CHAPTER19『霧の先へ』
深海監獄アビスロック第二階層。
束の間の静けさが、そこにあった。
だが――
この監獄において、その静寂は長くは続かない。
ジルは黙々と、バレルが持ち帰ってきた乾パンを齧っていた。
隣では、バレルが荒々しくそれを頬張っている。
ボリ、ボリと硬い音が、木の壁に鈍く響く。
その横で、レクスはどこから持ち込んだのか、葡萄酒の瓶を傾けていた。
ジルは無言のまま乾パンを噛み締める。
(……やはり、この監獄を脱出するには――第三階層に何か手がかりがあるはず……)
顔を上げる。
「……バレル」
低く呼びかける。
「お前、看守だった頃……第三階層に行ったことはないのか?」
バレルは乾パンを頬張ったまま顔を向ける。
「んあ?」
口の中のものを噛み砕きながら、肩をすくめた。
「俺はここ――第二階層の巡回専門だった。下に降りたことはねえ」
レクスが酒を飲みながら笑う。
「乾パンかじりながら脱獄計画か……いいねぇ」
ジルがふとレクスの手元に視線を落とす。
わずかに、甘く発酵した匂いが鼻をかすめた。
「……配給にも酒があるんだな」
バレルが即座に噛みつく。
「ねえよ!」
鋏を鳴らし、レクスを睨む。
「……お前、どっからそんなモン持ち込んだんだ?看守の中でも酒が飲めるのは、上の連中だけだぞ」
レクスは肩をすくめ、瓶を軽く揺らした。
「……ヘッ、バシリスクやドゥームの野郎どもはな、配給でたまに入るブドウを使って部下にプリズンワイン(監獄酒)を作らせてるらしい」
口元をわずかに歪める。
「これは、そのバシリスクとサシで話した時に土産だっつってもらったやつだ」
瓶を軽く差し出す。
「どうだ?お前らも、少しくらいならいいぞ?」
ジルは小さく首を振り、手を上げた。
「……いや、いい」
バレルもすぐに吐き捨てる。
「いらねえよ!」
鋏を鳴らし、鼻を鳴らす。
「いつ他の派閥の連中が攻め込んできてもおかしくねえんだぞ」
「……ったく、緊張感のねえ野郎だな」
提灯の火が、ゆらりと揺れ、乾パンを噛む音だけが静かに響いていた。
その時――
アジトの扉が勢いよく開いた。
バンッ!
ヴォルグが扉を蹴破るようにして飛び込んでくる。
「……はぁ、はぁ……大変だ……」
荒い息のまま、低く言い放つ。
「とうとう――戦争が始まるぞ」
ジルが弾かれたように立ち上がる。
「何だって!?」
バレルも顔を上げる。
「どこが動きやがった?」
ヴォルグは短く息を整え、答えた。
「……沈黙の牙と霧の幻影だ」
一瞬の間。
「情報屋の話によると、霧の幻影のボス――影虎が、沈黙の牙の幹部を暗殺したらしい」
ジルは固唾を飲み、拳を握る。
その場の空気が、わずかに張り詰めた。
レクスが酒瓶を揺らし、口元を歪める。
「そりゃあ……ただの小競り合いじゃ済まねぇだろうな」
バレルが低く唸る。
「……で、俺たちはどうする?」
短い沈黙。
ヴォルグが静かに口を開いた。
「……ここは、手を出さず様子を見るべきだ」
目を細める。
「下手に動けば、巻き込まれる」
ジルはゆっくりと頷いた。
「……ああ」
だが、そのまま言葉を続ける。
「ただ――なぜ影虎が沈黙の牙の幹部を暗殺したのか……理由だけは掴んでおきたい」
視線を上げる。
「情報を集めるぞ」
バレルが短く頷いた。
「おう」
ジルはすぐにヴォルグへ視線を向ける。
「ヴォルグ、もう一度市場に出る。 ……俺も行こう」
ヴォルグはわずかに眉を寄せる。
「ああ……わかった」
