CHAPTER7『霧の奥で目覚める災厄』
旧補給庫に満ちていた静けさが、一瞬で“質”を変えた。
霧の幻影の動きは、これまで相手にしてきた連中とは明らかに違っていた。
力で押し切る気配はない。
威圧も、叫びもない。
霧の幻影――彼らが動いた瞬間、拠点は処刑場へと変わる。
「チッ……やっかいな連中だな!」
バレルが巨大なハサミを振るう。
踏み込んできた暗殺者を力任せに弾き飛ばす――だが、その直後、死角から鋭い気配が走った。
「――ッ!」
反射的に身を捻る。
刃が、首元すれすれを掠めて通り過ぎた。
ジルは、その一撃を見逃さなかった。
(……ほんの一瞬でも遅れていたら、喉を断たれていた……!?)
ジルは拳を握り直す。
(……こいつらは、ただ暴れるだけの連中じゃない……!)
数は多くない。
だが、一撃一撃が急所だけを狙っている。
目、喉、心臓――。
(避け損ねれば、それで終わりだ……)
ヴォルグは一歩引いた位置で、戦場を見渡していた。
視線は落ち着いている――が、その瞳は一瞬たりとも止まらない。
背後から刃――振り向きざまに拳が伸びる。
ゴッ!
敵の喉元へ。
さらに背後から気配――
敵が崩れる前に、ヴォルグの身体はすでに反転していた。
敵のこめかみに手刀を叩きつける。
体勢が崩れた刹那、顎へ一撃。
敵は、音も立てずに床へ落ちた。
無駄のない制圧。
だが、次が来る。息を整える暇もない。
(……訓練されている。しかも、実戦慣れしてるな)
ジルはヴォルグの動きを横目で捉えながら、前線を駆けていた。
刃の隙間を縫うように踏み込み、かわし、叩き返す。
ジルは無意識に右拳を握り込む。
迷っている暇はない。
この霧の中で立ち止まれば、次の刃で終わる。
だが、呼吸の乱れを突くように――
「フッ……その程度では、我々には及ばぬ」
ガレオンが、嘲るように口角を上げながら指で空を切る。
その瞬間だった。
視界の端に――
霧が、滲むように立ち上った。
ジルの視界が、わずかに――ずれた。
「……ッ!?」
床が傾いたような感覚。
焦点が合わず、輪郭が歪む。
「これは……幻覚作用か……!?」
ヴォルグが、低く息を吐く。
ガレオンの声が、霧越しに重なった。
「安心しろ。楽に死なせてやる……」
霧が濃くなる。
「……お前たちは、ここで消える運命なのだ」
敵の気配が、複数に分裂したように散る。
――来る。
気配だけが、先に動いた。
霧の奥から、刃が閃く。
一撃、二撃――角度も距離も、読めない。
「チッ……!」
バレルが巨大なハサミで受け止めるが、次の刃は別方向から来た。
「そこだ!」
バギンッ……!
バレルのハサミが、霧の中の影を叩き潰した。
だが、手応えがない。
砕けたのは、積まれていた木箱だけだった。
「チッ……叩き潰したと思ったんだがよ!」
シュバッ!
次の瞬間、甲殻の表面を細い刃が走った。
白い傷が、バレルの肩に刻まれる。
ガレオンの声が、霧の奥から低く響いた。
「……一人ずつ、確実に消す」
その声は、遠い。
そう思った次の瞬間――。
「まずは、ロブスターだ」
声は、バレルの背後にあった。
「なっ……!?」
バレルが振り向くより早く、銀色の鱗が霧を裂いた。
シュバッ!
鋭い一撃が、バレルの首筋を狙う。
「チィッ!」
バレルは咄嗟に肩を入れ、甲殻で鱗刃を受けた。
ギャリィッ!
