茜のハプニング
4月の新学期が始まって数週間。最高学年となった慎の進路希望調査票には、迷いのない筆致で「就職」の二文字が書き込まれていた。
進学校でもあるこの高校において、成績優秀な慎の選択は教師たちの間でも話題になったが、本人の意志は固かった。大学へは進学せず、卒業後は自分が育った「□□□園」の職員として、あるいは運営を支える役職に就く予定だ。
十億円という莫大な資産を持つ慎にとって、学歴も就職も本来は必要のない「飾り」に過ぎない。一生遊んで暮らすことも、海外で贅沢を極めることも可能だ。しかし、彼は前世で失った「居場所」を今世で与えてくれた施設への恩返しを選んだのだ。
学校での慎と麗奈は、表面上はどこまでも「真面目な教え子」と「信頼を寄せる担任」を演じきっていた。しかし、放課後の準備室や誰もいない廊下で一瞬だけ視線が重なる時、そこには周囲には決して見せない、濃密な信頼の色が混じる。
とはいえ、麗奈にとってこの「卒業までの待機期間」は、想像していた以上にもどかしいものだった。
「……久遠君」
「はい、佳山先生。この資料の整理、終わりましたよ」
放課後の進路指導室で二人きりになっていたのだが…。
麗奈としては、年上の女性として、そして婚約者として、もっと彼に尽くしたい、甘えさせてあげたいという想いがある。こういう時、人目を忍んで保健室や準備室で……という展開が定番なのだろうが、慎はそれを徹底的に避けていた。
この慎の判断は正しいし、優しさもある。だが、隙のない彼の態度に、麗奈は己の「女」としての未熟さを突きつけられるようで、少しだけ寂しげに俯く。
(私……そんなに魅力がないのかしら。これまでは、外見ばかり評価されるのが嫌だったのに。いざ好きな男性にこうも理性的でいられると、本当は私の見た目なんて好みじゃないのかも……なんて思っちゃう。これじゃ本当にどっちが大人か分からないわね……)
麗奈はつい卑屈な事を考えてしまう自分を情けなく思った。
しかし…。
――――――
□□□園…夕食後の談話室。長田をはじめとする女性職員たちが、茶を飲みながら慎を囲んでいた。
「ねえねえ、慎君。正直に言いなさいよ。佳山先生とは最近どうなの?」
「……皆さんが期待しているようなことは、一切してませんよ。学校でも外でも」
慎の素っ気ない返しに、長田が呆れたように身を乗り出す。
「今更だけどさ……あなた、本当に十代? その鋼の意志は立派だけど、年上であんな綺麗な婚約者を前にして何もしないって、逆に不健全じゃない? 枯れるには早すぎるわよ」
「ええ、男としてどうなのよ、それは?」
周囲の茶化しに慎が溜息を吐いた、その時だった。
足元で積み木をいじっていた茜が、ひょいと顔を上げ、無邪気すぎる爆弾を投下した。
「もしかして、しんにいちゃん……『〇××』なの?」
「ぶふうっ!!??」
その場の空気が凍りついた。真田は飲みかけた茶を吹き出し、長田たちは目を丸くして固まった。
慎は眉間を押さえ、ゆっくりと茜を見下ろした。
「……茜。どこでそんな言葉を覚えた?」
「みんなが言ってたよ?」
茜はきょとんとした表情で、長田たちを指差した。
慎の冷ややかな視線が職員たちに突き刺さる。
「……教育に悪い。子供の前で何を話しているんですか、貴方たちは」
「い、いや、それはその……冗談のつもりで……」
狼狽える大人たちを尻目に、慎は独り言のように、しかしはっきりと告げた。
「敢えて疑問に答えますが、俺も性欲の一つくらいはありますよ。血の通った生身の人間ですからね。ただ、今はその時じゃないと考えているだけです。ご理解ください」
あまりに淡々とした、だが確かな「男」の宣言に、はしゃいでいた職員たちも顔を赤らめて沈黙した。彼らは一斉に茜に向き直り、「その言葉は忘れなさい」、「二度と使っちゃダメよ」と必死に釘を刺す羽目になった。
――――――
その数日後、休日のことだ。
麗奈がいつものように慎のいる「□□□園」を訪れた。
慎が真田と卒業後の事務的な打ち合わせをしている間、麗奈はリビングで茜の遊び相手をしていた。だが、ふとした瞬間に、麗奈の顔には隠しきれない寂しさが浮かぶ。
慎と過ごす時間はあっても、決定的な「触れ合い」が欠如している現状が、彼女の心を少しだけ不安定にさせていた。
それを見ていた茜が何かを察したのか、麗奈の膝に手を置き、励ますように言った。
「麗奈おねえちゃん、だいじょうぶだよ」
「えっ? 何が、茜ちゃん」
「にいちゃんね、『がまん』してるんだって。だから、『〇××』じゃないんだってよ!」
「ふえっ!?」
麗奈は文字通り、固まった。
「がまん」はともかく、幼い少女の口から飛び出したあまりに不釣り合いな「単語」に、彼女の思考は完全にフリーズした。
「あ、茜ちゃん……いま、なんて……?」
「だから、〇…」
「っ!!だ、駄目!!やっぱり言わないで、言っちゃダメ!!」
「え???」
背後でそのやり取りを聞いていた真田は、顔を青くして天を仰いだ。
「……佳山先生、すみません。実は先日、職員たちが慎を茶化しまして、それを茜ちゃんが聞いていたようでして……」
真田から事の経緯を聞かされるうちに、麗奈の顔はみるみるうちに真っ赤に染まった。
慎が、自分のいないところで職員たちを相手に「性欲はある」と、自分への想いを(一応は)肯定していた。その事実が、彼女の胸に熱い衝撃を与えた。
(慎君……我慢してくれていたのね。私のために……)
自分たちの特殊な関係が茜にまで変な言葉を覚えさせてしまっていることには反省しきりだったが、それ以上に、慎の「男としての意志」を知った喜びが勝ってしまった。
自分は魅力がないわけではなかった。むしろ、彼にそこまで「我慢」を強いるほどに、求められていたのだ。
「……あ、ありがとう、茜ちゃん。教えてくれて」
「あ、おねえちゃん、にこにこになった」
麗奈は感極まったまま、茜をぎゅっと抱きしめて頬ずりした。
「わぁ、くすぐったい」
「うふふ、ありがとう。本当に……嬉しいわ」
慎が打ち合わせを終えて部屋に戻ってきた時、そこには茜を抱きかかえて聖母のような微笑みを浮かべる麗奈の姿があった。




