第9話
『彼岸花』
赤い彼岸花の花言葉は、諦め、再会、悲しい思い出。
別名__死人花。
▷▷▶︎
ここは、3年前に無人となった6階建ての廃墟ビル。このビルの詳細を示すフロアマップは埃を被り、ところどころ壁から剥がれ落ちていた。
馨の指が、壁面をすうっと下から上へと撫でる。
「...あった」
最上階である6階部分に、うっすらと残る『MCR』の文字。Monitoring Control Room__監視制御室のことだ。
廃墟ビルであるにも関わらず、監視カメラは正常に働いていた。恐らく、『鬼灯』のトップはそこにいるはず__そう、馨達は考えた。
「2人で行ってもいいけど...どうする?」
「...いや、ここは二手に分かれよう。俺が派手に暴れている間に、馨は最上階を目指す。そこに盗まれたデータもあるはずだ。ちゃんと取り返してこいよ?」
「了解」
__そう言い、泰輝と別れてから数分後。
馨は2階へと足を進め、時折現れる『鬼灯』の構成員を殺しながら、3階へ上がるための階段へと向かっていた。想像よりも襲いかかってくる構成員の数が少ない。どちらかと言えば、監視カメラの方が多いくらいだ。
階下で泰輝がよほど激しく動き回っているのか、床がミシッと音を立てた。
__踊らされているのだろうか。
自分達の方が狩られる側だと言うのに、どうして大人数でかかってこないのか。いくら馨がSI所有者だとしても、所詮1人の人間に過ぎないのだから。
何とも言えない気味悪さが、馨の背筋を走り抜けた。
馨は小さくかぶりを振った。
今は、そんなことはどうでもいい。
1階で見たフロアマップを思い出す。3階へ上る階段は、ここからもう少し先だ。早く、上に上がらないと__
「...みーつけた」
耳元で聞こえた声に勢いよく飛び退く。
人の姿が見えないからと油断していた、数秒前の自分を呪いたい。
「初めまして、四ノ宮馨さん。私の名は...そうね、アヤと名乗っておきましょうか」
目の前に突如現れた、アヤと名乗る女性。スカートの裾を指でつまみ、ふわり、と上品に礼をする姿は、殺し合いが行われていることを一瞬忘れてしまうほど優雅だった。
「私のSIは《Clear》。賢いあなたなら、何故私がここに来たかわかるわよね?」
「...私にSIを使わせないようにするため」
アヤが妖艶に微笑む。
目は笑っておらず、獲物を狩る蛇のような鋭い目つきでこちらを見ている。
「そう。あなたのSIは恐ろしいけれど、私の前では一般人へと成り下がる。だから...大人しく死んでちょうだい?」
アヤの姿が段々見えなくなっていく。
SIは超常的な力ではあるが、無条件に使える訳ではない。例えば、馨の《Control》は対象を視認していなければならないし、翔馬の《Shadow》は完全な闇の中では使えない。つまり、アヤのSIにも何らかの制約が課せられていりはずなのだ。それを見つけられればこっちのものだが、そう簡単に行く訳もなく。
前方から飛んできたナイフを咄嗟に躱すと、鳩尾に重い一撃が入った。肺が圧迫され、一瞬息が詰まる。
よろけながらも蹴りを入れようとした足は、ただ空を切るだけだった。
「...っ」
「あらあら、そんなんじゃ私にかすり傷1つ付けられないわよ?」
冷や汗が身体を伝って行くのを感じる。
正直、馨は焦っていた。致命傷は負わなくとも、このまま持久戦に持ち込まれれば、馨の負けは目に見えている。
ナイフが飛んでくる方向からアヤの位置を予測しようにも、アヤの動くスピードの方が圧倒的に速い。
しかも、ここは障害物が何一つ無い廊下。動きを妨げるものが無く、まさにアヤの為の狩場であった。
__どうする。どうすればいい。
そうこう考えている間にも、アヤの攻撃の手は止まない。ナイフが馨の腕を掠めて行き、背後から蹴り飛ばされる。
馨は床に手を付いた反動で身体を翻し、腰から銃を引き抜くと、3発撃った。
当たった手応えが確かにあった、はずなのに。依然として、同じ風景が広がっていた。
「血が出れば居場所がわかる__なんて思った?」
アヤが、再び馨の前に姿を現す。その腕からは血が流れており、銃弾が確かに当たったことを証明している。
「私のSIは、私自身、もしくは手で触れているもの全てを透明にすることが出来る。まあ、あまりに大きすぎるものは無理だけれど」
このビルとかね、とアヤが壁をコン、と叩く。
「血は私自身の一部だもの。残念だったわね」
馨は思わず唇を噛み締めた。
何か、アヤの姿を認識する方法は無いのか。そこに『いる』と視覚的に捉えられれば、《Control》を使うことが出来るのに。
「...そうだ」
ある方法が、馨の脳裏に浮かんだ。
成功するか否かは賭けだが、『あれ』を使えばこの状況を打開出来るかもしれない。
「何をぼんやりしてるの?」
まずい、と思った次の瞬間、身体が壁に叩きつけられていた。チカチカと視界が点滅する。馨は立つこともままならず、床へ座り込んだ。
「がっ...は」
「...そろそろ終わりにしましょうか。安心して、最期は楽に逝かせてあげるから」
こっちに向かってくるアヤの足音が、ひどくはっきり聞こえる。
__チャンスは、一度。
馨は手に持っていた銃を、天井にある『スプリンクラー』に向かって思いっきり投げた。
スプリンクラーが反応するのは煙や熱だけではない。衝撃を与えることで、誤作動を起こすこともある。
「どこ狙って...なっ⁉︎」
ガン‼︎という音がすると共に、スプリンクラーから水が2人の頭上に降り注ぐ。
アヤの身体の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
「《Control》!」
「しまっ...」
「《武器を捨てて止まれ》!」
アヤの手から溢れ落ちたナイフが、床に小さく傷を付けた。
馨はそのナイフを拾い、アヤの浮かび上がった首筋にぴたりと沿わせる。
「...してやられたわ。流石は『THS』第3小隊の一員ね」
「データを盗んだのは、あなた?」
アヤは何も言わない。ただ、じっと馨を見つめているような、そんな気がした。
馨は声には出さず、口を動かす。
『さようなら』、と。
そのまま手に力を入れ、首筋を掻っ切る。
生暖かい液体が馨を濡らすも、それはまだ色を持たないままで。
アヤの身体が、床にできた小さな水溜りへ力なく倒れていく。そして、徐々に足先から色付いていく。血に塗れてもなお、彼女は優雅だった。
頰に着いた血を手の甲で拭う。
鮮やかな赤に染まっていくその様は、どこか儚げで、美しかった。