交差
痛いほどの沈黙が五人の間に降りた。
耳に届くのはどこかの病室から響く一定したリズムのモニター音くらいだ。
看護師たちの忙しない足音がそこに蝶の羽音のように時々重なり、胸に何とも言えない不安感と焦燥感を掻き立てた。
弥生は先生の肩を抱く亮太から目をそらすと、軽く拳を握る。
皐月に言われるまで二人の変化に、気がつかなかったわけじゃない。
むしろ席に着いた時から、二人の様子は少しおかしかった。自分越しに交わる二人の視線は、言葉を交わすよりも近しく感じたし、高砂の十津川の所へ二人で行く後姿には形にしようもない距離感があるような気がしていた。
それが、睦月が救急車で運ばれる段になり、明確化した。
何か、自分の知らない関係が二人にあるのは、いまや明白だった。少なくとも、亮太はどんな理由があっても、簡単に女性に触れるような男じゃない。
「ちょうど良かったわ。亮太、先生。聞きたい事があるんです。乙女の彼氏もロビーに来るみたいだし、一度皆で下におりませんか?」
隣で刺々しい皐月の声がした。
彼女は向き合うつもりなのだ。
どんな事実がそこに待っていようと、誤魔化さない、目を逸らさない、そんな強さを持つ彼女にとって、この曖昧な靄がかったような空気が逆に耐えがたいのだろう。
「おい。何の事だよ? 睦月は無事だってわかっただろ? 先生は今……」
「睦月の事じゃないわ。『私達』の事よ」
皐月は亮太の言葉を奪うと、一蹴した。
亮太が訝しげに眉を寄せ、一瞬、今までの癖で弥生の方を見るが、彼も相手が違うと思ったのか慌てて乙女の方を見た。
乙女は「ここは皐月に従わないと場が治まらない」と目で語り、顎を引く。亮太は頷いた。
亮太は百崎の耳元で何かを囁く。百崎は亮太に苦笑しながら頷いた。
やはり、二人の空気は『特別』だ。
弥生はそんな二人を目の当たりにし、息苦しいほどの胸の痛みを唇を噛みしめて飲みこんだ。
体中の血液が逆流しそうなほどの、ざらついた感情が心臓を脈打つ。
この間まで自分のいた場所。
ずっと自分が繋いでいくはずだった、彼の手。
それが、どうして恩師である百崎先生のものになっているのだろう?
「行くわよ」
皐月が弥生の背中を軽く押すように叩いた。
それにスイッチが押されたかのように、弥生は顔を上げ、そこで初めて自分が酷く全身に力を入れ動けないでいたのを知る。
「大丈夫」
乙女が弥生の背を支えるように手を添えた。
その温もりに、まるで豪雨の中、ようやく雨よけを見つけたような気分になって弥生は目を合わせる。
穏やかな乙女の瞳は「前に進もう」そう語っているような気がして、弥生は頷いた。
エレベーターから到着を告げるベルが聞こえた。
はじまりの合図だ。
弥生は息を飲む。
終わりの、始まり。
「弥生」
「うん」
乙女の声に、一歩踏み出す。
どうせ、終わった恋なのだ。恐れる事も、これ以上傷つくこともないはずだ。
狭い空間に5つの想いが乗り込む。
一番後方に乗り込むと、皐月と乙女を挟んだその背中の向こうに、並んだ二つの背中が見えた。
これ以上、傷つき様なんかない。
弥生はそう、自分に言い聞かせると、聞きわけの悪い胸を握りしめるようにその前で手を組んで、二人を視界に入れないように俯いた。
休日の外来ロビーには人影はなかった。
ガランと広い空間は、整然としていてそつがない。安心感を与えるための配慮か、所々に緑の植木があったり、壁や椅子のカラーを優しくしているのに、ここにはどこか人の甘い期待を突き放す冷たさがあった。
目の前の二人はこの期に及んでも、離れる気配を見せなかった。
皐月にはそれが少し意外にも思えた。
以前の亮太や先生なら、二人が今、どんな仲だろうとこの場くらいは弥生に気を使って離れてくれそうなものだった。
でも、エレベーターの中でも、そういう距離が二人にとって日常的、少なくとも始めてではないと言わんばかりに自然で、ぎこちない様子は微塵も見受けられなかった。
特に、不思議だったのが亮太だ。
亮太は昔から、周囲が呆れるくらい、頑固で奥手だ。弥生に告白したあの時も、弥生の姉と自分の兄との婚約指輪を無くしてしまい、それの落とし前をつけるまで、そして弥生と親戚関係になってしまう前に告白しようと、一人バイトで金を貯め、奔走していた。そういう順番や筋を、皐月に言わせれば、馬鹿とも思えるくらい守る男だ。
加えて、彼らは付き合ってもすぐに体の関係をもたなかったらしい。これもまた、呆れる話だ。今日日、付き合わなくてもフィーリングが合うだけで体を重ねても、特別な話じゃないのに、両想いで親公認の仲でも、亮太はなかなか弥生に手を出そうとしなかった。
弥生の話によれば、二人がそう言う仲になったのは、亮太が大学の授業料を奨学金で、生活費を自分のバイト代で賄えるようになってからだという。つまり、自立しなければ女ひとり抱こうとしない、奴なのだ。
そんな奴が、はたして将来を約束した彼女から簡単に他の女に乗り換えるだろうか?
