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次のきっかけになったのは、とある休み時間だった。図鑑好きのそいつはお喋りに夢中になるあまり、床に転がった自分の消しゴムに気付いていなかった。俺はもうそいつの取り巻きではなくなっていたが、席が近かったので消しゴムに気付いた。
自分の名前は、結構気に入っていた。それが一時とは言え、そいつの一言があったためだけに、クラスの笑いの中心となった。わざと消しゴムを踏んづけ、自分の近くにずり寄せた。やっと指を使わずに読めるようになった時計の針を確認し、チャイムが鳴る寸前に、さも今しがた自分の消しゴムを落としたかのような素振りで、そいつの消しゴムを拾って筆箱に入れた。小さな罪悪感が、ぱっと芽吹いた。ちょっとした仕返しだと良心に弁明すると、罪悪感は少し萎んだ。授業が始まり、消しゴムがなくなったことに首を捻るそいつの横顔を見て、もっと萎んだ。反対に、微炭酸のようなすっきりした爽快感が膨らんだ。
克明に記憶しているのは、そこまでだった。以降にどういう経緯があって、完全に手癖になってしまったのかは、不可解なことに自分でもわからなかった。ただ、標的を様々に、いろいろなものを盗ったことは覚えていた。メモ帳、チョコレート、糊、菓子パン。くすねたはいいが、どうでもよくなりすぐに捨てたものもあった。あの消しゴムだけは何故か筆箱に入れたまま暫く置いていたが、最終的には路上に捨てた。
親に叱られながら、泣かせながら、ときになにかの施設で2週間程過ごし、また家に戻り、危うい均衡の月日を過ごした。その間の一定期、葉を傘みたいに生い茂らせる木があるせいで余計に狭い家の庭に、茶色い斑模様の野良猫が住み着いていた。親は、家にあげることはなかったが、その猫をもみじと呼んで可愛がっていた。もみじがもみじと名付けられたことを知った瞬間、俺の中で、ようやく緩く結びつきかけていた糸がするりと解けた。それは秋のことではなかった。
真也と同じ部屋で過ごすようになってからも、手癖に変化はなかった。さすがにわざわざ外に出てなにかを盗ることはなかったが、意味もなく職員用のボールペンを掠めたり、大浴場の石鹸を持ち帰ったりしては、ひとりひとつ与えられる小ぶりの学習机にこれ見よがしに置き晒した。真也は一度だけなにか言いかけたが、なにも言わなかった。
ボールペンも石鹸も、いつの間にか学習机から消えていた。真也がそれとなく元の位置に戻していたのではなく、食堂や洗面所の隅といった、それぞれの品がうっかり置き忘れられたと解釈されそうな場所に移動させていたことは知っていた。別に鬱陶しくはなかった。応じたことなんて一度もないのに、飽きもせずにトランプやピアノやアニメ鑑賞に誘ってくる真也に興味がなかった。振り返るまでついてくるということもなかったので、尚更どうでもよかった。
霧のような雨が屋根を打つ、週末の昼下がりだった。あまりにも暇なので図書館で勝手に抜き取ってきた小説を眺め、飽きてはいつもよりも浮き出したような窓越しの葉を眺め、また飽きては文章に戻り、といったスパンをベッドで繰り返していると、部屋の外が妙に騒々しいことに気付いた。
栞の紐を挟んで本を横に置き、身体を起こした。残念ながら真也側のテリトリーにあるドアノブを捻ると、目の高さに緑色のまんまるがふたつ現れた。
「ツナ!」
抱えられた濡れた子猫の名前だと行き着くまでに、3秒かかった。真也は右上のちょっと変な位置から生えかけた歯を覗かせ、息をつきながら、とても楽しそうに笑っていた。
ツナは無抵抗に後ろ足をぶらつかせていた。
「ゆーくん、見て。ツナ」
「しり」
「おしり?」
まるで伝わっていなかったので、手で示した。
