第一章 四話《逃げた先》
俺の手が引っかき傷でいっぱいだった、この傷が何を表すのか理解したくなかった。信じたくなかった、でも今目の前にあるのが現実なのだ。
「嫌ぁ……、まま、ままあぁぁ……」
俺が取り返しの付かないことをしてしまったことを、妹の泣き声でどんどん理解していく。
意味のない事だとしても、俺は言葉にしてしまう。
「……ちが、違うんだ……こ、こんな、こ……つもり、じゃ」
引っかき傷の痛みも、痺れる掌も、俺の言葉が間違っていることを突き付けてくる。
この現実はあまりにも重すぎた。
「…………警察。」
俺は妹の言葉に心臓が握られたような気がした。
「……ま、まっ、て……違う、ちが……!」
何も違くないのに、何が違うと言うのだろう。何も分からない。なんでこうなったかも何もかも。
「何が違うって言うの……!!?ままを殺したくせに!!!人殺し……人殺しィ……!!!!」
妹は悲痛な叫びと共に俺を否定した。もう誰も俺の話なんか聞いてくれない。俺から離れようと後退りする妹を留めようと手を伸ばし、
——俺は、意識を失った。
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ハッと、意識が戻る。どのくらい意識を失って居たのだろう。俺は働かない脳で目の前の光景を見渡す。そこにあるのは動かない母さんと……大きい赤い何かだった。
そこを中心に赤黒い汚れが広がっている、それはとても鉄錆のような不愉快な匂いを放っていた。
なんだこれは。何故家にこんなものが?
それより妹は何処だ?
警察は来るのか?
色んな疑問が浮かぶが頭がそれに答えようとしない。
ただ、本当に酷い悪臭だ。
気分が悪くなる、そう鼻をつまもうとした時に他の違和感に気がついた。
「てが、あかい……?」
手だけじゃない。
腕にも胸にも、お腹にも。
悪臭を放つ赤いなにかがべっちゃりとくっついていた。
「うわ……んだこれ汚…………」
床に落とした洗濯物で手や顔を拭う。それでも悪臭は鼻から消えなかった。きっと赤黒い何かがそこにあるからだろう。
その赤黒い何かが一部、光を反射したように見えた。
気になった俺はその赤い何かを見つめる。
するとそこに見えたのは、
突き刺さる包丁だった。
急激に頭が痛くなる、頭の中では警笛が鳴らされ続けていた。あれを長く見てはいけないと、でも俺の目はずっと赤黒いものを見ていた。いや、あれは多分赤黒いものではない。
——赤黒くなってしまった誰か。
そしてその誰かは先程まで妹が着ていた洋服と同じものを着ている。
俺は理解したくなかっただけなのかもしれない、だが現実は非情で、目の前の光景が俺を責め立てる。そこに居たのは包丁が突き刺さった妹なのだから。
それを理解した途端吐き気が襲い、その場で崩れ落ちてしまった。胃から熱いものが込み上げてくる、俺はそれを全てもどしてしまう。吐くものがなくなっても嗚咽は止まらない。そして俺の頭はただ一つで埋め尽くされた。
——俺が、やったのか……?
それ以外考えられなかった。記憶になくても、拭いきれない証拠が今この両手にある。
引っかき傷。
鉄錆の匂い。
何かを殴った痛み。
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俺は逃げた。
ただその場から逃げたかった。
受け入れたくない現実から目を背けるために。
殺した?
そう、殺した。
でもわからない
何も記憶にない。
血塗れのまま裸足で家を飛び出した俺を隠すように、台風の雨が血を洗い流す。
俺は雨に紛れて叫んだ。
何を叫んだのか、自分でも分からなかった。
頬を伝う水は涙なのか雨なのか、自分でもわからない。
そして何もわからないまま、俺はたどり着いた。
この現実から逃げることができる場所へ。
下を見るとゴオオオオっと、濁流が大きな音をたてる。
普段は静かな川なのに、台風が来るだけで氾濫寸前だ。ここに飛び込めば何も考えず、何も受け入れなくて済むのだ。
「……ははっ。」
俺は皮肉に気づき、笑ってしまった。
世界はこんなにも俺に理不尽だった。
いや、きっと俺がそうしてしまっただけなのだろう。
「——逃げ場、ここにあったんじゃん。」
そして俺は、川に身を投げた。
体を襲うのは息苦しさ、寒さ、痛み。
そして最後の最後まで逃げた俺に対する嫌悪。
生きる価値なんてない。
それでも、もう少し頑張ることは出来たのかな。
もう分からない、
さようなら俺の人生。
何もかも捨てた時、突然眩い光が俺を照らした。