硬い甲殻の表面に、深い傷が走る。
「クッ……!こいつ……いつの間に後ろに……!」
バレルが巨大なハサミを振り抜く。
だが、ガレオンの姿は霧に溶けるように消えていた。
残ったのは、薄く揺れる霧だけ。
ガレオンの声が、また別の方向から聞こえた。
「力はあるようだが、遅い。その程度か……貴様らは」
そして、腰の刀に手をかけた。
「……終わりだ」
鞘走りの音。
抜き放たれた刃は、白く澄んでいた。
露の粒のような刃紋が、霧の中で冷たく光る。
鍔元には、小さく文字が刻まれていた。
――玉露刀。
斬られた者は一瞬、甘い痺れを覚え、その直後に深い切口を知るという。
ガレオンは刃先をバレルへ向けた。
「……死ねッ!」
言い終えるや否や、ガレオンの姿が霧に沈んだ。
シュバッ!
次の瞬間、銀白の刀身がバレルの首筋へ走る。
「……!?」
バレルが振り向いた時には、刃はすでに喉元に迫っていた。
(やべぇッ……!?)
玉露刀の刃が、冷たい雫を散らしながら、首を断ちにかかる。
その刹那――
ヴォルグの視線が、霧の揺れを捉えた。
暗殺者の一人を拳で沈めた直後、ヴォルグは足元の鉄片を蹴り上げる。
「バレル!」
叫ぶと同時に、鉄片をガレオンの方へ蹴り込んだ。
ギィンッ!
鉄片が玉露刀の側面を叩く。
刃の軌道が、わずかに逸れた。
ギャリィッ!
玉露刀はバレルの首を断つ代わりに、肩の甲殻を深く削った。
斬撃の衝撃で、バレルの巨体が後方へ吹き飛ぶ。
ドガァッ!
背中が壁に叩きつけられ、埃が舞った。
「ぐっ……! あぶねぇ!」
バレルが膝を沈める。
ガレオンは霧の中で、わずかに目を動かす。
「ほう……よく読めたな。イルカ魚人」
ヴォルグは息を乱さず、ガレオンのいるであろう方向を睨む。
「フン……読めてはいないが、殺気の出どころくらいは分かる」
そこへ、バレルにトドメを刺そうと、霧の幻影兵が刃を振り下ろす。
その瞬間、横から飛び込んだジルの拳が、敵の手首を叩き落とした。
ガキンッ!
刃が床を掠め、火花が散った。
ジルはそのまま踏み込み、暗殺者の胸元へ蹴りを叩き込む。
ドガッ!
敵が霧の奥へ転がる。
ジルはバレルの前に立ち、拳を構えた。
「バレル、動けるか?」
「へっ……首は繋がってるぜ」
ジルは霧の奥を睨んだ。
「……このままじゃ、またやられる。まずは霧をどうにかしないと――」
バレルが立ち上がろうとした瞬間、背中が壁際の古い鉄管にぶつかった。
ゴン、と鈍い音が響く。
「……ん?」
バレルは振り返る。
壁の奥に、錆びついた太い鉄管が埋まっていた。
「……まだこれが生きてるかもしれねぇな」
その時、霧の奥で白い刃が揺れた。
ガレオンの玉露刀の冷たい殺気だけが、霧の中を滑るように近づいていた。
ヴォルグは床に落ちていた木の棒を拾い上げ、ジルとバレルの前に立った。
折れかけた棒切れ。
構えに迷いはない。
だが、ガレオンの足が一瞬だけ止まる。
(……この男、何者だ。読みが尋常ではない)
霧の奥で、ガレオンの口元から余裕の笑みが消える。
ヴォルグの目は、刃ではなく、踏み込みの起点を見ていた。
ほんの数秒。
ヴォルグが稼いだ、そのわずかな間に――。
「おい、ジル!」
バレルが、壁際の古い鉄管をコンコンと叩いた。
鈍い音が、霧の中に響く。
「こいつは……昔、この地下に風を送り込むために使ってた通風管だ」
ジルが振り向く。
「通風管……?」
バレルは、錆びついた通風管を睨みつける。
「こいつをぶち壊して、まだ風が流れてりゃ――この霧を押し流せるかもしれねぇ」
「何だって……!?」
ジルの声に、ヴォルグも霧を抜けて駆け込んでくる。
「……なるほど。やってみる価値はありそうだな」
ヴォルグは短く言い、霧の奥へ視線を戻す。
「霧が晴れた瞬間、ガレオンの位置が見える。そこを三人で狙うぞ」
ジルは頷き、バレルを見る。
「頼む、バレル」
バレルは巨大なハサミを構え、口角を吊り上げた。
「おうよ!」
ジルは拳を握る。
「……今度は、こっちの番だ」
霧の奥で、ガレオンが静かに刃を構え直した。
その周囲に、霧の幻影兵たちが音もなく散る。
一人、二人、三人。
逃げ道を塞ぐように、じりじりと距離を詰めてくる。
ガレオンの声が、霧の向こうから落ちた。
「……フン、無駄な足掻きだ」
霧が濃くなる。
刃の気配が、四方から迫る。
「バレル!」
ジルが叫ぶ。
「おうよ!」
バレルは巨大なハサミを振り上げ、錆びついた通風管へ叩き込んだ。
「どりゃあッ!」
ガンッ!!
