綻び
「――助けて!」
女の子の声を聞いた気がして、僕はふと目を覚ました。
ただ、いつもとは違う女の子の声だったような――。
目の前には、廊下が続いている。
リノリウムの床の上をワームが這っている。
床だけじゃない。
石膏ボードの天井にもワームが張りついていた。
「これがワームホールの中?」
安峰さんが雨に濡れた金髪をかき上げながら言った。
「うちの学校みたいじゃん」
確かにテクスチャーは築地南高と同じである。
でも、構造はまったく違うし、窓の外には紫色の気体が渦巻いている。
「似ていて当然だ。ネストはワームがマザーから吸い出したメモリーを元に、でたらめに再構築した迷宮だからな」
ケット・Dが説明する。
「マザー?」
「ワームに寄生された母体のことだ。つまり、貴様の学校関係者が寄生されているんだろうな」
それって、まさか――。
「そんなことより、ひとこと苦言を呈させてもらっていいだろうか」
三剣が髪をセットし直しながら言った。
「なぜ、華嵐君にあんなアプリの使用を許可した? おかげで、みんなずぶ濡れじゃないか」
三剣の隣りでは、斜木が眼鏡を外して水滴を拭っている。
「そう言ってやるな。吾輩はただ、今日のところは華嵐の出番はもうないから、まあいいかなと思ったんだよ」
え? 中三川さん来てないの――?
なんて思いながら、後ろを振り向くとちゃんといるじゃないか。
いないのは、クー・Dだけだ。
宣言していた通りに、本当に帰ってしまったらしい。
「中三川さんの出番、もうないんですか?」
「いやあ、私の攻撃アプリは建物の外でしか使えないんだよね。ここだと多分、〈アタック〉しか使えないよ」
中三川さんがシュッシュとシャドーボクシングを始める。
「大丈夫だよ。私が華嵐ちゃんを守るから」
「美呼! 頼りにしてる!」
ずぶ濡れの新宅さんに、ずぶ濡れの中三川さんが抱きつく。
「とりあえず、流伽。全員に〈スタビライズ〉を使ってくれ」
「あたしのアプリで服とか乾いちゃうんだ?」
「だよ」
「やってみよ」
安峰さんが〈スタビライズ〉を順番に使う。
ケット・D、僕、芭蕉先輩、中三川さん、新宅さん、斜木、そして三剣、そして安峰さん自身にも。
「でも、こんなにクォータを消費して大丈夫なの?」
僕はケット・Dに尋ねる。
「貴様が〈ロールバック〉を使えば元に戻るだろうが。そもそも、今回のネスト攻略はお試しのつもりだしな。3回トライして無理なら、いつも通りにワームホールを閉じればいいじゃないか」
「いや、もうそこまで巻き戻せない気がするんだけど――」
僕の言葉にケット・Dが目を丸くする。
「なんでだ?」
「ワームホールに飛び込んだ時、眠りに落ちる感覚なかった?」
「――あったかも」
「でしょ? だから、もうこの時点までしか巻き戻せないと思う」
「使えねえ!」
「いや、そういう仕様だって言ったじゃん!」
「まったく、計画がめちゃくちゃじゃないか。まあ、吾輩は〈トランスポート〉で脱出できるから別に困らないけど――」
ケット・Dが無責任に言う。
クー・Dとの口論で配下を残したまま逃亡しないとか言ってたのは、どうやら口からでまかせらしい。
「――出口とかないの?」
さっき振り返った時、後ろは袋小路だったのだ。
「そんなもんあるか。ネストを攻略する他に貴様らに生き残る道はない」
ケット・Dは非情にそう告げた後で、「待てよ――」と言った。
「貴様にはもう1つだけ手段がありそうだ」
「それって――どんな手段?」
僕は期待を込めて尋ねた。
「攻略が無理そうだったら、弦音に土下座して〈トランスポート〉を使ってもらえればいい。それで脱出できる」
「クォータ、あと1だけじゃん。芭蕉先輩の分でしょ」
「じゃあ、やっぱりネストを攻略するしかないな。弦音。〈マップ〉を開いてくれ。入口が1つしかない部屋があるはず。そこがコアルームだ」