しかも、相手は恩師。一周りは違う。その上、先生には立派な夫がいる。立派といっても、病院で寝たきりの意識の戻らない体だが……普通の男ならまだしも、既婚者にあの亮太が手を出すとは思えなかった。
何考えてんのよ。
窓際にある三人掛けのソファの一つに、二人並んで腰掛ける亮太を、皐月は睨みつける。
亮太は時折弥生の事を気にしつつも、今は何故か先生の方をしきりに心配しているようだった。先生はその度に微笑を浮かべ「大丈夫」と呟いている。
何も知らない人間がみれば、仲睦まじいとも思える二人の空気だ。
「私が端に座ろうかな」
乙女の声に皐月は顔を上げた。
そうだ、人の心配ばかりもしていられないのだ。
自分だって、決戦の時だ。
そう思いながら皐月は心の中で自嘲の笑みを零した。勝負といっても、こっちは自分の負けが確定した勝負なのだ。
皐月は頷くと「わかったわ。弥生、奥に行って」と口にする。
これで亮太・先生の向かいに、弥生、自分、乙女の順で座る事になった。
乙女がロビー側に座りたがったのは考えるまでもなく、彼氏の到着を確認しすぐに動けるようにするためだろう。
どんな奴なんだ。
皐月はこれまでの自分の知りあいにいるゲイの事を頭に思い浮かべた。
社会人になって、特にファッション業界に入って、思っていたよりこういう人間が少なくないのを知った。ゲイといっても、いい奴もいれば悪い奴もいる。特別な事は何もない。性癖が少々マイノリティーなだけだ。
つまり、同性愛だからと言って純愛とは限らないという事だ。
乙女を本当に大切にしていない奴なら、乙女の目を覚まさせてやる。自分に振り向かなくても、乙女には自分の納得いく相手じゃないといやだ。そんな筋合いはないのかもしれないが、それでも……。
「話って、なんだよ」
その時、沈黙を破ったのは、珍しく亮太だった。
普段は口数の少ない彼が、明らかに苛立っている様子だった。
皐月は自分を落ち着かせるように深く息をつく。
弥生の方を一瞥した。
目が合う。
弥生は弱々しく目だけで笑って見せるが、それは吹き出しそうになるくらい下手な笑顔だった。
頑張ろう。弥生。
皐月は心の中でそう呟くと、二人を見据えた。
「じゃ、単刀直入に訊くけど」
両隣に緊張が走るのを肌で感じる。対して、向かいにいる二人はこちらがもどかしさを覚えるくらい落ち着いていた。
なによ。
舌打ちしたくなる。それほどまでに、自分達の仲は出来上がっているとでも言いたいのか?
皐月は手を握りしめた。
乙女のために施してきたネイルアートのストーンが一つ剥がれ、床に落ちた。
「亮太。弥生と別れたのは、先生に乗り換えたから?」
まるで、切り札をつきつけたような空気。
先生の肩を抱く亮太の頬がひきつった。
隣で弥生が息を飲んでいた。
こんな聞き方、あからさますぎたかもしれない。でも、ごめん。私には駆け引きなんかできない。
皐月はそう思いながら、小刻みに震わせる弥生の肩に手を添えた時だった。
空気を切り裂くような声。
初めは、それが何だかわからなかった。
驚いて目を見開きその声の主を見る。
先生だ。
先生が声を上げて笑っている。
腹を抱えんかというほどの笑いに、度肝を抜かれる。
一体、どういう事だ?
皐月は俄かに、この笑いの意味が理解できず、ただただ彼女を見つめた。