鈍い衝撃が、旧補給庫の壁を震わせる。
鉄管がひしゃげ、表面に亀裂が走った。
次の瞬間――
フーッ!
小さく空いた穴から、冷たい空気が噴き出した。
細い風が、白い線のように霧を押し分ける。
ジルたちの周囲にまとわりついていた霧が、ゆっくりと流れ始めた。
足元が見える。
壁が見える。
霧の中に紛れていた影の輪郭が、わずかに浮かび上がる。
「……何っ!?」
ガレオンの声に、初めて鋭い揺らぎが混じった。
ジルは拳を握った。
(よし……!)
だが、霧はまだ完全には消えていない。
ガレオンが即座に指を動かす。
散った霧が、再びジルたちを包もうと蠢いた。
「させるかよ……!」
バレルが足を踏みしめる。
分厚い甲殻が軋み、巨大なハサミがさらに高く振り上がった。
「ぶちまけろッ!」
渾身の一撃が、通風管へ叩き込まれる。
バギィィンッ!!
錆びた鉄管が裂ける。
壁ごと砕け、通風管に大穴が空いた。
次の瞬間――
ゴォォォォッ!!
腹の底を揺らすような風が、旧補給庫へ一気に流れ込んだ。
霧が吹き荒れる。
床を這っていた白い靄が、風にさらわれて壁際へ散ってゆく。
天井近くの濃霧が渦を巻き、引き剥がされていく。
霧の幻影兵たちの姿が露わになった。
そして――。
ガレオンの姿も、霧の向こうから完全に浮かび上がる。
ヴォルグが叫ぶ。
「見えたぞ、ジル!」
ジルはすでに動いていた。
床を蹴る。
トビウオ魚人の脚力が、爆発する。
一瞬で距離が潰れた。
ガレオンが玉露刀を構える。
だが、遅い。
ジルの踏み込みはすでにガレオンの間合いを食い破っていた。
「……っ!」
ガレオンは肩を前へ出す。
ジルは腰を沈め、全身の力を拳へ乗せた。
トビウオ魚人の脚力が、床を蹴り砕く。
「……飛べぇッ!」
ドゴォォォン!!
ガレオンは咄嗟に片腕を差し出し、ジルの拳を受け止めた。
だが、衝撃は止まらない。
防御した腕ごと押し込まれ、ガレオンの身体が後方へ弾き飛ぶ。
ドガァッ!!
壁際の木箱へ叩き込まれ、埃が舞った。
それでもガレオンは、玉露刀を床に突き立てて踏みとどまる。
ジルは拳を引き戻し、奥歯を噛んだ。
「ッ……ほう、やるな」
口元に滲んだ血をぬぐいながらも、ガレオンは体勢を崩さない。
その隙を、バレルは見逃さなかった。
「まだ終わってねぇぞ!」
巨大なハサミが、横からガレオンを挟み潰すように迫る。
同時に、ヴォルグも動いていた。
折れかけた木の棒を低く構え、ガレオンの足元へ滑り込む。
上からバレル。
下からヴォルグ。
二つの攻撃が、同時にガレオンを襲った。
だが――。
ガレオンは玉露刀を引き抜くと、半身をずらした。
バレルのハサミが空を切る。
そのまま刀の峰でハサミの内側を弾き、軌道を外す。
ギィンッ!
