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警察の動き:その①

時計の針は深夜0時を回り、日付が変わっても、慎は帰ってこない。昼過ぎに麗奈のアパートへ差し入れを持って出かけてから十時間以上。あの慎が、断りもなくこれほど長い時間姿を消すなど、今まで無かった事だ。


慎が帰ってこないと連絡を受け、血の気の引いた表情で施設に駆けつけた麗奈は、真田と共に何度も慎のスマートフォンに発信を繰り返していた。しかし、「電波の届かない場所にあるか……」というアナウンスだけが聞こえる。


「家出なんて、あの慎君に限って絶対にあり得ません。そんな無責任なことをする子じゃないわ。……何か、トラブルに巻き込まれたんじゃ……」


麗奈の指先は小刻みに震えていた。3月のあの「見合い騒動」において、彼がどれほど危険な綱渡りをして自分を救い出したか。その代償として、今度は彼が闇に飲み込まれたのではないか。ようやく手に入れた平穏が、足元から音を立てて崩落していく恐怖が、彼女の全身を支配した。


その時、リビングの隅で大人たちの殺伐とした焦燥を敏感に察知したのか、茜が、トタトタと心細げな足音を立てて麗奈の元へ駆け寄ってきた。


「お姉ちゃん……兄ちゃん、まだかえってこないの? どこにいったの?」


茜の大きな瞳には、不安が涙となって溜まっていた。小さな手で麗奈のスカートを掴んで縋り付いてくる。


「……大丈夫よ、茜ちゃん。大丈夫。ちゃんとお兄ちゃんは帰ってくるから、大丈夫よ……」


麗奈は茜を優しく抱き上げると、真田に通報を促した。


「真田さん。警察へ連絡しましょう。……迷っている時間はありません。きっと、一刻を争います」


――――――


数十分後、◎◎◎警察署の生活安全課相談室に真田達はいた。


「久遠君が……帰ってこないですって?」


真っ先に声を上げたのは、生活安全課の安藤留美子巡査部長で、横に立つ篠崎刑事は、苦虫を噛み潰したような渋い表情で腕を組んだ。彼らは、慎が六歳の頃に実母を法で断罪し、中学時代にはいじめ問題の隠蔽を企んだ学校組織を解体してみせた、あの異常なまでの完成度を知る「証人」だ。


「連絡を完全に絶って十時間以上か……」


篠崎は、刑事としての磨き抜かれた直感が警告を告げていた。3月末、隣接する△△△署管内で発生した、あの今川秀朗による卑劣な企み。慎が探偵を動かしてそれを突き止めたことは公文書には一字も残されていないが、現場を共にした刑事たちの間では、公然の秘密だ。


(嫌な予感がする。タイミングが怪しいな…今川の件の報復、あるいはその背後に蠢く組織の動き……。これは単なる行方不明じゃない。事件性が極めて高いかもしれん……)


焦る篠崎や安藤達とは逆に、相談室の入り口付近で事の成り行きを静観していた当直の当番長や、慎という少年を直接は知らない若手署員たちの反応は、型通りで冷淡なものだった。


「篠崎さん、感情的になるのは分かりますが……。相手はまだ十七歳の、血気盛んな男子高校生ですよ? 折しも夏休み、解放感に当てられて羽を伸ばしたり、友人宅で連絡もせず泊まり込んだりといったケースもあるし…」


「家出人捜索願いを受理するのはともかく、特異行方不明者として即座に非常線を張り、全力を投入する根拠としては、いかんせん客観的状況が弱すぎます」


「そうですよ。事件に巻き込まれたという『動かぬ証拠』が必要なんです。誘拐犯からの身代金要求とかがない以上、我々が組織として即応体制を敷くには、民事不介入の原則や、他の事件との優先順位という壁がある。まずは明日の朝まで様子を見るのが手順です」


「成人に近い男子」の失踪は、生命の危険が物理的に明白でない限り「自発的失踪」として処理されるのが常だ。ただ「帰りが遅い」という一点だけでは、警察を回すためのエネルギーが、決定的に不足していた。安藤は心の中で叫び、苦悩する。


(あの子は、あなたたちが思うような普通の高校生じゃない……。自分に降りかかる危険を瞬時に察知し、自力で対処できる、そんな子が長時間も連絡を絶っていること自体が、『異常事態』なのよ……!)