どうやら〈マップ〉は、ネストの中で効果を発揮するアプリだったみたいだ。
「そうしたら、私が道案内役だね」
芭蕉先輩を先頭に、僕たちはネストの中を進み始めた。
複雑な道順だ。
でも、〈マップ〉のおかげで迷うことはない。
危険も別にない。
ワームなら何匹も見かけたけれど、どれもアンチワームだった。
僕たちが近付くと勝手に逃げていくので、倒す必要もない。
そんなわけで、僕たちはあっさりと目的地に辿り着いてしまった。
「この部屋がそうみたい」と芭蕉先輩が言った。
廊下の突き当りがドアになっている。
突き出しのドアプレートがあるけれど、何が書いてあるのか読めない。
ワームの文字なんだろうか。
まさにミミズののたくったような字である。
「開けるよ」
芭蕉先輩がドアを開けた。
部屋の中は教室のようになっていた。
机と椅子が整然と並べてある。
正面には電子黒板。
ワームの文字で何かが表示されているけれど、読めない。
電子黒板の前には教卓。
まるで祭壇に捧げられた生贄のように、その上に1人の女子生徒が横たわっていた。
袖なしのブレザーは季節外れの夏服だ。
「倉増さん!?」
芭蕉先輩が名前を呼びながら、教卓に駆け寄る。
数か月前から行方不明になっている築地南高の女子生徒の名前だ。
「弦音! 不用意に近寄るな!」
ケット・Dが呼び止めた。
でも、芭蕉先輩はすでに近寄った後。
直後、ドオン! という轟音が聞こえたかと思うと、衝撃で僕は吹っ飛ばされていた。
粉塵が舞う中、床の上に転がった僕が見上げる目の前では、黒光りする巨大なムカデが赤い頭をもたげていた。
天井に大穴が開いていて、こいつはそこから現れたらしい。
大穴からはワームもぼとぼとと落ちてきているけれど、まずはバグを何とかしないと。
僕は慌てて〈バックスラッシュ〉を開いてスマホを振った。
斬撃のエフェクト。
それが牽制になって、バグは僕から狙いを変えたらしい。
凄まじい速さで僕の横を通り抜けたバグが、入口のドアに突っ込んだ。
ドアがすっ飛び、廊下の方からいくつもの悲鳴が上がる。
「安峰さん!」
バグの赤い頭が安峰さんを捕らえていた。
安峰さんを攫ったバグは、そのまま廊下を驀進して姿を消してしまった。
廊下に安峰さんが取り落したスマホが転がっている。
安峰さんが自力でバグから逃れるのは、まず無理だ。
助けに行かないと。
バグを追って教室を飛び出そうとした僕は、しかし、教室の中で上がった別の悲鳴に足を止められた。
振り向けば、芭蕉先輩にワームがまとわりついていた。
「オンナ――! オンナ――!」
「オンナ――! オンナ――!」
「オンナ――! オンナ――!」
「メールワームだ!」とケット・Dが叫んだ。
「こいつは高LVの女に集団で襲いかかる習性を持っているんだ!」
ワームが芭蕉先輩の足を這い上がっていく。
もうワームの頭は、芭蕉先輩のスカートの中にまで入り込んでいる。
そんな芭蕉先輩の足元に六芒星の紋様が現れた。
〈トランスポート〉を使ったみたいだ。
「あ、弦音! 貴様、逃げるのか!」
ケット・Dが非難する。
まあ、今回はいろいろ無理かな。
僕は〈ロールバック〉を開いて実行ボタンを押した。
瞼が重くなる。
完全に眠りに落ちる前に、僕は芭蕉先輩がワームと一緒に消えるのを見た。
ワームにまとわりつかれた後だと、〈トランスポート〉では逃げられないらしい。
そう。
思い返せば、この〈トランスポート〉――そして、この〈ロールバック〉が原因だったのだ。
芭蕉先輩の秘密。
1度は完全に守られたはずの見るなのタブー。
それが綻び始めた瞬間だった。
僕はずっと後になってそれを知ることになる。
2025/03/16:誤記の修正




