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百崎 2

 亮太との再会は本当に偶然だった。

 彼はたまたまその日、この病院に大学の後輩の見舞いに訪れていたのだ。そこでフラフラと歩く百崎を見かけ、声をかけた。が、反応がない。おかしいと思い、追いかけてきた。後日そう言っていた。

 百崎は、亮太に腕をとられた時、酷く暴れた。

 「夫の元に行かせてくれ」と何度も叫び、自分の手を握る彼を振り払おうとした。

 髪を振り乱し、我を忘れ、喉が擦り切れるほど絶叫した。

 亮太を力の限り殴り、蹴り上げもした。

 しかし、亮太は頑として動かなかった。

 彼女の哀しみを、苦しみを、すべて受け止めるかのように。

 そして、彼は自分が落ち着くのを待って、事情を聞き、静かにこう言ったのだ。「一緒に旦那さんの所に戻りましょう」と。

 亮太に支えられ戻った霊安室には、やはり夫の横たわる姿しかなかった。何度見ても揺るがない現実。心が、体が、バラバラに引き千切られ、崩れ落ちてしまいそうだった。こうやって戻って来て、現実を目の当たりにしても、受け入れることも、ましてやこの先心を強く持って生きていく事も、想像すらできなかった。

 亮太はその後、葬儀屋が来るまでそんな百崎の涙を、じっと受け止めていた。

 ただ、黙って、彼女を抱きしめ。

 ただ、静かに、死ぬなとその温もりで伝えていた。

 葬儀もごく簡単なものだった。

 親も友人も呼ばず、ひっそりと行った。

 ほとんど、いや、百崎以外の人間には彼はもう死んだ人間だったからだ。

 一人で葬儀をし、一人で夫の生前のかたずけをし、一人で夫の死と向き合おうとした。でも、そうしている中で『死』は常に甘美な誘惑を百崎に囁きかけた。

 一人で生きていくこの世界は、まだまだ果てしなく長く、そして絶望的なほど寂しい。夫の住まう世界に行こう。少なくとも、夫のいないこの世界に別れを告げよう……と。

 それをしなかったのは、亮太の存在があったからだった。

 その日から、亮太はほぼ毎日百崎の家に訪ねては、黙って数時間傍で過ごすようになっていた。だから、実際は葬儀の後も、片付けの後も、一人じゃなかったし、夫との死とも一人で向き合わずにすんだ。

 少しずつ、少しずつ、固く絡まった紐が解けていくように、百崎の中にあった死という幻想も薄れていった。


 そんな中、亮太の存在が大きくならないわけはなかった。

 夫が亡くなって、49日を迎えた次の日、百崎は初めて帰ろうとする亮太を引きとめた。

 一人になりたくなかったわけじゃない、彼にいなくなって欲しくなかったのだ。彼も、そのニュアンスは察し、戸惑っているようだったが、すぐに頷いた。

 百崎はあの夜の事を今でも覚えている。

 空には夏の夜の星座がきらめき、肌にまとわりつく熱の帯びた空気に汗がにじんでいた。

 一緒に食事を終え、互いにビールの缶を手にした二人はベランダに出ていた。

 遠くから風鈴の音が聞こえていた。

 夫が意識を失って以来、こんな穏やかな夜は初めてだった。

 時折吹きすぎる風が心地よく、火照った体を撫でていく。弄られた髪が背中に流れる。

 見ると、すぐ傍によりかかれる存在がいる。

 幸せだ、そう思った。

 酔いのせいにはできない感情が、胸を打った。

 百崎は懸命にその鼓動を抑えようとした。

 彼には将来を誓い合っている彼女がいる。しかもその彼女もまた自分の教え子だ。自分は夫を失ったばかりの寂しさに負けたのか?この雰囲気に飲まれているだけなのか?

