CHAPTER8『監獄に降る三つの災厄』
監獄長ギルバートが現れた瞬間、旧補給庫前の通路は別の戦場へと変わった。
そこにあるのは、監獄そのものを背負う男と、最下層に封じられていた特級危険囚の対峙だった。
シャチ魚人、ギルバート。
アビスロックの看守たちを束ね、囚人たちに恐れられる監獄長。
対するは、エレクトリックエイ魚人、カイゼル。
鎖を引きずり、雷を纏い、封印区画から現れた嵐喰らい。
二人が向かい合っただけで、第二階層の空気が沈む。
ジルも、バレルも、ヴォルグも、ガレオンでさえも、動けなかった。
今から始まるのは、派閥同士の争いではない。
監獄の王と、監獄に封じられた怪物の激突だった。
深海監獄アビスロック 第二階層 旧補給庫前通路——
ギルバートが一歩前へ出る。
それだけで、背後の重装備看守たちが声もなく陣形を変えた。
盾を持つ者三人が前へ。
鉄杭を持つ者二人が左右へ。
鎖付きの拘束具を構えた者が、後方で膝を落とす。
だが、先に動いたのはカイゼルだった。
足元で雷光が弾ける。
バチッ!!
床が砕け、巨体が雷そのもののように一瞬で間合いを潰してくる。
だが、ギルバートは避けない。
半身にもならない。
防御すら取らない。
真正面から、拳を上げた。
「来い……!」
その一言に、カイゼルの笑みが深くなる。
雷を纏った拳が、ギルバートの顔面へ迫る。
同時に、ギルバートの剛腕が振り抜かれた。
ドゴォォォン!!
拳と拳が正面からぶつかる。
バチバチと弾ける電撃がギルバートの剛腕を這い、振動する衝撃波がカイゼルの体を叩きつける。
衝撃が円となって広がり、旧補給庫の壁を叩く。
砕けた木箱が浮き上がり、床に散っていた鉄片が跳ねた。
「伏せろ!」
ヴォルグの声が飛ぶ。
ジルは反射的に身を沈める。
直後、背後の棚が粉々に砕けた。
バレルの巨大なハサミが、飛んできた鉄骨を受け止める。
バギッ!!
「ぐっ……! 衝撃波だけでこれかよ!」
バレルの甲殻が軋む。
ジルは腕で顔を庇う。
息が詰まる。
ただ拳がぶつかっただけだ。
それだけで、周囲の空気が押し潰された。
空気は圧縮され、吊り灯籠の灯火が消え、火花と破片が闇の中へ散った。
だが、二人は止まらない。
カイゼルが雷をまとった拳を振るう。
ギルバートは真正面から拳で迎え撃つ。
雷光と拳圧が、通路を揺らす。
拳と拳がぶつかるたび、衝撃が床を走る。
壁が裂け、天井から石片が落ちる。
足元の亀裂が、ジルのつま先まで伸びてきた。
ジルは拳を握り、思わず歯を食いしばる。
(ギルバートとカイゼル……クソッ!次元が違う……!)
ガレオンは玉露刀を構えたまま、ギルバートを見据えていた。
(特級危険囚を抑えるためとはいえ、監獄長自らが動くとは……)
その視線が、ギルバートの背後に控える重装備看守たちへ流れる。
(……どういうつもりだ、ギルバート)
その時、ギルバートの拳が真正面からカイゼルを捉えた。
ドゴォォンッ!!
衝撃が爆ぜる。
カイゼルの巨体が後方へ弾き飛ばされ、崩れた壁へ叩き込まれた。
ドガァッ!!
石片と鉄骨が砕け、粉塵が舞い上がる。
だが――。
「ハッハッハ!」
瓦礫の中から、笑い声が響いた。
カイゼルは砕けた壁に背中をめり込ませたまま、肩を揺らして笑っていた。
「いい拳だ……」
雷光が、包帯の隙間で弾ける。
カイゼルはゆっくりと首を鳴らし、瓦礫を押し退ける。
「さすがは監獄の王だ」
カイゼルは両腕を広げた。
砕けた鎖が、ジャラリと鳴る。
「もっと打ち込んでこい……」
包帯の奥で、獰猛な笑みが浮かぶ。
「その程度では、俺は檻には戻らんぞ」
カイゼルは、背後の壁にめり込んだ鉄骨へ手を伸ばした。
ギシ……。
太い鉄骨が、壁の中で軋む。
次の瞬間、カイゼルはそれを力任せに引き抜いた。
ゴガァッ!!
