中に掃いて捨てるほどある。
それ言い出したら、全部トラウマ性ストレスで片づける奴と同じじゃないか。」
「科学というより詩だな。」
「天城慧悟の名前があったから期待してたが正直
ガッカリだ。」
数人の失笑が交錯する。
その笑いは鋭利で、容赦がなかった。
別のブロック。大手大学の臨床心理学系の教授陣が集まっていた一角では、会話がさらに冷ややかだった。
「なんとも感情的なプレゼンだったね。」
「“沈黙”という言葉に、勝手な意味を詰め込みすぎている。」
「共感はするけど、科学的厳密性にはまったく足りていない。」
「やっぱり、女の演説は駄目だな。」
「彼女は学者より詩人の方が向いていそうだな。」
一人が皮肉めいてそう言うと、周囲に小さな笑いが起きた。
だが、瑠衣那はまるで勝利の余韻に浸っている表情している。
「ありがとうございました。」
もう一度お礼を言うと彼女は壇上を降りた。
控室に戻る時、1人の女性が周りの空気も読まずに席を立ち瑠衣那に対して全力で拍手しているのが見えた。
「ちょっと変だったけど、素晴らしい演説だったよ! あたしは大好きだよ!」
感情を抑えきれない様子で瑠衣那に声をかけている。
「早矢、空気を読んでください、悪目立ちしてます。」
スーツに一糸の乱れもない青年が早矢と呼ばれる女性をなだめようとしている。
早矢に続いて数人が拍手した。
「瑠衣那、あんたは本当にすごいよ。はぁ~久々に絵を描きたくなってきた、またあんたを描いてみようか…」
この場に似合わないヨレヨレのスーツにぼさぼさの髪をした青年が寝ぼけながら呟いた。
「バカみたい。さっきの演説のどこに褒める点があるのよ。」
席を立ち出口に向かって行く女性は背が低く、まるで少女のような風貌だが、言葉にはトゲがあった。
「…でも、兄さんなら…」
彼女は逃げるよに会場を出た。
「あの女やめておけってあれほど言ったの。またこんな事してやがる。」
女性とは思えないほどの背丈と体格をした。女性が足を組みながら怒りに震えている。
「どいつもこいつもあの女の演説で一つで騒ぎすぎだ。我々を見習うべきだな。呆れてしまいますよね。蒼都先生?」
「そうだな。」
蒼都先生と呼ばれていた男は助手の言葉を聞くなり、会場を後にした。
会場を混沌とかした。演説に対して怒る者、哀れみ優越感に浸るもの、自分の理論がいかに良いかと熱弁している。
控室に戻って来た瑠衣那はモニター越しに会場を見ている慧悟に駆け寄った。
「どうだった演説は? 貴方の仮説は証明されたんじゃない?」
慧吾は今日始めて瑠衣那と目を合わせた。
〜演説の3日前〜
修正された演説の台本を見た瑠衣那は慧悟に言った。「台本の内容全然変わってないけど、もしかして諦めちゃった?」
「……文法ミスを直したはずだが…。」
「そういう事じゃない!」
「………俺は1つの仮説を立ててる……
初めて会った時、俺は君の手を取った。違和感を感じた、…君の仮説はお世辞にも支持できるものではない、それでも俺は信じたい思った。あの時、論理じゃ説明のできない何かがあったんだ。」
瑠衣那は黙って話しを聞いている。
「君は全人類は病に侵されていると。ならば俺も君もその病に感染しているはずだ。だが俺はまだしも、君には該当する症状がない。」
「結局は何が言いたいの?」
「"沈黙症候群"が人の心を無くすものだとすれば、君には心がある。それだけではない君の発する言葉には閉ざされた心に再び火を灯す力があると俺は考えた。」
瑠衣那はキョトンとした顔をしている。散々自分の理論をスピリチュアル的だと否定してきた慧吾が滅茶苦茶な仮説を立ててきたのだ。
「この仮説を完璧に証明することは不可能だが、仮説を信じるなら無理に論理で押し通すより、できるだけ相手の心に訴える演説のほうが良いと考えたんだ。」
慧吾は続けた。
「……君がもっと論理的に演説したいなら台本を書き直すが…」
「私このまま行く、貴方の仮説の証明にもなるし、なにより私のために考えてくれたことがうれしいから。」
控室に戻ってきた瑠衣那に対して
「……君の言葉は、彼らの“理性”には届かなかったようだ。」
その声は、決して冷笑でも皮肉でもなかった。ただ、観察者としての率直な述懐だった。
「でも、届いたよ。"心"には。」
「……そうだな。素晴らしい演説だったよ。」
慧悟褒められた嬉しさから笑みを抑えきれず歓喜に包まれている。
歓喜に浸っていると突然電話が鳴りだした。
「お!さっそく来た! 電話行ってきます。」
部屋を出た瑠衣那と入れ違いで部屋に一人の青年が入って来た。
彼は慧吾に
「天城先生。本当にあの女の研究に参加するのですか?」
「……ああ、参加する。」
「僕は、良い選択とは思えません。」
慧吾の答えに対して青年はとても不服そうに言う。
「……俺の意見に反対するなんて維真にしては珍しいな。」
「当たり前です。先生は多くの人を救う力を持っています。日本だけではないです。世界の至る所に先生の助けを持っている人がいます。こんな事に時間を使うなんてあっていいわけありません。」
維真は説得するが慧吾は一切表情を変えない。
これ以上説得はしませんが、僕は認めませんよと言わんばかりの不満そうな顔をしている。
「…なら維真、お前も研究に参加してみたらどうだ。」
「はい?」
「お前が慕う俺が認めた女がどれほどのモノか見てみるといい、それにお前のような優秀な人材は幾らいても良い。」
「は〜、考えておきます。」
維真は足早に部屋を出た。
また入れ違いで瑠衣那が入ってきた。
満面の笑みで
「研究に参加してくれる人からの電話だったよ。ちなみにさっきの子は誰?」
「…俺の後輩だ。 それより良かったな、頑張った甲斐があったな。」
瑠衣那が資料の束を手に取りながら、慧悟に向き直った。
「これから、忙しくなるよ。やること山ほどあるから。」
慧悟は頷き、いつもの静かな声で答えた。
「…まずは、沈黙の声を集めるところからだな。」
「うん。世界中の、まだ名前を持たない痛みを。」
君は知っているのだろう"沈黙"は「語らないこと」ではなく、「沈黙は最も強い叫びである。」ことを。
人は一人でも生きていける――
そう思いたい時もあります。
強く、たくましく、誰の助けも借りず、自分だけの力で歩むことが、誇りだと信じたい時もあるでしょう。
けれど人生には、必ず「倒れそうになる瞬間」が訪れます。
心が折れそうなとき、進む意味を見失いそうなとき。
そんな時、傍に誰かがいること――それは何にも代えがたい力です。
「二人は一人よりも良い。」
それは、ただ人数が多いからという意味ではありません。
「もう一人がいる」ということが、希望になる。支えになる。
一人では重すぎる荷物も、誰かとなら分け合える。
自分が立ち上がれないとき、誰かが手を差し伸べてくれる。
そして逆に、あなたもまた誰かの手となり、心となれるのです。
人と共に歩むことは、弱さではありません。
それは、人としての自然なあり方であり、互いに「補い合い」「高め合う」生き方です。