だが、そのまま低く続けた。
「……ただ、沈黙の牙の動きなら情報屋を当たればある程度は読める。
だが――霧の幻影は別だ」
腕を組み、静かに言う。
「奴らは“見せない”。気配も、痕跡もな」
一瞬、空気が張り詰める。
レクスが酒を揺らしながら、喉の奥で笑いを転がした。
「いいじゃねぇか。見えねぇ敵ほど、退屈しなくて面白ぇぞ」
バレルが顔をしかめる。
「笑ってる場合じゃねえだろ……お前、酔っぱらってんのか?」
レクスは鼻で笑い、瓶を軽く揺らした。
「いや、まだ全然足りねぇ」
バレルが舌打ちする。
「ダメだこりゃ」
ジルはそのやり取りを断ち切るように言った。
「……だからこそ、こっちから情報を取りに行く」
拳を握る。
「影虎の狙いを掴めれば、この先の流れが読める」
ジルは視線をバレルへ向ける。
「バレル、ここは任せる」
バレルが立ち上がり、肩を回す。
「任せろ。誰もここには近づけねえ」
一拍置き、レクスを見る。
「レクス……お前も残れ」
目を細める。
「この監獄の流れを読めるのは、お前みたいな奴だ」
レクスは口元をわずかに歪め、瓶を軽く揺らした。
「 ま、俺は俺で“流れ”でも眺めてるさ。いい酒のつまみにはなりそうだ」
わずかに横目でバレルを見る。
「頼もしい番犬もいることだしな」
バレルが鋏を鳴らす。
「おい、誰が番犬だ。酔いどれアンコウには言われたくねえな」
レクスは笑う。
「いいじゃねぇか。酔いどれアンコウと番犬、いいコンビだ」
バレルが舌打ちする。
そのやり取りに、ヴォルグが小さく息を漏らす。
ジルもわずかに口元を緩めた。
だが――
すぐに表情を引き締める。
「……行くぞ」
ヴォルグも頷き、すぐに後を追った。
こうしてジルとヴォルグは、沈黙の牙の動向と影虎の狙いを探るため、マーケットへと足を踏み出した。
第二階層中央通路――
マーケットへと続くこの通りは、普段なら囚人たちで賑わっている。
だが今日は、人影がまばらだった。
ざわめきは消え、どこか張り詰めた空気だけが漂っている。
物陰の奥で、気配だけがわずかに揺れていた。
ジルは歩きながら、周囲に目を走らせる。
「……やけに人が少ないな」
隣を歩くヴォルグが、静かに頷いた。
「ああ……静かすぎる」
ジルは足を速める。
「……急ごう。いつ、どこで始まってもおかしくない」
ヴォルグが短く応じる。
「――この空気は、良くない」
やがて、ジルとヴォルグはマーケットへと辿り着いた。
だが――そこに広がっていたのは、いつもの光景ではなかった。
バラックは並んでいる。だが、それぞれの店の主の姿がない。
呼び込みの声も、ざわめきも消え失せ、通りには不自然な静けさだけが満ちていた。
転がった瓶が、カラン……と乾いた音を立てる。
その音だけが、やけに大きく響く。
――視線は、ある。
だが、姿が見えない。
そして、中央の広場に出た瞬間、ジルの足が止まる。
転がる死体――
沈黙の牙が四人、霧の幻影が三人。
血はまだ乾ききっていない。
ジルが息を呑む。
「……もう、始まっているのか……!?」
ヴォルグが周囲を見渡す。
「そのようだな。無所属の連中は、巻き込まれぬよう息を潜めている」
ジルは足元へ視線を落とす。
転がる死体――その時。
――ピクリ。
ジルの目が細くなる。
「……今、動いたか……?」
ヴォルグも反応する。
「何……?」
次の瞬間――
死体だと思われていたその身体が、わずかに揺れた。
――ガ……カハッ……!