壁の一部が崩れ、石片が床へ散る。
カイゼルの手に握られた鉄骨に、青白い雷光が走った。
バチバチバチッ!!
「……っ!」
重装備看守たちが、一斉に構える。
ギルバートは動かない。
カイゼルは鉄骨を肩に担ぎ、ギルバートへ狙いを定めるように腕を引いた。
「まずは――」
だが、カイゼルの目はギルバートを見ていなかった。
「邪魔な檻番どもからだ……」
ヴォンッ……ヴォンッ……ヴォンッ!!
雷を帯びた鉄骨が低い唸りを上げながら、ギルバートの背後へ放たれる。
ドガァァッ!!
重装備看守兵三人が盾を構え、真正面から受け止めた。
だが、鉄骨に走る電撃が盾を伝い、看守たちの腕を痺れさせる。
「ぐっ……!」
次の瞬間、三人の身体がまとめて後方へ吹き飛ばされた。
鎧が床を削り、盾が弾け飛ぶ。
ジルは息を呑んだ。
(ギルバートを狙ったんじゃない……背後の看守を……!?)
倒れた看守たちを見ても、ギルバートの表情は変わらない。
ギルバートは一歩も退かず、淡々と言い放つ。
「……これほどとはな。災害とはよく言ったものだ」
次の瞬間、ギルバートの足が床を踏み砕いた。
ドンッ!!
床が沈む。
その巨体が、一瞬でカイゼルの懐へ入った。
「……っ!」
カイゼルの目が動く。
だが、遅い。
ギルバートの剛腕が、真正面から振り抜かれる。
ドゴォォォン!!
轟音とともに、ギルバートの剛拳がカイゼルの体を正面から叩き潰す。
ドゴッ!!
巨体が倒れ、床が陥没する。
「……効いたか」
ギルバートは低く呟き、カイゼルを見下ろす。
「終わりだ、嵐喰らい……」
ギルバートの足が、床を踏みしめる。
ドン……。
低い音が、旧補給庫前の通路に響いた。
床の亀裂が止まる。
崩れかけていた壁が、ぎしりと軋む。
第二階層の岩盤そのものが、重く鳴った。
ジルは息を呑む。
(……監獄全体が、反応している……!?)
「ここは――俺の支配領域だ」
ギルバートが腕を振り下ろす。
ゴオォォッ!!
壁、地面、岩盤天井。
監獄そのものが震え、圧縮された衝撃が一斉にカイゼルへ叩きつけられた。
ドォォンッ!!
倒れたカイゼルへ、ギルバートの拳が容赦なく振り下ろされた。
衝撃は、巨体を貫き、床へ沈み込む。
そして、アビスロックの岩盤そのものが拳圧を反響させる。
ゴゴゴゴッ……!!
割れた床石が波打つように跳ね上がる。
鉄骨が折れ、砕けた石片が宙に舞う。
カイゼルの巨体は、地盤にめり込むように沈み込んでいた。
ジルは思わず歯を食いしばった。
(……あのカイゼルを……!?)
あれほどの怪物を、拳ひとつで地面へ沈めた。
(監獄長ギルバート……なんて男だ……)
その瞬間、頭上で嫌な音がした。
ギシ……。
ジルの視線が、反射的に跳ね上がる。
砕けた岩盤の一部が、天井から剥がれ落ちかけている。
真下にいるのは、バレルだった。
バレルはギルバートとカイゼルの激突に目を奪われ、頭上の異変に気づいていない。
「!?……バレル!」
ジルは叫ぶより早く、床を蹴った。
トビウオ魚人の脚力が、弾ける。
一瞬で距離を詰め、ジルの飛び蹴りがバレルの脇腹を打った。
ドガッ!
「ぐおっ!?」
巨体が横へ弾かれる。
次の瞬間――
ドガァン!!
さっきまでバレルが立っていた場所へ、巨大な岩盤が落下した。
床が砕け、粉塵が爆ぜる。
バレルは地面を転がりながら、目を見開いた。
「……おいおい。何しやがんだ、ジル!危ねぇじゃねえか……!」
ジルは着地し、粉塵の向こうを指さした。
「……上だ」
バレルは顔を上げた。
さっきまで自分が立っていた場所に、巨大な岩盤が落ちていた。
割れた床石が沈み、粉塵がゆっくりと広がっていく。
バレルの喉が、小さく鳴った。
「……マジかよ」
ジルは左右を見回し、低く言った。
「……死ぬぞ」
バレルは一瞬だけ黙り、それから口元を歪めた。
「そ、そうか。お前が蹴り飛ばしてくれなかったら今頃は……」
短く息を吐き、巨大なハサミを鳴らす。
「助かったぜ、相棒」
その時――
「ハッ……」
めり込んだ地面の底から、低い笑い声が響いた。
割れた床石が、ひとつ、またひとつと持ち上がる。
瓦礫の下で、巨体が動いていた。
ギシ……。
鉄骨が曲がる。
グゴゴゴ……。
地盤に沈んでいたカイゼルの腕が、ゆっくりと床を押し返す。
砕けた石片が肩から滑り落ちる。
「……それでこそ、潰しがいがある」
カイゼルは、地面にめり込んだ身体を引き剥がすようにして立ち上がった。
バチバチバチバチッ!!
