3
布団は一組しかないので、冬用の毛布やら掛布団やらを代用して真也の寝床を作っていた。薄いけど一応絨毯を敷いているし、一応掃除もしているので、今どき畳の床でも片付けにそこまでの手間はかからない。入浴後に高級アイスをたいらげ、少し話して、明日も早いけど夜更かししたいと言う真也を黙らせて電気を消した。真也は文句を言いながらも、タオル生地のクマを抱いて嬉しげに布団を被った。
俺が寝たのは、真也の寝息が聞こえてからだった。先に真也が眠らないと眠れないのは、昔からのことだった。
半覚醒した暗闇で、聴覚が淡く機能していた。霧のような雨粒が、断続的に屋根を濡らしていた。まだ降ってるのか、と思った。細く開いた視界から、密度が引いた。不安定な息遣いが雨音に紛れていたことを、そのとき初めて疑問に思った。
右頬に触れた指の冷たさが、眠気を消し飛ばした。すぐには理解できなかった。
「ゆー君。ねえ、ゆー君」
鼻の奥がつんとするような声を滲ませ、真也は俺の頬に置いた指を少し曲げた。なにが起こっているのか、俺にはまだわからなかった。というより、頭が追いついていなかった。暗がりに慣れた目が、真也が酷く泣いていることを識別しただけだった。
「ゆー君、お願い。俺のお兄ちゃんになって」
出てくる言葉がなく、動作もなく、俺はしゃくり上げる真也をそのままの姿勢で見ていた。
何秒かあって、ようやく俺は身体を捻った。途端に両肩を強く圧された。小さくくぐもった声が出た。真也は震える吐息で、眉間をぐっと寄せて、次から次に涙を伝わせ、縋るような目で俺を見下ろしていた。
「考えてたんだよ。それでわかってた。俺は誰かに一緒にいて欲しいだけなんだって。寂しいときに、ひとりじゃないのを思い出せればいいってこと」
「落ち着け。そこどけ」
視界の端を、毛布の外に転がるタオル生地のクマが掠めた。俯せで無造作に放り出されていた。
「だから付き合うようにしたんだ。この子が一緒にいてくれるんだって。でも、ちょっと思ってた。俺が誰かといたいのは、そういうのとは違うんじゃないかとも。そしたらやっぱりそうだった。一緒にいるだけじゃダメなんだもん」
加減して突き飛ばすしかなかった。夜分に大声を出せないし、煽ることになっても困る。俺の判断の意図は、真也にも伝わったようだった。短く息を詰め、少し身を引き、申しわけなさそうに顔を伏せると、真也は袖で目元を拭った。電気を点けると、その袖に変な形の染みが広範囲でできていることがわかった。
台所に入って冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出した。雑多に詰め込んだ引き出しから紙コップを抜くのは面倒なので、我慢して俺のを使ってもらうことにする。食器棚を開け、ひとつしかないグラスにペットボトルを傾けた。外では、相変わらず雨が降っていた。
真也は俯いたまま、両手でグラスを受け取った。
「あったかいココアとかが出てくるんじゃないの」
「つまらん軽口叩くくらいには落ち着いたか」
「何時?」
「2時。ココア粉あったとしてもお湯は沸かさん」
小さく笑って、真也はグラスに口をつけた。それから、投げ出されたクマをやり場なさそうに引き寄せた。
「変な夢でも見てたのか」
真也の前に胡坐をかいた。真也は黙ったまま、首を横に振った。
「夢とかあんまり」
「じゃあさっきのなんだよ」
「わかんない」
「なんか言いたいことがあるんだろ」
「ない」
「まじの顔してたぞ」
真也はもう一度喉を動かした。俺が起きる何分前から泣いていたのか、目の中も周りも赤くなっていた。呑気に寝ている俺の隣で、クマを抱き寄せて必死に堪えていたのだろうか。そう思って見てみれば、クマの頭にも染みが浮いているような気がした。
「ずっと誰かと一緒にいたいと思ってるところが似てるって、あの子が言ってた。だから付き合おうかって」
そう思っていたとして、真也が人に話すとは思えなかった。彼女は見た目と相反して知的だったらしいので、真也の心の一部をなにかのきっかけで嗅ぎ取っていたのかもしれない。
ツナを抱きしめて離れようとしなかったあのときの真也が、クマのぬいぐるみに顔を埋めている現在の真也に重なった。
「寂しいときに寂しい思いしなくて済むと思って、あんまり考えずに頷いた。変なこと言わないし、そもそも口数少なかったし、静かで実際印象はよかったんだ。この子も誰かに横にいて欲しいんだから、埋め合えるかもと思ったりして」
一息つき、真也は続けた。
「付き合うことにしたそのときに、あっちからキスされた。びっくりしたけど一瞬触れただけだったし、当然ついてくるものだってすぐ思った。違和感はあったけど、彼女とか初めてだったし、そのうち消えて慣れていくんだと思って」