「ちゃんと支えてやらないと。足のとこ」
真也は胸元でツナを抱き直した。ツナは大人しく、ときどき頭を動かすくらいでされるがままだった。一瞬大きく開けた口から見えた牙に、ツナっぽい白いものが引っかかっていた。
若い職員さんを含めたギャラリーが集まっていた。長い髪をポニーテールにまとめたその職員さんを、真也は振り切ってきたようだった。施設の敷地内に迷い込んだ猫を、真也が抱えて走ってきた構図は容易に想像できた。こいつがすばしっこいことは、聞いてもないのに喋り続ける内容から知っていた。
「いっしょに住むことにした。いいでしょ」
猫という生きものを初めて見たとでもいうような、真也はかなり興奮した様子だった。腕の中のもふもふの感覚に夢中で、ポニーテールの職員さんの困り顔の説得も、途中参加と思しき年配の職員さんの優しい諭しも、まるで聞こえていないかのように真也は目をきらきらさせてツナに食い入っていた。
「ゆーくんもいっしょにお世話しようよ。きっとたのしいよ」
「無理」
「なんで」
「困らせんな」
俺の目線を、真也も追った。踵を反転させ、肩を少し動かした。周囲がやっと見えた様子だった。
ツナと住めない理由を、真也は黙って聞いていた。子どもたちのギャラリーは、だんだん散っていた。俺はバカみたいに突っ立って一切口を挟まず、しまいには真也とふたりの職員さんだけになった絵面を眺めていた。
ペットを飼うのはとても大変なこと。学校もある子どもだけで、全部の世話はできないこと。猫アレルギーの子がいるかもしれないから、例えすべての面倒をこなせたとしても難しいこと。今いなくても、今後、細かい毛にも反応してしまう子が来たとしたら。穏やかに降り注ぐ正論に、真也は少しずつ顔を曇らせた。腕にぎゅっと力を込め、時折ツナの両耳の間を摩りながら、真也は顎を引いた。それが頷いたのではなかったことは、すぐにわかった。
「いっしょがいい」
面倒を見られないと言って捨てるわけにはいかない。実家に猫がいるので相談してみる、とポニーテールの職員さんが笑いかけた直後だった。
空気が変わった。膝を折っていた年配の職員さんも、中腰だったポニーテールの職員さんも、目を見合わせた。俺も驚き、真也のちょっとしたくせっ毛の黒髪を見つめていた。気分屋だが素直で聞き分けがいい、と当初聞いていた情報が頭を擡げた。
いい加減地上に戻りたいというように、ツナはもぞもぞと蠢いていた。
だからね、と年配の職員さんが髪を耳にかけながら言ったときだった。真也は、短く喉を鳴らした。
「いっしょがいい!」
耳が切れるような高い声に、知らず肩が跳ねた。気づいたときにはもう、ツナは真也の肘を蹴っていた。ポニーテールの職員さんが一瞬迷い、中年の職員さんと目配せして、ツナを追いかけて走り去った。
ほんの僅かな間だけ、真也の呼吸が止まった。次の瞬間にはもう、小さな子どもが泣き出すお約束の、掠れた声と鼻を啜る音が聞こえていた。
目を擦ろうと持ち上げられた真也の手首を、血管の浮いた手が火のつく勢いで掴んだ。背中が反り、始まりかけた大声が一瞬途切れ、でも結局真也は大きく息を吸った。
真也は両手首を片手で抑えつけられ、もう片方の手で背中を押され、無理矢理引っ張られるように職員さんに連行されていった。真也はずっと声をあげていた。ふたりの姿が広い洗面所のほうに見えなくなっても、今まで見てきた真也からは結びつかない、異常な嗚咽が轟いていた。俺は何故かその場を動けず、顔を逸らすことさえできず、外の雨音を掻き消して響き続ける泣き声から逃げられなかった。
翌朝、専用の小皿を置いて保護していたツナがいなくなったことが判明した。俺から伝えられたそれを、まだベッドから出ていなかった真也は、ふうん、と背中で聞き流した。




