第10話
一歩足を動かすたび、背中に鈍い痛みが走る。
返り血は乾き始め、むせ返るほど充満していた鉄の臭いは仄かに香る程度になっていた。
ポケットから携帯を取り出し、ちらりと液晶を見る。隼人達が突入してくるまで約8分、と言ったところか。このままのペースだと、彼らが突入してくるまでに目的地に到着するのはまず不可能だ。
エレベーターを使えば一気に6階まで上がれるが、逃げ場のない空間に自ら身を投げ入れるのは少々リスクが高すぎる。
「さて、どうしたものか」
階下が騒がしくなり、人の動きが活発になる前に進んでおきたい。
馨の最優先事項は盗まれたデータの奪還。
最悪、『鬼灯』がデータを持ったまま逃走する可能性もある。その可能性はほぼ無いと言っても過言ではないが、考えておくに越したことはないだろう。馨の予想が合っていれば、既に何らかの手は打ってあるはずだが。
突き当たりにある窓に目を凝らすと、案の定真っ黒な影で覆われており、外が見えないようになっていた。翔馬がこのビル全体を影で覆っているのだ。
「...そうだ」
内側から無理なら、外側から行けばいい。
馨は早速翔馬に連絡を取るべく無線に手を伸ばした。が、右手側から聞こえてきた足音にその動きを止める。
ぺた、ぺたと裸足で床を歩く音が徐々に近付いてくる。足音からして、1人。
「え...」
人影が視界に入った瞬間、想像とは違う姿に引き金に掛けていた指が緩む。
燃えるような赤い目に、真っ白な髪を無造作に伸ばした小さな女の子がこちらを見て立っていた。少女は銃口を向けられているにも関わらず、平然としており、そこから動く気配が無い。
髪の色と同じく真っ白なワンピースに身を包んだ少女の姿は、薄暗い廊下ではどこか異質なものに見えた。
「四ノ宮、馨?」
少女はこてん、と首を傾げ、馨の名を口にした。
こんなに小さな子も『鬼灯』の一員だというのか。
「...」
馨は黙ったまま、否定も肯定もしない。
少女はしばらく逡巡した後、少し不機嫌そうな表情を浮かべた。
「やっぱり、四ノ宮馨は、悪いやつ。零の、邪魔は、させない」
馨は少女が動き出すよりも早く、少女に向かって引き金を引いた。2発の弾丸が少女の腹部と心臓を貫く。
トサ、と軽い音を立てて、少女が倒れる。
零という人物について詳しく聞いておきたかったが、彼女がSI所有者か分からないこの状況下ではあまり得策とは言えないだろう。彼女の口振りから察するに、『鬼灯』のリーダーで間違いないとは思うが。
無線の電源を入れつつ、窓の方へと歩く。
鉄の臭いが再び馨の鼻を刺激する。
_しかし、この臭いに違和感を感じるのは何故か。
少女の死体の傍にしゃがみ血を観察してみるも、色、形状、どこからどう見ても血だ。
手を伸ばし血溜まりに触れる。すると、馨が触れたことがきっかけになったかのように、少女の死体も、血も、一瞬にして消え去った。
「なっ...⁉︎」
馨は素早く周りを見回す。本物の少女の姿は、無い。
ポケットから隠し持っていた折りたたみナイフを取り出し、指先を小さく切る。
痛みを感じても見えている景色は変わらない_となると、3階で馨が何かアクションを起こすタイミングを見計らって幻影を作り出した、というのが妥当か。
『__馨』
ヒュッと喉から息が漏れるのがわかった。
手には冷や汗が浮かび、視界はぐるぐると回る。
思考はばらけて纏まらず、これは幻だと分かっているはずなのに、父親の声だと認めてしまう自分がいた。
_どうして、嫌だ、思い出したくない、早く、消さないと。
振り向いて、たった1発でいい。
撃てば、消せるのに。
『どうしてお前に言うことを聞かない?また殴らないとわからないのか?』
ズキン、と背中が痛む。
ナイフで付けた傷も、打ちつけた背中の痛みも、あいつのことを思い出させるだけ。
この幻から目を覚ましてくれることは、ない。
『助けを求めたって無駄だ。お前の味方は、1人もいない』
「...さい」
『誰にも必要とされてないんだ』
「うるさい、うるさい、うるさい!」
両手で耳を塞ぐ。馨は駄々をこねる子どものように首を振り、身体を縮こませた。
あいつに対し、ここまで弱くなってしまう自分が嫌だった。
『なあ、馨。__お前なんて、生まれてこなければ良かったのに』
_その言葉を聞いた瞬間、何かがすとん、と胸に落ちた。
絶望、虚無、どの感情とも違うけれど馨は確かにこれを知っている。
肩越しに後ろを振り返る。記憶の中と変わらない、無機質な視線が馨を射抜く。そう言えば、この視線から解放されたのはいつだっただろうか。
あいつが口を開くのと、聞き慣れたノイズ音が聞こえたのはほぼ同時だった。
『_悪い、少し片付けに手間取った。何かあったか?』
「翔、馬」
無意識に彼の名を呼んでいた。
耳に届いた翔馬の声が、馨を現実へと引き戻す。
「少し、頼みたい事があって」
いつの間にか、身体の萎縮は無くなっていた。
1発。
あいつの身体が霧散していく。目の前で消えるあいつを見て初めて、あれは幻だったのだと腑に落ちた気がした。
『おい、馨...あー、いや、何でもねぇ』
「...うん」
それ以上の言葉は必要なかった。
深く追及してこない相棒の優しさに、少しだけ溺れてみる。
一瞬、影の間から見えた月が、馨を照らしていた。