篠崎も、ギリリと奥歯を噛み締めた。このまま形式上の処理に甘んじていれば、防犯カメラのチェックはおろか、付近へのパトロール強化すら明日以降に回されてしまう。それこそが、犯人たちが最も望む「空白の時間」なのだ。


その、絶望的な焦燥に満ちた空気の中で、ずっと沈黙を守っていた真田が、静かに、しかし断腸の思いで、慎の意志を裏切る覚悟を固めた。

彼は震える声で口を開く。


「……分かりました。警察が慎を探さなければならない『正当な理由』を、今ここで出します」


「えっ?」


「『理由』? 一体、何を……」


真田は、ある重要な事実を彼らに告げた。


「久遠慎は……現在、一個人で『十億円』という莫大な現金資産を保有しています」


「……へ?」


「い、今、なんて……?」


「もう一度言います。久遠慎は、一個人で十億の資産を保有しています。宝くじの一等に当選したんです。その当選証明書の写しも、施設で厳重に管理している通帳のコピーも、必要なら今すぐこの場に持参させます!!」


一瞬、相談室の時が、そして署内のすべての喧騒が、凍りついたように停止した。


「……じゅう、おく?」


若手署員が、あまりの非現実的な数字に呆けたように聞き返す。当番長の眼鏡が鼻先までずり落ち、篠崎と安藤も、まるで雷に打たれた石像のように固まった。篠崎が、戦慄を帯びた表情で問う。


「宝くじで一等……十億……。久遠君が……彼が、本当に、それだけの金を!?」


「事実です!何度も言いますが、彼は十億円という莫大な富を保持しています!!」


「……っ!!」


安藤は目を丸くして、真田の言葉を聞く。


「……この事実を公にするのは、彼の平穏を壊すことになり、私としても本意ではありません。しかし、これほどの巨額資産を持つ未成年の行方が、何の前触れもなく途絶えた。これが何を意味するか、法執行機関の方々なら、嫌というほどご理解いただける筈です!!」


真田の、絞り出すようなこの言葉が引き金となった。相談室は、文字通りの「爆発」を起こした。


「嘘だろ!? そんな馬鹿なことが……!!」


「十億!? 冗談じゃないぞ、そんな額、県警本部の予算が吹き飛ぶレベルだ!」


「これは……これはただの家出じゃない!!」


当番長の顔面が、瞬時に土気色へと変わった。警察庁の通達、刑事訴訟法、そして「特異行方不明者」の認定基準。それらすべてが、署員たちの脳内で轟音を立てて書き換えられていく。


「十億円」という天文学的な金額は、一個人の失踪という枠組みを、「国家レベルの経済事件」や「重大組織犯罪」の予兆へと一気に跳ね上げる。もし、警察が「夏休みの遊びだろう」と放置している間に、十億を狙った犯行によって被害者に一指しでも触れられるようなことがあれば、◎◎◎署の首脳陣どころか、県警本部、果ては警察庁の威信までもが根底から瓦解し、関係者の首が文字通り飛ぶことになる。


「すぐに生活安全課長と刑事課長を叩き起こせ! 署長にも連絡だ! 本部にも緊急連絡、広域捜査の展開を要請しろ! ヘリの待機要請、周辺警察署への緊急手配も同時進行だ!」


当番長の怒号が飛ぶ。


「久遠慎君の銀行口座、および関連する全ての資産の凍結準備! いや、まずは金融機関に緊急照会だ! 不審な引き出しや動きが一点でもないか確認しろ!」


「現場周辺、およびアパートから施設までの防犯カメラ、一分一秒の漏れもなく全て回収しろ! 応援を呼べ、非番の者も全員召集!!」


さっきまで「優先順位が……」と渋っていた署員たちが、顔面蒼白で電話に飛びつき、資料を撒き散らして走り回る。大パニックに陥った署内は、真夜中の静寂を完全に打ち砕き、戦場のような喧騒に包み込まれた。


その異様な光景を、施設の職員である山岡が呆然と見つめていた。


「十億って……やっぱり、途轍もない力なんだな……。たった一言で、全員が青い顔して必死になってる。……って、感心してる場合じゃないか」


山岡は、あまりにも分かりやすい「権力と金の力」が大人を突き動かす現実に乾いた笑いを漏らしそうになったが、すぐに表情を正した。


「篠崎さん、安藤さん! 改めて、心からお願いします。あの子を……慎君を、絶対に助けてやってください!」


山岡が深く頭を下げた。


篠崎は、パニックに陥る部下たちを怒鳴りつけ、交通課のバイク隊に指令を飛ばしながら、視線を交わした。


「ああ、分かっている。十億あろうがなかろうが、あの子は絶対に助けなければならん」


篠崎は、使い古された警察手帳をポケットに荒々しく叩き込み、鋭い眼光でモニターを睨みつけた。

長い戦いが始まる。

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