雷光が一気に膨れ上がる。
カイゼルの全身が稲妻に包まれ、鎖の残骸が宙で弾け飛ぶ。
「監獄ごと潰してやろう……!」
ドォン!!!
カイゼルの拳が地面を叩いた瞬間、
雷が地を走り、衝撃が逆流する。
雷撃を浴びたギルバートの体が、わずかに宙に浮いた。
「……っ」
初めて、ギルバートの表情が僅かに歪む。
着地の瞬間、踏みしめた床が鈍い音を立てる。
二人は、数メートルの距離を隔てて睨み合った。
互いに息は乱れていない。
だが――空間そのものが限界を訴えていた。
轟音は、第二階層の奥まで響いていた。
廃屋の影から、音を聞きつけた囚人たちが次々と顔を出す。
だが、誰も近づけない。
雷光。
陥没した床。
砕けた壁。
その中心に立つギルバートとカイゼルを見た瞬間、囚人たちは理解した。
巻き込まれれば、死ぬと。
バレルが低く唸った。
「……おいおい、冗談じゃねぇぞ。せっかく俺らの拠点を見つけたのによ、早速潰れちまうぞ!」
ヴォルグは床の亀裂を見ていた。
亀裂は一本ではない。
枝分かれしながら、立ち入り禁止区域の奥へ伸びている。
「まずいな……このまま衝撃が続けば、周辺区画ごと崩れる」
ジルは周囲を見渡し、低く言った。
「……この区画だけじゃ済まない。第二階層そのものが持たないんじゃないか!?」
ヴォルグが息を呑む。
カイゼルは、再び拳を握る。
雷光が収束し、空気が軋む。
ギルバートもまた、静かに構えを取った。
「……次で終わらせるぞ」
その言葉に呼応し、残った重装備看守兵三人が前へ出る。
吹き飛ばされた仲間を横目に、三人は無言で構えを取った。
その瞬間だった。
――ドゥオオオオオォン!!!!
突如――
二人の激突を押し退けるように、巨大な黒き渦潮が空間そのものをねじ曲げた。
暴風のような圧が通路を薙ぎ払い、砕けた石片が宙を舞う。
雷光すら呑み込み、衝撃が通路を走る。
「なっ……!?」
ジルたちは思わず身構えるが、何が起きたのか理解が追いつかない。
背後から、低く笑う声が響いた。
「おいおい……俺を無視して盛り上がるのは勘弁してくれよ」
重圧をまとった声とともに、場の空気そのものを押し退けるように――
一人の男が、悠然と歩み出てくる。
「……出やがったか……」
低く吐き捨てるように、バレルが呟いた。
ジルが眉をひそめる。
「……? 誰だ?」
バレルは視線を逸らさず、短く答える。
「……沈黙の牙の頭領――ドゥームだ」
「……!?(こいつが……沈黙の牙の頭……!)」
ジルは無意識に半歩、重心を落とした。
監獄の王ギルバート。
嵐喰らいカイゼル。
二つの力が第二階層を壊しかけた時、
黒き渦潮が、その激突を押し止めた。
現れたのは、沈黙の牙の頭領ドゥーム。
その男は、戦場に割って入ったのではない。
戦場そのものを、奪いに来た。
ヴォルグが低く呟いた。
「ホオジロザメ魚人、ドゥーム……厄介なのが来たな」
バレルはハサミを構えたまま、奥歯を鳴らす。
「厄介どころじゃねぇ。あいつも規格外だ……」
ジルは黒き渦潮の奥に立つ男を見た。
(あれが……ドゥーム……!)
