表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

91/139

慎の心境

4月の夜、施設の一室。消灯時間を過ぎた静寂の中で、慎は洗面台の鏡に映る自分の顔を無愛想に見つめていた。


十七歳の、どこにでもいそうな——しかし、その瞳の奥に老練な戦士の光を宿した少年の顔。慎はこの顔と付き合って、もう十年以上になる。成長とともに顎のラインは鋭くなり、かつての子供らしい丸みは完全に消え去った。だが、それは別に大した事では無い。


「……妙なことになったな」


蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。手のひらに伝わる水の冷たさは、ここが現実であることを証明していた。


最初は、ただの好奇心に近かった。

前世でテロリスト・トロイと相打ちになり、命を散らした先で手に入れた二度目の生。中学で出会った桜田健次郎から、「この世界は創作物が基になっており、特定のヒロインが悲惨な末路を辿る」という舞台裏を聞かされた。


『佳山麗奈』。

本来なら、周囲の悪意に翻弄され、尊厳をズタズタに引き裂かれて奈落へ落ちるはずだった女。

慎がこの学校を選び、彼女のクラスに入ったのは、単なる人助けの延長だった。不条理なシナリオを叩き潰す事で織田川芳子を排除し、進藤という害虫を駆除した。他の悪を担う筈の役者達はシナリオが崩れた影響なのか遠くへ去り、それで自分の役目は終わるはずだった。淡々と任務をこなし、平穏なモブとして残りの人生を消化する。それが最適解だっただろう。


しかし、健次郎の語った「物語」の知識は、あくまで骨組みに過ぎなかった。

肉付けされ、体温を帯びた「現実」の佳山麗奈は、文字データよりもずっと脆く真っ直ぐだった。

慎は顔を拭い、タオルを肩にかけた。鏡の中の自分が、少しだけ冷めた目で見返してくる。


「……婚約、か」


指先で鏡をなぞる。

救う対象でしかなかったはずの麗奈は、今や慎に頬を染め、慎の身体にしがみついて眠る(酒が入ると)様な女性になった。


佳山麗奈は、とても善良な人間だ。

教え子のために涙を流し、家族と訣別しても、前を向こうと足掻く。もし前世で自分が読者としての立場で彼女の悲劇を読まされていたなら、間違いなく「胸糞が悪い」と吐き捨て、低評価をしていた事だろう。そんな理不尽な不幸が、今の彼女にはない。現在は自らの意志で慎の手を取り、共に生きることを選んでいる。


自分が書き換えた結果であり、そして自分達で選んだ結果だ。

慎は自分の掌を見つめた。前世で数え切れないほどの引き金を引き、ナイフを振るってきたこの手は、今では麗奈の震える手を握り、茜の小さな頭を撫でるためにある。血の汚れは少なくとも今世のこの手には無い。


前世の自分には、守るべき家族も、帰るべき場所も、未来を誓う相手もいなかった。硝煙と血の匂いが、自分の唯一の証明だった。そんな寂しい前世を過ごした自分が、今、人としての「当たり前の幸福」を手に入れようととしている。


「……なぁ、『慎』」


鏡の中にいる、自分と融合した「久遠慎」という少年の魂に語りかける。

六歳の時、自らの手で虐待母の久遠杏子を法的に葬り去ったあの時から、この人生は始まった。あの時、泣き喚く母親を背を向けた孤独な少年が、今の自分の姿を想像できただろうか。


「お前と一緒になって十年以上経ったが、本当に妙なことになったよな。担任の教師と婚約なんて、前世で生きていた頃の俺が聞いたら椅子から転げ落ちるだろうよ。おまけに宝くじで十億なんて、どんな三流小説のプロットだろうな。まぁ、ここは最低なバッドエンド小説の世界らしいけどよ」


中身は二度目の人生を歩む「掃除屋」であり、外見は運命を狂わせたヒロインの隣に立つ「教え子」。その奇妙なアンバランスさを抱えたまま、慎は少しだけ口角を上げた。


かつては「物語を壊すこと」だけが目的だった。だが、今の慎は、壊した後の瓦礫の上に新しい家を建てようとしているも同然だ。


「……でも、こんな人生も悪くは無いと……俺はそう思える。お前の方は、どう思うだろうな……」


卒業まで、あと一年足らず。

平穏を乱す火種は、どこかで燻っているのかもしれない。だが、今の慎には何が相手でもそれらを叩き潰す理由がある。


かつて守るべきものが何もなかった男は、今、失いたくないものの重みを噛み締めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