続けて、ガレオンは足元へ迫る木の棒を踏みつけた。
バキッ!
折れかけていた棒が、完全に折れる。
ヴォルグはすぐに手を離し、身を引いた。
シュリンッ!
ガレオンの玉露刀が空を切る。
あと一瞬遅ければ、手首ごと斬られていた。
ガレオンは、玉露刀を静かに構え直す。
「連携は悪くはない……だが、まだ浅い」
そして、ガレオンは指先二本で宙をなぞる。
「……これならどう捌く——」
——直後。
ガレオンの指先が、ぴたりと止まった。
ギィン……。
立ち入り禁止区域の奥で、金属が軋む音がした。
ジルは眉を寄せる。
「……何だ?」
ジャリンッ……ジャリンッ……。
鎖が、無理やり引きずられるような大きな音だった。
次の瞬間――
ズゥン……!!
旧補給庫の床が、低く震えた。
壁に打ちつけられた古い警告札が、カタカタと鳴る。
天井から埃が落ち、砕けた木箱の破片が小さく跳ねた。
「……地震か?」
バレルがハサミを構え直す。
だが、揺れは一度で終わらなかった。
ズゥゥン……!!!
さらに重い地響き。
立ち入り禁止区域のさらに向こう。
封じられていた闇の底から、何かがこちらへ近づいてくる。
霧の幻影兵たちの動きが、止まった。
ギィンッ!!
鎖が弾けるような音。
直後、低く濁った唸り声が、第二階層全体を震わせた。
「ウオォォッ……!!」
空気が沈む。
ジルの肌が粟立った。
(!?……何だ、この猛獣の咆哮のような声は……!)
ガレオンは、闇の奥を睨んだまま動かない。
バレルも、ヴォルグも、自然とそちらへ視線を向けていた。
ジルもまた、拳を握ったまま目を逸らせない。
その場にいた全員の視線が、立ち入り禁止区域の奥へ吸い寄せられていた。
ズゥゥゥン……!!
そこに――巨大な鎖に繋がれた、ひとりの大男が、一歩踏み出して来る。
その男は、他の誰とも違っていた。
全身はボロボロの包帯に覆われ、
その上から、腕という腕に無数の鉄鎖が巻き付けられている。
「……ッ!? あれは……!」
ガレオンの声が、わずかに掠れた。
「奴は……『最下層』に幽閉されているはずの男……」
「誰が……俺を解き放った……」
「誰が……この鎖を解いた……!」
霧の奥で、暗殺者たちの呼吸がわずかに乱れる。
ガレオンの顔色が変わった。
「まずい……!」
ジルは拳を握りしめたまま、目の前の囚人をじっと見つめる。
(……空気が重い。こいつは今までの奴らとは……格が違う)
ズゥゥゥン……!!
彼が一歩踏み出しただけで、地面がわずかに沈んだ。
「……こいつは尋常じゃないぜ」
バレルは目を細める。
ガレオンは唇を噛み締め、低く呟いた。
「……まさか、本当に“封印区画”が破られたというのか……」
ジルが問いかける。
「知っているのか? こいつのことを」
ガレオンは一瞬躊躇し、静かに語った。
「あの男の名はカイゼル——かつて、このアビスロックで最も危険視された囚人の一人だ」
「……カイゼル?」
ジルがその名を反芻した瞬間、男の目が光った。
バチ……。
鎖の隙間で、青白い火花が弾ける。
バチバチバチッ……!!