ガレオンが低く歯噛みした。
「……何のつもりだ、ドゥームめ……!」
背後では、霧の幻影の兵たちが間合いを取り直す。
ギルバートの視線が、ゆっくりと割って入った男へ向けられる。
「……ドゥーム。貴様の仕業か……?」
ドゥームは肩をわずかに揺らし、口元だけで笑う。
「……さあな。何のことだ?」
次の瞬間――
ドゥームが、ゆっくりと片手を上げた。
カイゼルの足元で、砕けた床の隙間から、黒い水が滲み出した。
カイゼルの目が足元へ落ちる。
ゴボォッ!!
水が爆ぜる。
渦巻く水流が一気に収束し、強烈な奔流となってカイゼルの周囲を取り囲む。
「チッ……!」
反射的に跳躍しようとしたカイゼルの動きが、わずかに遅れる。
「ククク……遅ぇよ」
低い笑い声と同時に――
渦の中心から、水で編まれた鎖が一斉に射出された。
ガシィッ!!
蛇のように絡みつき、四肢へ食い込む。
「グッ……!?」
一瞬で――嵐喰らいの巨体が、完全に拘束された。
カイゼルの巨体が、わずかに沈む。
雷光が弾ける。
バチバチバチッ!!
だが、水鎖はほどけない。
青白い雷を浴びながら、黒い水の鎖は白く泡立ち、なおも締め上げていく。
ジルは息を呑んだ。
(あのカイゼルを……止めた……!?)
バレルのハサミが低く鳴る。
「水で雷を抑え込めるもんなのか……?」
ヴォルグは目を細めた。
「いや、ただの水じゃない。あのカイゼルを拘束できるんだ。何か仕掛けがあるはずだが……」
水鎖は軋み、雷光が弾けるたびに白く揺らぐ。
だが、ほどける気配はない。
ヴォルグの声がさらに沈む。
「……暴れた分だけ、絡みつくようだな」
「悪いな、嵐喰らいさんよ」
ドゥームがゆっくりと歩み寄る。
その足取りは、まるで戦場を散歩でもしているかのように軽い。
「もう少し、大人しくしてもらおうか」
にやりと笑い、カイゼルの正面に立った。
カイゼルが低く唸った。
「……貴様……俺を狙っていたのか」
ドゥームは肩を揺らし、気怠そうに笑う。
「さあな? 偶然通りかかっただけだぜ?」
カイゼルはしばらく無言でドゥームを睨み据える。
だが次の瞬間、その目つきが変わった。
「……いや、違うな」
口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「俺を解放したのは――貴様だな」
ジルの背筋に、冷たいものが走る。
(ドゥームが……カイゼルを第三階層から……?)
ガレオンの眉がわずかに動く。
ギルバートは無表情のまま、ドゥームを見ていた。
場の空気が張り詰める。
ドゥームは一瞬だけ沈黙した。
だがすぐに肩をすくめ、軽く息を吐く。
「知らねえなあ?」
「フン……まあいい」
水流の鎖に拘束されたまま、カイゼルはゆっくりと目を細めた。
雷光が、水鎖の隙間で弾けた。
「俺を檻から出した理由が何かは知らんが……」
雷光が、その瞳の奥で揺れる。
「貴様の思惑に……乗ってやろう」
その言葉を聞いた瞬間、ドゥームの口角がわずかに吊り上がった。
「いい返事だ」
指先を軽く動かすと、水の鎖がわずかに軋み、拘束が少しだけ緩む。
ジルは動けなかった。
目の前で、カイゼルが水鎖に縛られている。
監獄長ギルバートですら本気で封じようとした特級危険囚。
その怪物を、ドゥームという男は真正面から止めていた。
ジルは喉を鳴らす。
(……こいつも、別格だ……)
ギルバートは二人のやり取りを無表情で見つめていたが、やがて静かに言い放つ。
「……貴様に任せるぞ、ドゥーム」
ギルバートは続けた。
「貴様が連れ出したのなら、貴様が責任を持て」
「フッ、光栄だねぇ」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気が変わった。
ガレオンの眉が動く。
バレルのハサミが、ぎり、と鳴る。
ジルは思わず一歩踏み出す。
「……沈黙の牙に、あの怪物を渡していいのか……!?」
だが次の瞬間――バレルのハサミが、ジルの前に差し出された。
「いや、だが……今じゃねぇ」
低く、短い声だった。
ジルは歯を食いしばりながらも、足を止める。
その横で、ヴォルグが小さく息を吐いた。
「……今動けば、俺たちは完全に潰される」
ジルはカイゼルを見る。
次に、ドゥームを見る。
どちらも、今の自分たちが止められる相手ではない。
ヴォルグは続けた。
「生き残る道を捨てるな……」
ギルバートは踵を返し、去り際に囚人たちへ冷たく言い放つ。
「貴様らが暴れ、囚人どもの数が減るなら、それもまた監獄の秩序だ」
重装備看守たちが、倒れた仲間を引きずり起こす。