喉の奥から、血を絡めた空気を吐き出すような音。
霧の幻影の兵と思しき黒装束のカマス魚人の男が、痙攣するように息を取り戻す。
ジルはすぐに駆け寄る。
「おい、大丈夫か!」
男の目がかすかに開いた。
「う、あ……!? だ、誰だ……」
「俺は蒼海の解放軍――ジル・レイヴンだ」
「……蒼海の……解放軍……」
ジルは男の状態を見極め、息を詰める。
「すぐに救護小屋へ連れていく」
そう言ってヴォルグに目を向ける。
ヴォルグも無言で頷いた。
だが――
「……ま、待ってくれ……」
男が震える手で、ジルの腕を掴む。
「頼みが……ある……」
ジルの眉が動く。
「何だ」
男は息を絞り出す。
「……俺を……影虎様の元へ……連れていってくれ……」
ジルの表情が一変する。
「……何だと?」
「だが、このままじゃ命が――」
「いや……」
男はかすかに首を振る。
「霧の幻影のアジトにも……療養部屋がある……」
男の瞳に、焦りが滲む。
(それに……一刻も早く……影虎様に……伝えねば……)
――罠か。
――それとも、好機か。
ジルは一瞬で、答えを出す。
そして短く息を吐いた。
「……わかった」
「案内しろ。俺たちも、影虎とは話をしたいと思っていた」
ヴォルグは一歩前に出ると、男の身体を背に担ぎ上げた。
「どっちだ? 急ぐぞ」
男はかすかに頷く。
「……ああ……すまない……給排水区画の裏側にある通路へ……」
ヴォルグが短く応じる。
「……わかった」
ジルは周囲を一瞥し、頷く。
「よし、行くぞ」
三人は足早にその場を離れる。
給排水区画奥通路――
マーケットの喧騒は、すでに遠く、代わりに湿った空気が肌にまとわりつく。
やがて通路は狭まり、壁際を走る配管から水滴が落ちる。
ポタ……ポタ……と、規則的な音だけが響いていた。
足音がやけに大きく反響する。
――誰もいないはずなのに、どこかで気配が動く。
ジルは視線を巡らせたまま、歩みを緩めない。
カマス魚人はヴォルグの背で、かすれた声を絞り出す。
「……そこの分岐を……右だ……」
ジルが即座に進路を変える。
「こっちか」
しばらく進んだ先で、再び声が落ちる。
「……次……左に……隠し通路がある……」
ジルは足を止める。
瓦礫と岩に閉ざされた行き止まり。
だが――よく見ると、わずかな隙間がある。
「……こんな所に」
ヴォルグが低く呟く。
「道理で、誰も見つけられんわけだ。霧の幻影のアジトは」
その時――
空気が、わずかに揺れた。
「……動くな」
頭上から、声が降った。
ジルとヴォルグが同時に視線を上げる。
配管が張り巡らされた天井。
その上に、ひとりの影が立っていた。
黒装束に身を包んだ霧の幻影の兵――
アオリイカ魚人の男が、音もなくこちらを見下ろしている。
その刹那――男が目を見開く。
「……!? クロウ! どうした!」
その視線が、ヴォルグの背のカマス魚人に突き刺さる。
クロウと呼ばれた男は息を荒げ、絞り出すように言う。
「……ヴィクターの暗殺に……失敗した……」
「その後、マーケットまで逃げたが……ローレンス達に挟撃され……全滅だ……」
クロウの言葉を受け、ジルの瞳がわずかに細まる。
(ヴィクター……? 誰だ?
……だがローレンス……あいつが絡んでいるのか)
胸の奥で、微かな警戒と緊張が高まる。
「何だと……!?」
男の顔が強張る。
「とにかく手当が先だ――!」
そして、ジルとヴォルグへ視線を移す。
「……何者かは知らんが、礼を言う」
配管から軽やかに降り立ち、クロウへ手を伸ばす。
ヴォルグは無言でクロウを肩から降ろした。
男はクロウの腕を取り、すぐに体勢を整える。
「ここから先は我々が引き受ける」
そう言って、隠し通路へ足を向ける――
「待ってくれ」
ジルの声が背を止めた。
「俺たちは、影虎と話がしたい」
男は足を止めたまま、低く問う。
「……お前たちは、何者だ」
ジルは一歩も引かずに答える。
「蒼海の解放軍だ」
わずかな沈黙。
男は振り返らずに言い放つ。
「……影虎様が、お前たちと話す理由はない」
その時。
クロウが、かすれた声で割って入る。
「……待ってくれ……」
「こいつらは……俺をここまで繋いでくれた……」
クロウはわずかにジルへ視線を向けた。
「……それに、こいつらは利用できる……」
ほんの一瞬だけ、視線が止まる。
「……影虎様にとっても、無視できないはずだ……」
クロウの視線を受け、ジルの目がわずかに細まる。
何も言わず、ただ前を向いた。
通路の前で、男の足が止まる。
その沈黙はやけに長く感じられた。
静寂の奥で、何かが軋む――
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もし物語を面白いと感じていただけたら、
あなたの一票(=★評価・ブックマーク)が、
監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