闇が、雷光に照らされた。
ガレオンの顔が強張る。
「下がれ……! 奴を刺激するな!」
カイゼルは、ゆっくりと拳を握った。
「……この力……また、戻ってきたか」
ジャラ……。
鎖が鳴る。
旧補給庫にいる全員が、その音に息を呑んだ。
霧の幻影兵たちは、数歩後ろへ下がる。
ガレオンも玉露刀を構えたまま、わずかに間合いを取った。
バレルはハサミを構え、ヴォルグは低く身構える。
ジルだけが、一歩も退いていなかった。
拳を下ろさず、真正面からカイゼルを見返している。
包帯の奥で、カイゼルの目が止まった。
「……お前らは、何者だ?」
ジルは一歩前に出た。
崩れた壁と軋む床を背に、視線を逸らさず、静かに名乗る。
「俺たちは――蒼海の解放軍だ」
一瞬、空気が止まった。
「……蒼海の……解放軍?」
カイゼルは、その名を低く繰り返した。
包帯の奥の視線が、ジルたちを順に捉える。
ジル。
バレル。
ヴォルグ。
短い沈黙。
「知らんな……」
「当たり前だ」
ジルは即答した。
「俺たちは、この監獄を生き残り、抜け出すために組んだ」
ジルは一歩、カイゼルへ踏み出す。
「三大派閥のどこにも属さない、無所属連合――蒼海の解放軍だ」
「ほう……」
カイゼルの足元で、青白い火花が弾けた。
バチッ……!
包帯の隙間から漏れた雷光が、床へ走る。
次の瞬間――。
ドンッ!!
床が砕けた。
巨体が沈んだと思った刹那、雷光だけがジルの視界を横切る。
「――ッ!?」
瞬きの間に、カイゼルの影が消えた。
そして――。
ジルの目の前に、鎖を鳴らす巨体が立っていた。
「ッ!!?」
速い——!!
ジルは反射的に拳を構える。
カイゼルは、その拳を見下ろした。
「この監獄を抜け出すと言ったな……」
鎖が、低く鳴る。
「口だけかどうか――」
雷光が拳に集まった。
「試してやる……」
ドゴォォォン!!!
爆音とともに、拳が炸裂した。
ジルは跳躍し、紙一重で直撃を避ける。
「ぐっ……なんだ、この威力……!」
背後の壁が、砕け散る。
まるで床に叩きつけたガラス細工のように、粉々に。
だが、カイゼルの動きは止まらない。
砕けた壁の破片が落ちるより早く、巨体が横へ滑った。
バチッ!!
右脚に雷光が走る。
「――ッ!」
ジルが着地した瞬間、雷を帯びた蹴りが横から襲いかかった。
かわすには、遅い。
ジルは咄嗟に身体を沈めた。
ブォンッ!!
雷の尾を引いた蹴りが、頭上を通り過ぎる。
直撃は避けたが、かすめた電撃だけで、肩から腕へ痺れが走った。
「ぐっ……!」
ジルの膝が、一瞬だけ落ちる。
その隙を見逃すほど、カイゼルは甘くない。
カイゼルは、軽く手を開いた。
掌の上で、青白い雷が丸く収束する。
バチバチバチッ!!
雷光が、一直線にジルへ放たれた。
「ジル!」
バレルの声が飛ぶ。
ジルは歯を食いしばり、床を蹴った。
雷が、さっきまでジルのいた場所を貫く。
ドォンッ!!
床が爆ぜ、黒く焦げた亀裂が走った。
ジルは転がるように着地し、片膝をつく。
息が荒い。
雷撃は避けたが、床を伝った電流が足裏からじわりと這い上がってくる。
「ぐっ……」
指先が、わずかに震えた。
(避けても、削られる……!)
カイゼルは、握った拳をゆっくり下ろした。
一歩も追撃しない。
ただ、ジルの呼吸と足運びを見ていた。
「動きは悪くないな……」
カイゼルは淡々と呟く。
「だが……その程度か?」
バチバチバチバチッ!!!