ギルバートの歩みは止まらない。
その背中に、迷いはなかった。
ジルは息を呑む。
(……あの男は、囚人を守るために来たんじゃない)
ギルバートの背中が、瓦礫の向こうへ遠ざかる。
(監獄の秩序を保つためだけに動いている……)
ジルは、去っていくギルバートの背中を睨んだ。
バレルのハサミが、まだ前にある。
ヴォルグの言葉も、耳に残っている。
今、動けば死ぬ。
それでも――黙って見送ることだけは、できなかった。
ジルは一歩、前へ出た。
「ギルバート!」
その声に、ギルバートの足が止まる。
顔だけが、ゆっくりと振り返った。
「……何だ、貴様は」
ジルは拳を握った。
「蒼海の解放軍だ」
短く、その名を告げる。
ギルバートの目が、わずかに細まった。
ジルは続けた。
「俺たちは、誰の駒にもならない」
瓦礫の上で、血の匂いが揺れた。
「この監獄を生き延びて――必ず、外へ出る」
一瞬、場が沈黙した。
ギルバートは、ジルを見下ろしたまま、低く笑った。
「フン、その名が残るか死体と共に消えるか……見ていてやろう」
そう言い残し、監獄長は再び背を向けた。
バレルはハサミを下ろさないまま、口元だけで笑った。
「……言いやがったな、相棒」
ヴォルグは眉間に指を当て、わずかに肩を落とした。
「……まったく。これで監獄長にも名を覚えられたな」
ジルは拳を握ったまま、ドゥームとカイゼルを睨んでいた。
今の自分では、止められない。
だが、目を逸らすことはできなかった。
ドゥームは、そんなジルたちを一瞥した。
ほんの一瞬。
だが、その口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「……フン」
その時、水鎖に縛られたカイゼルの視線も、ジルたちへ流れた。
包帯の奥で、雷光が細く弾ける。
「……蒼海の解放軍」
低く、その名だけを口にする。
ドゥームは低く喉を鳴らし、ゆっくりと背を向けた。
「フハハハハ……いい面構えだ、嵐喰らい。――ついて来い」
水流の鎖がわずかに揺れ、道を開く。
カイゼルは舌打ちした。
「チッ……俺に指図するな」
だが、雷光をまとった巨体は水鎖を引きずりながら、ドゥームの背を追うように歩き出す。
重い足音が、第二階層に低く響いた。
重圧が消えたあと、補給庫前の通路には奇妙な静けさだけが残った。
崩れた壁の奥で、砂塵がゆっくりと落ちていく音だけが響く。
崩れた壁。
陥没した床。
折れた鉄骨。
先ほどまでここにあった激突の熱だけが、まだ残っている。
ジルは拳を下ろせずにいた。
呼吸は荒く、胸の奥で鼓動だけが暴れている。
(……終わった……のか?)
その静けさを破ったのは、ガレオンだった。
ガレオンは玉露刀を鞘へ戻す。
「……興が削がれたな、今日はここまでだ」
その言葉と同時に、背後の黒装束たちが影のように散っていく。
「待て……!」
ジルが一歩踏み出しかけた瞬間——
「……やめとけ」
ヴォルグの低い声が背中を止めた。
「追っても無駄だ。あいつらは霧みたいなものだ。追いついた時にはもう消えてる」
ヴォルグは崩れた通路へ視線を流し、静かに手のひらを返した。
短い沈黙。
その横で、バレルが足元の瓦礫を蹴り飛ばした。
「……ったくよ。監獄長に、嵐喰らいに、沈黙の牙の頭領か」
砕けた石片が、暗い通路へ転がっていく。
バレルは深く息を吐いた。
「今日は厄日にもほどがあるぜ」
通路の奥では、最後に残っていた霧がゆっくりと消えていく。
だが、戦いの気配だけは消えなかった。
沈黙の牙の頭領ドゥームによって、嵐喰らいカイゼルはその陣へと加わった。
それは、単なる一人の囚人の移動ではない。
深海監獄アビスロック――
長く均衡を保ってきた力の天秤が、今、静かに傾き始めたのだ。
この日、この瞬間、監獄の歴史は、確実に新たな局面へと踏み出した。
ジルはゆっくりと拳を握った。
飲み込まれたままでは終わらない――
この潮流の中で、生き残る側に立つために。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もし物語を面白いと感じていただけたら、
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監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
▼作者Xはこちら
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




