百崎 1
不意に湧いた笑い声に、亮太は軽い頭痛を覚えた。
自分の傍らで肩を揺する彼女は、自ら口を押さえても尚、笑いを堪え切れないらしく、目には涙まで浮かべている。
「私と、五木が、か?」
ようやく形になったのは、そういう言葉だった。
向かいに座る三人はぽかんとしている。
百崎が亮太の方を一瞥した。
「それも、いい話かもしれないな」
からかう声の中に僅かに滲む感情に、お互い気がついていないわけじゃない。でも、そういった関係になりえないのは十分すぎるほどわかっていた。
亮太はわざと大きく溜息をつくと、早合点もいい所の3人を見据えた。
「なんだ、お前ら、そう言う風に俺らを見ていたのか?」
「え?違うの。亮太は先生に乗り換えるために、弥生と別れたんじゃないの?」
皐月が大きな目をさらに大きくして自分をじっと見つめた。こんな目に見つめられて嘘をつける人物はそうはいないだろう。
「お前ら、本当に別れたのか?」
今度は百崎の視線が刺さる。
亮太はもう一度溜息をつかざるを得なかった。
彼女にはできるだけ知らせたくなかったからだ。少なくとも、今は……。
百崎は亮太が答えないでいると、弥生の方を見たようだ。自分の正面に座る弥生は、今にも泣き出しそうな顔で頷いている。
胸がまた軋む。
ひび割れた傷は無理やり理屈で塞いだはずなのに、その内側から溢れる感情に傷口はヒリヒリと痛んだ。
「って、先生、知らなかったんですか?」
「あぁ。今、知った。どうして?」
百崎が自分の腕を掴む。指先から伝わる焦燥感に、彼女自身もまた、自分が原因ではないかとどこかで思っているのかもしれない。
亮太はそれに答えるように首を横に振った。
ちらりと乙女を見る。
良かった、まだ彼は自分と弥生との別れの原因に気がついていないようだ。
「先生は、関係ありません」
それ以上口にできる事はなくて、亮太は両ひざの上で両手を握りしめると口を噤んだ。
「やっ。ちょっと、待ってよ」
皐月が納得いかないと言わんばかりに、自分達の間を隔てている机をたたき立ち上る。
「じゃ、どういう事よ?だって、変でしょ?二人の仲って言うか、空気って何か今までと違うもの。亮太なんか、先生に腕を回したりしてさ。睦月が倒れたときだって、なんか先生をかばっている感じで……」
「それは……」
説明しかけて言葉を飲む。
自分が話していいことじゃない。亮太は頑なに目を伏せ、一点だけを見つめた。確かに、言われてみれば誤解を招く行動だったかもしれない。でも、それは……。
「五木、もういい。すまなかったな」
百崎の手が自分の肩に添えられるのを感じて顔を上げた。すぐそこに、彼女の困ったような笑顔があり、どうすればいいか混乱する。
しかし、百崎は「もういいんだ」ともう一度呟くと、顎を引いた。
それから彼女は『先生』の顔に戻り一同を見渡す。
「皆に黙っていてすまなかった。隠すつもりはなかったんだが、なかなか話しだせなくてな」
「やっぱり、二人は」
「いや、違う」
百崎は乙女に手刀を振ってみせた。そしてにやりと微笑み亮太を振り返る。
「残念ながらな」
勘弁してくださいよ。亮太は苦笑して眉尻を下げた。
百崎はその表情で満足したのか、もう一度皆を振り返ると、小さく息をついた。
その胸の内を亮太は誰よりも知っている。だから、殊更心配した。
その事実を口にしてもいいのかと。
「先生」
「もう、いいんだ。私自身もけじめをつけなくてはいけないと、思っていたんだ」
百崎はそう言うと、両手を組んで、自分の膝の上に載せた。
あの、薄暗い廊下が蘇る。
何もかもに見放され、たった一人で全ての重圧に耐え、声を殺して泣いていた、あの姿……。
百崎は一瞬、泣き出しそうな顔をしてから、すぐにその唇に笑みを湛えた。それは諦めの笑みだ。
そして、目を上げると、まるで現実を直視するように顔をぐっと上げ、静かに、しかししっかりとした声でこう言った。
「私の夫が、先日、息を引き取ったんだ」
と。
それは六月も終わりの事だった。
突然の事ではない。もう、何年も何年も覚悟してきた『その日』、百崎は一人で夫の死を看取った。
夫とは学生の時に知り合い、お互いの両親の反対を押し切った結婚だった。卒業の日、籍を入れに行こうと約束をした。その時、百崎の方が彼の両親につかまって約束の場所に約束の時間に行けなかった。
それを知らない彼は待っていた。明るい未来を、幸せな将来を思い描きながら。
しかし、約束の時間にそこに訪れたのは、未来を共に歩く手ではなく、暴走したトラックだった。
意識不明の重体だった。
先に籍を提出していたため、病院に駆け付けた時、百崎はすでに配偶者となっていた。
夫の容体は安定した。植物人間という状態で。
その命の選択権を握る事となったのは、数時間前に妻となった彼女だった。そして彼女の選んだ道。それは、延命だった。
意識がない、戻っても自立した生活は保証できない。それでも、百崎は彼に生きていてほしかった。生きてさえいてくれれば、自分は幸せだと、そう思っていた。
百崎は、その決断をした時に自分をなじった夫の両親の顔を思い出し、視線を僅かに下げた。
「これ以上、息子を苦しめないで」母親の懇願する声、でも、一度動き出した延命装置は本人の鼓動が止まるまで、停止する事は、今の法律では叶わない。
それから、百崎は高校の保健医をしながら、ずっと意識の戻らぬ夫の看護を続けて来た。
声をかけても
手の温もりを伝えても
四季の移り変わりを告げても
どれほど
心を捧げても
瞼一つ動かさない
管につながれた
不自然な呼吸をする人間
それでも、生きていてくれている。彼はここにいる。
その一点の事実が、この数年の彼女をずっと支えて来ていた。数年の月日は少しずつ澱を積むように覚悟を芽生えさせた。
そして、『その日』は来た。
しかし、『その日』を迎えた時、彼女はそんなもの、何の役にも立たない事を痛いほど実感した。
相手の両親も自分の両親も、彼の死には立ち会いもしなかった。迎えにも来なかった。どちらも、彼はあの日に死んだことになっていたからだ。
彼が、もうこの世のどこにもいない。
その現実に一人で向き合わないといけなかった。
報いだ。エゴで彼の命をここまでひっぱった報いだ。
葬儀屋の迎えを待つ霊安室。
目の前に横たわる、あの機械音からようやく解放された夫の安らかな顔。
罪悪感と喪失感が絶望的なまでに彼女の影を掴み、飲み込もうとしていた。
生きていても、仕方ない。
そう思った。
魂を失った夫にキスをした。
数年ぶりのキスは冷たく、固く唇に跳ね返って来た。
どこをどのように歩いたのか、記憶が定かではない。
ただ、病院の屋上に向かっていた。屋上に差し掛かる階段の踊り場。
五木亮太と再会したのは、そんな場所だった。