「それが消えないし、慣れてもこなかったってことか? でも数えるくらいしか会ってないし、2回だけなんだろ」
「呆れたみたいに言わないで。俺とあの子じゃ求めるものが最初から違ってたんだよ。スタートが同じなだけで、過程もゴールも全然違う」
普段の穏やかな口調とは似つかない、吐き捨てた言い方だった。一瞬後に、真也は前髪を揺らした。胸に抱いたクマの出っ張ったお腹が、また少し膨れた。
「ごめん。もう帰る」
「呆れてない。俺の言い方が悪かっただけだ。それに、この時間に歩けないだろ」
浮かせかけた腰を、真也は再度下ろした。残っているお茶を飲み干すと、空いたグラスは手持ち無沙汰に玩ばれた。俺がそれをもぎ取った。
「結局恋人っぽいことしてないんだよね。時間が合わなかったのもあるけど、どこかに行ったわけでもないし。付き合ってるの内緒だったし」
「連絡は?」
「口数少ないから。俺だってマメじゃないし」
「じゃあさ、別に違和感じゃなかったんじゃないの。いきなり距離詰められたからびっくりしただけで、そのくせに付き合ってる事実だけがあってまだ形がなにもないから、宙ぶらりんが気持ち悪かっただけで」
「形って?」
「え?」
「形ってなんなの?」
そこを切り返されるとは思っていなかった。付き合い始めでほとんど時間を共有したことがない状態を示したつもりだったのに、真也にはまるで違う意味で捉えられている。それがわかり、つい俺は口を閉じてしまった。
「共演者挨拶に紛れて、俺のとこに来たんだ。短いつまんない世間話があって、襟掴まれてまたキスされた。それだけで驚くのに、触れるだけじゃなかった。逃げ方わかんなくてびびってるのに、それ絶対あっちにも伝わってるのに、次は手首掴まれて胸まで」
胸に置かされた手を機会に、真也は彼女を引き剥がした。彼女は数歩よろめいた後、角度によってきらきら光る爪を煌めかせながら口元を拭い、表情なくまっすぐに真也を見つめた。
「明日も早いのか訊かれた。5時起きでも4時起きでも3時起きでも、間に合うように朝食作るしなんならお風呂も沸かしておくから、うちに来ないかって。今日は家族もいないし来て欲しいって」
黙って聞くしかなかった。真也に抱かれたクマが、一層お腹を大きくした。上下に揺れる小さな両腕が、息苦しくて足掻いているみたいだった。
「いらないんだよ、そういうの。なんで形にしたがるの? 物理的にどうこうして、やっと本物になるとか言うの? 俺的にはそっちのがよっぽど嘘くさいんだけど」
「嘘って……」
真也自身も、自分の胸中を掴めていない。初めて目にする苛立った様子から、そう察した。重ねそうになった疑問が、語尾と一緒に俺の中で引いた。
半年前のとある夜、真也が急に連絡してきた。昔からの寂しがりをまた発動したのだと思い、適当に付き合った。寂しいなら彼女でもとさして冗談のつもりもなく茶化した俺を、真也は肯定しなかった。それよりも、この部屋にある硬貨数枚でゲットしたぬいぐるみがひとつ欲しいとも。だいたい今泊まりに来ているのも、ぬいぐるみを選ぶついでという言い分だった。
「で……断ったんだよな。それで終わりか?」
「それで終わり。バカみたいだけど、納得はできるよね。需要と供給の不一致だもん」
「不一致?」
今度は拗ねたみたいに息を抜く真也に、俺もまたひとつ覚えに聞き返した。
「ご飯食べながら話したじゃん。すれ違い」
会話に挟まれた不思議な空白の謎が解けた。すれ違いってそういうことか。
「でもこれって、たぶん俺が変だよね」
無意識に下がっていた視線が飛び上がった。真也の腕に収まるクマは、さっきよりも少し呼吸しやすそうになっていた。
「不器用な彼女が不器用に愛情を求めてるのに、応じないどころか突き飛ばす彼氏」
「要するに、その子と真也の歩幅が合ってなかったんだろ」
「違う」
彼女の大胆な行動にきちんと理由を見出しているところに、真也が無関心だったわけではないことを見たつもりだった。不意にしてあっけない否定に、意図せず口が閉じた。
「例えば、嵌まりそうでも微妙に嵌まらない蓋があるじゃん。似てるけど、ああ、こっちのほうだったかってなるあれ」
「たまにあるけど」
「それ」
今日の真也は、ころころと表情が変わる。もうこの話は終わりにしたいとばかりに、真也は溜息混ざりにクマの両手をいじっていた。
未だに雨粒の散るカーテン越しの窓辺に、ふと真也は視線を向けた。雨垂れが少しの風に揺られ、桟や網戸を叩いていた。その音に、少しずり落ちたクマを胸に抱き直しながら、じっと真也は耳を傾けていた。
真也が今なにを考えているのか、なにを思い出しているのか、その映像は俺にも見えている気がした。