 アルコールに潤んだ瞳で亮太の方を見た。引きあうような視線が交わる。そして、お互い、そこから逃れる事が出来ない。

 百崎はもう一度問いかけた。

 それとも本当に自分は……。

 風が凪ぐ。風鈴の音が止む。

 もう、そんな自問自答は、二人の間の熱には無意味になっていた。

 どちらからともなく、寄り添っていた。

 形にならない期待感と、踏み出せない理性が沈黙を呼んだ。

 二人とも、息を潜めてその先を予感した。

 しかし、結局はそうはならなかった。

 部屋に戻った二人は、朝まで飲みかわし、それで終わった。

 朝日がアルコールの代わりに空いたグラスに注がれ始めた頃、百崎と、たぶん彼も悟った。

 自分達は『そう言う関係』にはなれない。お互い、そういう性分なんだ、ということを。


 百崎は自分を心配してくれる、今や頼りない生徒ではなく、心から信頼する男になった亮太に首肯してみせた。

 彼は、ずっと心配し、自分を支えてくれていた。

 この結婚式に出席するのも、ましてや夫の死んだこの病院に来るのも、ずっとずっと、自分以上に……。

 でもな、五木。だから、私は結婚式にも出ることができたし、ここにも来れたんだよ。

 百崎はそう心で語りかける。

10日前、彼と一緒に夫の月命日に墓参りへ出かけた時に決めたのだ。

 いつまでも、彼の優しさに甘えてはいけない、だからこの結婚式で区切りをつけようと。

 それで、今日一日「もう自分は大丈夫だ、これからは一人でやっていける」それを告げ、これまでを感謝するために彼と過ごしてきた。

 百崎はかつての生徒、そして亮太の彼女である弥生をじっと見据えた。

「五木は、夫を失った私を支えてくれていた。それだけだ。誓って、お前達が心配するようなことはない。五木のためにこれだけはハッキリ言っておくよ」

「先生」

 亮太の声に百崎は鼻から小さく息を抜く。心の中で「残念ながらな」と付け足した。

「一之瀬、お前、一度連れてきただろう?この病院に」

 あれは彼女達がまだ高校生の時だった。一之瀬弥生が亮太への気持ちに素直になれず、他の男子からの告白に戸惑っている時に「後悔を残すような事をするな」と夫にあわせたのだ。偉そうに言えた口じゃなかったな、と苦笑する。

 その苦笑を、弥生はうっかりしていた彼女に向けたものと勘違いしたらしく、「あ」と小さく声を漏らして、申し訳なさそうに頷いた。

「なんか、むっちゃんの事でいっぱいいっぱいで、気づきませんでした」

 百崎は頷く。そんなものだろう。

 五木が彼女たちに黙っていたのは、夫の死を彼の口から告げていいものかどうか、躊躇ったからだ。自分の事を、この場でも心配し、その事実を形にするのを留まってくれたのだ。

 律儀な彼にとっては、隠し事をしていくのは彼女である弥生に対して罪悪感を産んでいたかもしれない。

 そんな事も気を回せないでいたなんて、自分は教師失格だ。

「これで、誤解は解けたか?」

 声をワントーン上げて、他の2人にも視線を移した。

 皐月がまだ眉を寄せている。

「じゃ、どうして別れたのよ」

 そうだ、それは初耳だった。まさか、自分が原因でもあるまい。それはさっき彼自身も否定していた。自分に黙っていたのは、きっと、ようやく落ち着いてきた自分に他の問題で心配かけたくなかったから。そんな所だろう。

 百崎は亮太の横顔を見る。それは依然として頑なで口は真一文字に結ばれていた。

 この、呆れるほど誠実で朴訥な青年は、まだ、誰か他の人間も庇っている。自分以外の誰かを守ろうとしている。

 彼の拳が握りしめる沈黙に、百崎がそう確信した時だった。

 時間外通用口の扉が開く音がした。

 次いで小走りの足音が近づいてくる。

 乙女が顔を上げ、腰を浮かした。

「猛くん」

 そこに現れたのは、百崎と同じ年くらい……三十代前半とみられる男性だった。

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