さらに、体表に雷光が迸る。
ヴォルグが険しい表情で言った。
「……エレクトリックエイ魚人か」
カイゼルの足元に残る焦げ跡。
砕けた床。
雷を帯びた踏み込み。
ヴォルグは低く続ける。
「奴は、ただ放電しているだけじゃない。体内に蓄電した電力で、身体能力そのものを底上げしている」
ジルは息を整えながら、カイゼルを睨んだ。
ヴォルグの声が、さらに沈む。
「踏み込みも、反応も、拳の重さもだ。読めても、避けきれない」
「蓄電……?」
バレルが息を呑む。
「そんな能力……魚人でも限られた種族しか持たねぇぞ……。
しかも、ここまで制御できる奴は、そうそういねぇ」
ガレオンが低く呟いた。
「……カイゼルは単なる囚人ではない。
奴は……かつて、政府にとって最大の脅威となる存在だった」
「最大の……脅威?」
ヴォルグが警戒しながら問うと、ガレオンは険しい表情で続けた。
「――『嵐喰らいのカイゼル』。
政府が“災害”として扱った男、
かつて、ただ一人で海軍の艦隊を沈めた男だ」
「……フン」
カイゼルの視線が、ゆっくりとガレオンへ向いた。
ガレオンは玉露刀を構えたまま、低く問う。
「第三階層の封印区画……あの堅固な牢から、どうやってここまで這い出てきた?」
カイゼルは、一瞬だけ沈黙した。
鎖が低く鳴る。
「……ハッ」
乾いた笑いが、包帯の奥から漏れた。
「俺にもわけが分からん」
カイゼルは、自分の腕に巻きついた鉄鎖を見下ろす。
「気づいたら、ここにいた……」
「……何だと……?」
ガレオンが小声で呟く。
その反応を見て、カイゼルの目が変わった。
包帯の奥から、雷光が薄く漏れる。
「貴様らは――忍びの類か」
霧の幻影兵たちが、身構える。
カイゼルの視線が、黒装束の囚人たちを順に捉えた。
「霧に紛れ、影から刃を入れる……」
鎖が、低く鳴る。
「影虎の手の者だな」
ガレオンの眉がわずかに動いた。
「……だとしたら、何だ」
(影虎……?)
ジルの胸に、その名だけが引っかかった。
カイゼルの声が低く沈む。
「あの男なら封印区画の牢を破るのも、たやすいだろう」
青白い火花が拳に走る。
「俺を檻から引きずり出したのも……貴様らの策か」
「違う。待て……カイゼル――」
ガレオンが言い切る前に、雷光が床を走った。
バチィッ……!!
次の瞬間、霧の幻影兵の視界いっぱいに、鎖を巻いた巨体が迫っていた。
「ッ――!?」
黒装束の一人が刃を構えようとするが――遅い。
雷を帯びた拳が、横から叩き込まれた。
ドゴォッ!!
霧の幻影兵の身体が壁へ叩きつけられる。
骨の軋む音が、旧補給庫に響いた。
「散れ!」
ガレオンの声が飛ぶ。
だが、カイゼルはすでに次へ動いていた。
雷を引く脚が、横薙ぎに走る。
バチィッ!!
黒装束が、床を転がるように吹き飛ばされた。
その側方――三人目の黒装束が、足元から霧を噴き上げた。
そのまま霧に紛れ、後方へ身を引く。
だが――カイゼルの目は逃がさない。
床を走った雷光が、霧の中の影を照らし出した。
「フン……」
雷が走る。
バチィッ!!
黒装束の身体が痙攣し、霧の中から弾き出された。
ヴォルグが低く息を吐く。
「……霧の幻影の動きが、読まれている……」
バレルがハサミを構え直す。
「なんつう速さだよ……あの図体で」
ジルは息を呑んだ。
(……ガレオンたちが、押されている……!?)
ジルはカイゼルから目を離せなかった。
(こいつは、強いとか速いとか……そういう次元じゃない)
ガレオンの表情が強張る。
「間合いを取れ! 一点に固まるな!」
その指示が飛んだ時には、カイゼルはすでにガレオンの眼前に迫っていた。
「……っ!」
玉露刀が閃く。
ギィンッ!!
カイゼルの拳と玉露刀がぶつかり、雷光と火花が弾けた。
ガレオンは刃を斜めに流し、衝撃を逃がそうとする。
だが、重い。
受けた腕に、痺れが走る。
「貴様……!」
カイゼルは低く笑った。
「フッ、忍びにしては、骨があるな」
さらに拳が振り上がる。
青白い雷が、拳の周囲で膨れ上がった。
ガレオンは一歩、後ろへ引いた。
逃げたわけではない。
左手の人差し指と中指を揃え、霧の残滓が漂う空を切る。
スッ――。
その瞬間、ガレオンの輪郭がわずかに滲んだ。
カイゼルの拳が振り下ろされる。
ドゴォォン!!
拳が床を砕いた。
だが、砕け散ったのはガレオンの身体ではない。
霧で作られた、薄い残像だった。
「……小細工を」
カイゼルの声が低く響く。
その横合いから、銀白の刃が走った。
シュリンッ!!
玉露刀が、カイゼルの脇腹の包帯を浅く裂く。
青白い火花が、裂け目から散った。
赤い血が、わずかに滲む。
しかし傷口は、雷光に焼かれるようにすぐ黒く焦げた。
ガレオンは即座に距離を取る。
「深くは入らぬか……やはり化け物だな」
カイゼルは裂けた包帯を一瞥し、低く笑った。
「……悪くない」
拳に雷光が集まる。
「だが、次は逃がさん」
バチバチバチバチ……!!
「……おい、ジル。俺たちも入るか?」
バレルが巨大なハサミを構え直す。
だが、ヴォルグが低く止めた。
「……無理だ。今の俺たちが割って入っても勝てる相手じゃない」
ジルはカイゼルの拳を見つめた。
(さっきのは、俺を試しただけだ……)
雷光が、さらに濃くなる。
(だが、今度は違う。本気で潰しに来る……)
ジルは奥歯を噛む。
「……けど、このまま霧の幻影が潰されたら、次は俺たちに来る」
ジルはカイゼルを睨んだ。
「倒せるかは分からない。だが、ガレオンたちが引きつけている今なら、隙はある」
バレルのハサミが、ぎり、と鳴った。
ヴォルグも、無言で重心を落とす。
カイゼルの拳に集まる雷光が、旧補給庫の影を青く染める。
ガレオンは構える。
バレルも、ヴォルグも、ジルも動けない。
誰かが一歩でも遅れれば、次の瞬間には潰される。
それほどの圧だった。
カイゼルの拳が、次の一撃を繰り出そうとした――その時。
「そこまでだ、カイゼル」
突如、冷徹な声が通路を切り裂いた。
ジルたちが振り向く。
そこに立っていたのは――
シャチ魚人の監獄長、ギルバートだった。
その背後には、数名の重装備の看守たちが無言で控えている。
ブゥンッ……!
カイゼルの拳にまとわりついていた雷光が、低く唸った。
ガレオンへ向けられていた殺気が、ふっと途切れる。
その一瞬を、ガレオンは見逃さなかった。
玉露刀を構えたまま、音もなく数歩後ろへ下がる。
カイゼルはゆっくりと首を動かした。
包帯の奥の視線が、ギルバートを捉える。
カイゼルの表情が、かすかに変わった。
「……監獄長ギルバート」
雷光の奥で、カイゼルの瞳が細く光った。
「お前か……俺を第三階層に閉じ込めた張本人は」
「そうだ」
ギルバートは、一切の感情を乗せずに言い放つ。
「どうやって封印区画を抜け出したかは知らんが……貴様のような特級危険囚を、この第二階層に野放しにしておくわけにはいかん」
ギルバートは静かに拳を握る。
その動きだけで、背後の重装備看守たちが一斉に構えを取った。
「今ここで、貴様を再び封じる」
二人の視線が、空気を押し潰すようにぶつかる。
一瞬の沈黙。
時が止まったかのような、一触即発の空白。
(監獄長……ギルバート!)
ジルは、強く歯を食いしばった。
掌に滲んだ汗が、指の間を伝う。
深海監獄アビスロックの歴史が、今まさに、血で塗り替えられようとしている。
その渦の中心に、ジルはすでに立っていた。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もし物語を面白いと感じていただけたら、
あなたの一票(=★評価・ブックマーク)が、
監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




